第34話 神の使徒

ミスタリアの王城シャイニング・ロード。

その廊下を早足に歩く男の姿があった。

男の名はバドクゥ、ミスタリア王国の宮廷魔術師である。

いつもは冷静沈着な彼だが、この日はどこか違っていた。

彼は手にしている杖を大理石の床に苛立ったように突き立てながら歩いて行く。

既に夜は更け、城内は静まり返っているため、杖の音はやたらと大きく辺りに響いた。

魔術師は廊下から中庭に出ると、城の北西に位置する別塔を目指す。

塔は「魔術師の塔」と呼ばれており、王国に仕える魔術師たちの私室や研究室が整備されていた。

そんな彼らの長であるバドクゥの自室は塔の最上階にあった。

しかし、辺りに階段らしきものは見当たらない。

バドクゥは塔に入ると中央に描かれている魔法陣に足を踏み入れる。

そして、彼が何か呟くと魔法陣が強い光を放ち、彼の姿はその場から消え去った。

『転送』の魔法がかけられた魔法陣は、使用者を瞬時に別の場所に移動させる。

ただし、どこにでも行けるわけではなく、事前に繋げている魔法陣間での移動となる。


魔法の力で自室に戻ったバドクゥは杖を壁に立てかけ、硬い木製の椅子に腰を下ろす。

彼に与えられている部屋は、三、四人が不自由なく生活できるほど広かった。

その割に置かれている物は少なく、机と寝具、本棚以外にはこれといったものは見当たらない。

無駄を嫌う彼の性格が表れているようだった。


バドクゥは机に肘を付き、顔の前で手を組む。

そして、落ち着きなく爪を噛み始めた。

苛立ちの原因は、彼の立てた計画が失敗したことにあった。


(カルマよ、何があった!?)


カルマとは彼の部下のダークエルフの名である。

高位の闇術を扱うことができる優秀な暗殺者であり、バドクゥの手足として様々な裏の仕事をこなしてきた。

バドクゥは二週間ほど前、そんな彼に任務を与えて、手なづけたトロール二体とともに送り出したのだが、どうやら失敗したようだった。

その後、音沙汰もない。

裏切ることは考えられないので、何かしらの邪魔が入ったか、予想外のことが起こったのだろうとバドクゥは考えている。


(長年に渡る計画だったと言うのに……)


バドクゥは深い溜め息を吐き、頭を振る。

彼が部下であるカルマに与えた任務は、邪神ミトラに供物を捧げることである。

供物の準備は既に出来ていた。後は然るべき言葉を唱えるだけだった。

八年前、不死王ザムート配下の魔術師がある村に呪いをかけた。

魔術師の呪いは強力で、一瞬にして村人全員の命が奪われ、その魂は呪塊という檻に囚われた。

魔術師が何の目的でそのような呪いをかけたのかは分からない。

おそらく、ただの戯れだったのだろう。

その証拠に彼は解呪の呪文を呪塊の近くに記し、そのまま放置したのだ。

いずれ誰かに呪いを解かれることを望むかのように。

人間にとっては屈辱的な事だが、バドクゥにとっては幸運だった。

彼は誰よりも早く解呪の言葉を見つけ出すと、魔法の力で言葉を書き換えた。

そして、まだ供物として未完成な呪塊に定期的に追加の生贄を与え、成長を促してきた。

今回の計画が上手くいっていれば、ミトラは現世との門を開くことができる力を得ることができたはずだ。

それだけに今回の失敗は痛かった。


バドクゥは椅子から立ち上がると、部屋の奥まで歩き、壁に向かって右手をかざす。

その後、彼が何か呟くと、目の前の壁は跡形もなく消え去り、新たな部屋が姿を現した。

バドクゥが部屋に足を踏み入れると、周囲の蝋燭に火が灯り、室内を明るくする。

部屋の奥には祭壇のようなものがあり、壁には巨大な絵画が飾られていた。

絵画には美しい半裸の女性が描かれていた。

銀色の髪に緑の瞳を持つその女性は口元に妖艶な笑みを浮かべて、こちらを見つめている。

腰に薄い布を巻いているが、それ以外は何も身に付けておらず、豊満な乳房を惜しげもなく晒していた。

完璧なまでに美しい女性だが、右手は異常に発達しており、大型の獣のように深い毛で覆われ鋭い爪が生えている。

そんな彼女の姿はある種の禍々しさを感じさせるが、同時に神々しくもあった。


そして、祭壇には薄衣を纏った女性が横たわっていた。

顔は怒りの表情を彫り込まれた異様な仮面で隠されている。

手は胸の辺りで組まされており、ぴくりとも動かない。

僅かに胸は上下しているため、死んでいるわけではなさそうだ。


バドクゥは静かに祭壇に近づいて女性の首筋に軽く触れる。

そして、もう片方の手を絵画に向かって掲げながら魔法の言葉を発した。


『ミトラ・デル・イアフ』


突然、女性が激しく痙攣を始める。

祭壇から転がり落ちんばかりにのたうつが、バドクゥは冷めた表情でその様を眺めていた。

しばらくすると女性の身体は全ての水分を失ったかのように急速に干からび始め、遂には骨と皮だけになってしまった。

その死体から青白い光が抜け出して宙を漂う。

次の瞬間、絵画から獣の手が現れ、光を鷲掴みにすると中に引きずり込んでいった。

バドクゥは懐から小さな宝石を取り出し死体に向けると、ゆっくりとした身振りで魔法を唱え始めた。


『魔の力により永劫に失せよ。この世の理の外へ』


魔法により哀れな女性は一瞬激しく発光したかと思うと、跡形もなく消え失せた。

再び室内は静けさを取り戻す。


今しがた彼が生贄に捧げた女性はアルトラ教の司祭だった。

若いながらに力のある司祭で、中位の神聖術を自在に使いこなす程だった。

信者からの人望も厚く、将来を嘱望されていた。

しかし三ヶ月ほど前、彼女は礼拝中に不運にも賊に襲われ、行方不明となっていた。

そして、たった今その存在はこの世から消え失せたのだ。

バドクゥは宮廷魔術師の長となって以来、国内にいる力のある人間を集めては、生贄として捧げていた。

今の彼の立場であれば、巷で起こっている失踪事件をもみ消すことなど容易いことだ。

それに愚かなライアスは彼に全幅の信頼を置いており、疑うこともしない。

いや、そもそも事件に興味すらを持っていないだろう。

もはやバドクゥの暴挙を止められる者など誰もいなかった。


しかし、そんな国内一の権力者である魔術師の表情は険しい。

予定していた供物に比べると今回捧げた供物が質、量ともにあまりに微々たるものだったからだ。

こんなことを繰り返していても、彼の最終的な目的を達成することができない。


(計画の失敗を取り戻すには、大量の魂が必要だ。もしくは強い力を持つ魂が)


大量の魂を供物にするには長い年月、呪塊などに封じて魂を穢していく必要がある。

まとめて奉納できる反面、非常に時間がかかるやり方だ。

逆に一人や二人を供物にする場合は、今回の司祭のように生きながらにして苦しみを与え続けることで長くとも半年あれば仕上げることができる。

真に力ある者の魂の価値は、千人のそれに匹敵するという。

すぐにバドクゥは数人の人物を頭に描く。


真の騎士、アルフォート。

軍神の聖女、ロエル。

勝利の導き手、マース。

流浪の賢者、クエンス。

そして、悪魔殺しの賢者、ラテリア。


前王亡き今、国内でこの五人に並び立つ者はいないだろう。

特にラテリアは世界でも五本の指に入るほどの魔術師である。

全盛期には前王ウォルフとともに地獄の深層から召喚された悪魔を討ち取るなど、数々の伝説を残している。

他の四人も不死王斃しの英雄である。

彼らを供物にできればミトラがこれ以上にない力を得るのは間違えなかった。

しかし、バドクゥが背負う危険はあまりに大きい。

バドクゥは己の力量を見誤るような愚か者ではなかった。


彼は深い溜め息を吐くと、元いた部屋に戻ろうとした。

その時、脳裏にある少女の顔が浮かんだ。

例の赤目の一族の少女だ。

確かリアという名だったか。

バドクゥは足を止めて、顎に手を当てる。

正直なところ彼はこの件に対してそれほど興味を持っていなかった。

そもそも、胡散臭い吟遊詩人の話を信じているわけでもないし、この国の行く末が気になるわけでもない。

しかし、赤目の話が本当であれば、王が躍起になって探している小娘の魂にはどれほどの価値があるのだろう。

そのことは彼の好奇心を強く刺激した。

それに少なくとも先に挙げた英雄たちよりも供物にすることは容易に思える。

国をあげて捜索している今ならば特に、だ。

更に娘は公開処刑のため生け捕りにすることが決定している。

余程のことがない限り生きたままバドクゥの手元に届くはずだ。

仮に上手くいかなかったとしても、損失はないに等しい。


(試してみる価値はありそうだな)


彼は自分の考えに満足したのか、何日ぶりかの笑みを浮かべる。

邪悪な魔術師は再び元いた部屋に戻り椅子に腰を下ろした。

先程まであった絵画や祭壇は魔法で造られた壁によって既に遮られており、どこにも見当たらない。

バドクゥは短い魔法の言葉を呟いて明かりを消すと、窓もない部屋は真っ暗になった。

何も見えない闇の中で、彼は今後の計画を頭に描く。

静寂の中、魔術師の呟きと笑い声だけが不気味に響いた。

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