第3話 魔法の手ほどき
それから三人は無言で防壁に沿って歩き続けた。
陸側からの侵入を許さぬように建てられた高さ十メートルの石壁の全長は十五キロメートルに及ぶ。
積み重ねられた大量の石と夜風に揺れる野草だけの代わり映えのない景色が続く。
魔女狩りの方は一旦打ち切られたのか、道中に追手と会うことはなかった。
リアに抱かれたままのネンコが退屈だと言わんばかりに大きなあくびを繰り返す。
「着きました」
歩きはじめてからたっぷり三十分ほど経ったところでエミリーは足を止めた。
「ここですか?」
そこは何の変哲もない壁の前だった。
リアが怪訝な顔をして一歩後ずさる。
エミリーは安心させるように微笑むと、そのしなやかな指で壁の一部にそっと触れた。
リアとネンコの視線も自然とその部分に注がれる。
はた目にはただの壁にしか見えない。
だが……。
「幻術!」
「さすがリア様。正解です」
エミリーの腕が石壁の中に吸い込まれる。
「ここから街へ出入りできます。覚えておいてください。この部分だけ微弱な魔力を発してますので、リア様ならば見落とすことはないでしょう」
リアは頷く。
一度、幻術と分かってしまえば魔力探知に優れているリアがこの場所を見つけるのは造作もないことだ。
「ふーん」
この中で自分だけ魔力を感じないことが面白くないのか、ネンコはつまらなそうにしている。
「ネンコ様はこのような入り口を使わずとも、壁を飛び越えてしまえばよいではないですか」
「まあ、そうなんだけどなあ」
まだどこか拗ねた感じのネンコに、エミリーはわざとらしく驚いて見せる。
「まさかネンコ様ともあろう方が、この程度の壁も越えられないと……」
「そんな訳ないだろ。見てろよ」
エミリーの言葉を挑戦と受け取ったのかネンコはリアの腕をするりと抜け出して地面に降りる。
次の瞬間、ネンコは弓から放たれた矢のように上空に向けて飛び出した。
そして、飛び上がった先で一回だけ壁を蹴るとそのまま壁の向こう側へと姿を消してしまった。
「ネンコ様……素敵……」
エミリーはネンコの消えた方を恍惚とした表情でしばらく眺めている。
リアはその美しい横顔を盗み見ながら、ネンコを手玉に取るこの魔術師に対する警戒を強めるのだった。
エミリーとリアは幻の壁を抜けて街に入った。
リアは壁を抜けるときにこの抜け穴から魔物やならず者が入って来ないのかとエミリーに訪ねたが、それについては問題ないということだった。
あの穴は常に監視されており、誰かが通り抜けた場合はラテリアとエミリーに伝わる仕組みになっているらしい。
リアの心配するような危険因子だった場合は、高位の魔術師である二人が責任を持って排除するというのだ。
エミリーはともかく、悪魔殺しの賢者に太刀打ちできる魔物や人間がいるとは思えなかったため、納得のできる話だった。
抜けた先はだだっ広い空き地だった。
街の明かりが遠くに見えるが、二人が出てきた場所には何もない。
リアの膝くらいまで伸びた雑草がさわさわと夜風に揺れているだけだ。
「よう。遅かったな」
声のする方を見るとネンコが立っていた。
表情は変わらないがどこか得意げに見える。
「ネンコ様! 素晴らしかったですわ」
エミリーはすかさずネンコに駆け寄ると両手で抱えて頬ずりする。
「はっはっはっ。そうだろそうだろ」
ネンコも美人に持ち上げられて、まんざらでもなさそうだ。
「それで、ラテリア様はどこにいるんですか?」
リアはそんな二人のやり取りを少し冷めた目で見ながら問う。
「ああ、わが主様ならここに」
そう言うとエミリーは妖艶な唇を僅かに動かした。
どこにと問い詰めようとしたリアの前に突如として灰色の巨大な塔が姿を現す。
あまりの出来事にリアは口をパクパクさせる。
さすがのネンコも呆然と塔を眺めながら沈黙する。
「さあ、こちらへ」
エミリーだけが何事もなかったかのように両開きの扉を開けてさっさと中に入っていく。
ネンコもエミリーに掴まれたまま、為す術なく連れて行かれる。
衝撃覚めやらぬリアだったが一人だけ置いて行かれそうになったため、慌ててあとに続いた。
大扉は三人が入ると音もなく閉じた。
そして、それに合わせて巨塔も消え失せ、跡には手入れのされていない空き地だけが広がっていた。
塔の中は松明のような光源もないのに不思議と明るく、窓もないのに丁度よい室温に保たれていた。
「すごい……」
魔術師であるリアには高度な魔法の力が働いているのが分かった。
まだ見ぬ賢者に敬意と畏怖を覚える。
そんなリアを見て、エミリーは穏やかな笑みを浮かべる。
その時、ホールの中央付近で魔力が渦を巻いた。
魔力はみるみるうちに強くなり、やがて一体の魔物を産み出した。
「あら?」
「悪魔!」
リアとエミリーが異なる反応をする。
次いでリアはエミリーの方を見る。
やはり罠だったのではないかという疑いの目だ。
少女からあからさまな敵意を向けられながら死霊術師はため息をつく。
「まったく、主様ときたら……仕方ありませんね」
エミリーは大人しく手に収まっているネンコをリアに差し出す。
リアは警戒しながらネンコを受け取った。
「疑いは晴らさなければなりませんね。それに、お二人には私の力をお見せしておいた方がいいでしょう」
彼女はリアに背を向けて、ゆっくりと悪魔に近づく。
エミリーの倍の背丈はあろうかという赤褐色の悪魔は山羊のような顔を自分に歩み寄ってくる矮小な生き物に向けた。
口から蒸気のように熱を持った息が吐き出される。
リアは初めて見る悪魔の恐ろしさに怯え、身体を動かすことができなくなっていた。
しかし、それは無理なからぬことかもしれない。
この悪魔はおそらくリアがこれまで会った中で最も強力かつ凶悪な魔物だ。
かつてリアを苦しめた闇の魔獣以上に。
そんな悪魔を前に、エミリーは腰に手を当てて余裕の笑みを浮かべる。
「かかっておいでなさい」
エミリーの言葉を皮切りに戦いが始まった。
悪魔は目の前の不遜な人間の身体を引き裂かんと太い腕を振り上げた。
エミリーは避ける素振りも見せずただ突っ立っている。
鋼鉄以上の硬度を持つ爪は的確にエミリーを捉え、彼女の上半身を吹き飛ばした。
その場に残された下半身から盛大に血飛沫が上がる。
リアが目を覆い、悲鳴を上げた。
大量の血が床を濡らす。即死だった。
悪魔は血塗れの爪を驚くほど長い舌でひと舐めすると、次はお前だと言わんばかりにリアの方に身体を向けた。
大量の血に染まった石畳の床を踏みつけてゆっくりとリアに迫る。
彼女がその場にへたり込むと同時に、エミリーの下半身が重力に従い前のめりに倒れる。
べちゃっと吐き気をもよおす嫌な音が塔内に響いた。
次いで、よく通る美しい声が響き渡る。
「魔術師が戦いに勝つには」
リアが驚いて顔を上げるとエミリーが悪魔の後方に立っていた。
傷を負っていないどころか血に濡れてすらいない。
更にエミリーは言葉を続ける。
「魔法を唱えることができるだけの充分な時間を作り出す必要があります。その方法は大きく分けてふたつ。今のように敵を惑わし隙きを作ること、そして……」
彼女はリアに諭すように語りかけながら、素早く呪文を唱える。
悪魔がエミリーに飛びかからんと身構えた瞬間、足元の血溜まりから大量の赤い槍が勢い良く突き出した。
魔法で創られた槍は悪魔の身体中に突き刺さり、彼をその場に縛り付ける。
「もう一つはこのように動きを封じることです。これができれば接近戦でも充分に勝機があります」
もはや足を踏み出すことさえ叶わない哀れな悪魔を目の前にして、彼女はこの戦闘で三つ目となる魔法を披露する。
『爆ぜよ』
魔法の完成とともに床に転がっていたエミリーの下半身と上半身が轟音をあげて爆発した。
直撃を受けた悪魔の身体は肉片となって四方に飛び散る。
離れていたリアも強い熱波を受けて、思わず顔を伏せる。
次にリアが顔を上げたときには、室内には何も残っていなかった。
爆散した悪魔は元の世界に戻ったようで、欠片すら見当たらない。
元エミリーの死体は灰となり、床の血も高温の炎により蒸発していた。
そして、圧倒的な力で悪魔を葬った女魔術師はいまだ講釈を続けている。
「あと如何にして触媒を準備するかということも魔術師にとっては課題です。今回、私は最初の魔法の効果により血液と死体、ふたつの触媒を創り出しました。それにより、足止めのために『血槍』の魔法を、止めを刺すために『屍炎』の魔法を使うことができたのです」
エミリーは呆然と座り込んだままのリアに近寄り、手を差し伸べる。
「ちなみに最初の魔法は死霊術、第六位の『死化身』といって、血肉で出来た自分そっくりの人形が死に至るような傷を一度だけ肩代わりしてくれる魔法です。事前に唱えておけば、あとは自動で発動してくれるので便利なんですよ。まあ、高価な触媒と長時間に及ぶ儀式が必要ですが」
リアは話を聞きながらエミリーの手をつかむ。
その手はぞっとするほど冷たく、生きている者の身体とは思えなかった。
リアは慌てて立ち上がると、すぐに手を離して礼を述べる。
そんなリアの様子を見て一瞬だけ悲しげな表情を見せたエミリーだったが、すぐに笑顔を作る。
「さあ、ラテリア様はこの上にいらっしゃいます」
前方を指差して進むエミリーにリアは素直に従う。
リアは彼女の力に恐怖を感じる一方で尊敬の念を抱きつつあった。
第六位の魔法をいとも簡単に操り、巧みな戦術で悪魔を圧倒した死霊術師。
同じ魔術師として自分より遥か高みにいる彼女から学ぶことは多いだろう。
また、もうじきミスタリア最高の賢者と謳われるラテリアにも会える。
彼の実力はエミリーよりも上のはずだ。
リアはいつの間にか自分が早足になっていることにも気づかずにエミリーの後を追う。
「嬉しそうだな」
ネンコはそんなリアを見上げながら誰にも聞こえぬほどの小さな声で呟いた。
彼はしばらくの間そうしていたが、視線を前方に戻すと再び押し黙る。
変わらぬ表情からは心中を読み取ることはできない。
しかし、沈黙するその姿はどこか寂しげに見えた。
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