こころの哲学

シチセキ

言葉の三態変化

 ——言葉は気体です。

 種類によっては、充満したときその空間にいい効果をもたらします。

 ……だから、ね、そんなに嬉しいならどうかその理由をみんなに教えてあげて。

 

 言葉が液体になったものを、多分涙と呼びます。

 言葉を呑み込み過ぎると、人間の体内で液体となり、やがて目から溢れ出すのです。

 だから、たくさん泣くと少し楽になるでしょう。

 感動したときに涙が出るのは、言い表せないくらいの言葉たちが一気に蓄積され、溢れ出すからです。

 もしいつか、あなたがそんな涙を目から零してくれたのなら、私にとってそれ以上のことはありません。

 

 液体のまま外に出なかった言葉は固体になり、忘れるという手段を用いない限り残り続けて、あなたの心を時に惑わすでしょう。時折、それにトゲがついて固まって、精神を蝕むこともある。

 秘密というのは魅力的なものですが、口の硬い人というのは、言葉を忘れたり思い出したりする操作がすごく上手なのです。……あなたは不器用ですから、あまり隠し事を作らない方がよろしいでしょうね——

 

 ***

 

 胸の中に、どうしようもなく疼くような、塊がある。

 それを本当にどうしようもできなかったとき、人は少しおかしくなる。

 それによって起こす行動は人それぞれあると思うが、自分の場合は自傷行為だった。

 

 不思議なものだった。

 他人を傷つけることは身が裂かれるように痛くて苦しいものだったが、自分を傷つける時は黒い安心感に包まれて心地よかった。

 ……嗚呼、自分はいつか、自分の手によって死ぬのだろうか。

 ——夢のような浮遊感。

 きっとそれをしたとき、私は本当の救済を得るのだ。

 

 自分の口許に、歪んだ微笑が刻まれるのを自覚しながら、ボロボロの身体は人気のない路上に倒れ伏した。

 ああ、先程やったとき、血管を切ったらしい。

 暗くなっていく視界。太陽の没する空を思わせた。

 でも、もう自分には、次の朝は訪れない。

 

 ——と、そう思っていた自分とは裏腹に、暗転した視界は少しやりすぎなくらいに再び明転した。

 

「——あ、やっと起きたんですね! 大丈夫ですか?」

 そう言って顔を覗き込んできた女性は、眩しいくらいに美しかった。

 それに対して自分はただどもるばかりだった。

 死んだはずなのにと、戸惑った。

 一瞬、ここが天国なのかしれないとの考えがよぎったが、彼女の口ぶりと、自分が横たわっているベッドの人工的な柔らかさから考えて、どうやらそうではないらしいとわかる。

 悔しい。

 その感情は、戸惑いをあっという間に呑み込んだ。

 自分は俯きながら、助けてくれたらしいこの女性に勝手な苛立ちを覚えた。

 ……しかし、『助ける』という行為は、傷つけることよりもずっと難しく勇気の要ることだ。

 それをしてくれた彼女に不義理な態度は取れない。

 自分はなんとか喉から声を絞り出した。

「——あ、あの、助けてくれてありがとうございます……」

「いえいえ、人として当然のことをしたまでですよ」

 そして彼女は、またもや眩しい笑顔でそう言うのだった。

 その太陽は、ずっと日陰か自室から出なかった自分の目を焼くようだった。

 彼女は少し笑顔を曇らせ、心配そうにこう言った。

「……血がいっぱい出てましたけど、どうなされたのですか」

 自分は彼女の純粋で常識的な質問に、内心酷く怯えた。

 それを隠しながら、どうにか笑って答える。

「大したことじゃないんです。ただちょっと転んだ時に尖った物が刺さったみたいで……」

「そうですか」

「ええ」

 ……少しの間沈黙が流れた。

 病院の無機的な白さと消毒の匂いは、少し苦手だった。

 それを紛らわしてくれる相手というのを、自分はいつも探していたのだった。

 

「——いいんですか」

 

 不意に彼女は、恐る恐るといった様子で言った。

 何かを見通した目をしていた。

 「何がですか」とか「いいんですよ」とか「良くないです」とか、そういう返答は何故か思いつかず、自分はまるで親に叱られた子供のようにじっと目を伏せて黙った。

 彼女は返答を待つように暫し閉口していた。

 ……多分、リストカットの跡を見られたのだ。

 重苦しい空気が流れる。

 空気を変えるためには、言葉が必要だ。……何か言わなければ。

 思えば思うほどに焦って、体がすくんで、喉が塞がったように苦しくなる。

 それに耐えかねて、自分は伏せ目を彼女にチラリと向けた。

 怒っているわけでは無さそうだった。

 ——ただ、どうしようもなく悲しそうだった。

 その顔を見て、自分はどうにかやっと、言葉を紡ぎ出せた。

 

「……わかりません」

 

 ようやく出た言葉なのに——わざわざ相手を待たせてから聞かせた言葉なのに——酷く情けなく、つまらなく、役立たずだった。

 彼女はさらに悲しそうな顔をして見ていた。

 少し慌てて、言葉を続ける。少しでも、この気持ちが伝わるようにと。——どうしてそう思ったのかはわからなかった。

「もちろん、いいことをしているだなんて、思いません。ですが、誰にも迷惑をかけないので、悪いことをしているとも、思えないのです」

 彼女は、悲しそうに笑っていた。

 胸を締め付けられるような、優しい、優しい笑顔だった。

「……そうですか。私は自傷行為をしたことがないのでよくわかりません。でも、もし私の言葉に耳を傾けてくれるのでしたら——どうか——一刻も早くそれをやめてください」

 

 少しの間入院することになった。輸血パックに繋がれてぼーっとするだけでも、やっぱり病院は嫌いだった。

 両親は何度か来てくれた。そういえば、自分はまだ高校生なのだったと、それでやっと思い出した。

 自分たち親子はお互いほとんど喋らない人間なので、病院の静寂を破るのにあまり適さなかった。

 そして、例の彼女は、毎日自分のところに来ては他愛ない会話をして、気まぐれな時間に帰った。いつも両親の来る時間とは被らなかった。自傷行為に関連するようなことを言ってきたことはその間一度もなく、ただ純粋に自分との会話を楽しんでくれているようだった。

 前述の通り、自分はあまり話が上手くはなかったが、聞き手としてはそれなりだったらしく、彼女は、

「あなたと話しているとたくさん喋ってしまいますね」

 と苦笑していた。

 そんな調子で、退院する頃にはかなり仲が深まっていた。

 自分の中に僅かだけ残っていた勇気を振り絞って、連絡先を聞いた。彼女は快くそれを承諾してくれた。

 退院してからも、メッセンジャーアプリでやり取りして、たまに会った。プロフィール欄で本名がわかるかと思ったが、本名かどうか断定しにくい名前だったので、いい加減に直接聞いてみた。

 ——「こころ」と言うらしい。

 彼女自身も名乗り忘れたことに驚いていたようだった。

 ……可愛らしい名前。

 話せば話す程に、自分は彼女に好意を寄せるようになっていった。

 その好意の種類は完全に恋だった。

 少し、認めるのが難しかった。

 恋なんてしたことなかったし、一生することもないと思っていた。

 ……だって『私』には、“自分”がなかったから。

 

 中学時代は、ほとんどずっと独りだった。昔から体が弱くて、病みがちで、入院していることがほとんどだった。

 学校に来ることが少なかったから、友達作りに失敗した。

 それで、学校に居るときは大体誰かに傷つけられていた。

 口汚い罵倒、容赦のない暴力。

 親とか先生とかに言う気は起きなかった。

 私にとって大人は、全員信用ならないものだった。

 先生も私を傷つけたから。

 親は無口で怖かったから。

 人間という人間が全員恐ろしくて仕方なかった。

 誰も私を助けてくれない。

 私という存在はこの世に必要ない。

 私は、自分はここにはいない。

 誰にも、自分にも、私自身を見つけることはできない。

 誰か、私を見つけて欲しい。

 ——誰か、だれか……。

 

 きり、きり、きり。

 

 カッターナイフがハを見せて笑う。

 痛みが体を笑わせる。

 

 ああ、私はここに居るのだ。

 私だ、私が、ちゃんとここに居る。

 自分にはそれがわかる。自分は、私を見つけられる。

 

「はは、っははは」

 

 引きつった笑み。

 腕についた傷口に、涙がしみた。

 

 私が泣いたのは、腕が痛かったからなのか、心が痛かったからなのか、よくわからなかった。

 

 もう未来なんてないし、要らないと思った。

 

 

 それがまさか、よりにもよって彼女を好きになるなんて。

 優しくて、明るくて、可愛らしくて。

 でも、私は女で、あの人も女の人で。

 

 違う。

 

 私の好意は純粋なもので、間違っても恋なんかじゃないと、脳みそに必死に言い聞かせた。

 

 脳みそはそれで一時大人しくなった。

 しかし、心臓は止めようがなかった。

 

 純粋に私を好いてくれている彼女にこんな感情を抱いているなんてと、自分が嫌で仕方なかった。

 

 彼女に一度、それを勘ぐられたことがあった。

 二人で遊びに行って、少し公園のベンチで休んでいた時のこと。

「……何か、私に隠し事をしてはいませんか?」

 彼女はタピオカミルクティーを飲みながら、気軽な雰囲気で聞いてきた。

「し、してません……」

 動揺が伝わったらしく、彼女は笑って言う。

「ふふ、隠し事が下手ですね。……知っていますか? 口の硬い人というのは、言葉を忘れたり思い出したりする操作がすごく上手なのです。あなたは不器用ですから、あまり隠し事を作らないようにした方がよろしいでしょうね」

 いつの間にかタピオカミルクティーを飲み切っていたことにふと気づきながら、彼女は続けた。

「言いたくないなら、詮索はしませんけどね」

 

 私は非常に肝を冷やしたのち、その一言で非常に安堵した。

 なんだか翻弄されているようでむず痒かった。

 

 それから幾月か経った後、料理を教えてもらいに、彼女の家に行くことになった。

 それで、久しぶりに刃物を近くに見た。彼女と出会ってからは自傷行為どころではなく、料理もしなかったから、ギラりと光る包丁の魔力に懐かしさを覚えた。

 隣り合って作業していると、心臓がうるさかった。

 だから、彼女が切らしていた調味料を買いに行った隙に、そっと包丁を胸に向けた。

 ……この心臓さえ取り除けば、私は楽になれる。

 でも、彼女はそれを望まないだろう。家の中で人が死んでいたら、誰だって嫌だろうし。

 ——でも、

 これは、恋なんかしてしまった私への罰だし、もしこの気持ちを打ち明けたら、彼女は家に死体があったとき以上に不快感を覚えるかもしれない。

 そうだ。

 死のう。

 いや、先に彼女に殺人罪がかからないよう、遺書を書く必要があるだろうか。

 

 胸に刃を向けたまま迷っているうちに、誰かが私のその腕を掴んだ。

 

 背後に立って止めたのは、彼女だった。

 どうやら私は無自覚のうちに随分長いこと考えていたらしい。もう帰ってきたなんて。

「——何してるんですか……?」

 不安げで悲しげな表情。途端に罪悪感が湧く。

「ご、ごめんなさい。……あ、あの、これは別に、死のうとしたとかじゃ——」

 彼女は私の目元を掬った。

 いつの間にか涙が溢れていた。

 彼女は言った。

「言葉が液体になったものを、人は涙と呼ぶのです。

 言葉を呑み込み過ぎると、人間の体内で液体となり、やがて目から溢れ出すのですよ。

 ——もし、あなたがどうしても話したくないなら、その代わりに泣けるだけ泣いてください。私は傍にいますから」

 私の頭は言葉でいっぱいになって、ただ涙するばかりだった。

 

 お見苦しところを彼女に晒した後、妙に安心した心地がして、気づいたら言っていた。

「……私、あなたのことが好きなんです」

「それは、どういう意味で?」

 彼女は優しい声でそっと聞いた。私は答える。

「——恋を、しているんです。……あなたに。ずっと認めたくなかったのですが。……ごめんなさい」

 私は俯いていた。顔を見れなかった。

 彼女は少し間を開けてから、私の肩にそっと手を置いた。

「どうか謝らないでください。恋情というのは、人間にとって最も抑えがたい感情なのですから」

「でも。ずっと友達として一緒に居たのに……」

「そんなことは関係ありませんよ。私も、勝手にあなたに友人としての感情を向けていた。なんら変わりはありません」

「……でも、でも——」

 こんな私を、彼女は黙って抱き締めた。

「私はまだ、あなたと同じ意味で好きになることはできません。……ですが、きっといつかそう思える日が来ますよ。あなたはとても優しくて、一緒に居ると安心できる。……間違ってもこれしきのことで離れたいとは思いません」

 私はまた、涙を止められなかった。

 嬉しくて、安心して、でもまだ少し申し訳なくて。言葉が溢れて何も言えなかった。

 

 

 ——数年後の春。

 私と彼女は花見に来ていた。

 暖かい風と、揺れる薄桃色の花弁。透き通った空に浮かぶ雲はいっそう白く、悠々としていた。

 レジャーシートの上で彼女の手料理をいただく。私も少し手伝ったが、卵焼きの味は微妙だった。……食べられる水準に達したのだからまあ成長はしたのだろうが。

 それと言うのに彼女はびっくりするほど美味しそうに私作の卵焼きを頬張った。

「……まずいでしょう?」

 私は聞いた。

「いいえ、まずくなどありませんよ。あなたの作った料理ですから」

 私は存外にその言葉が嬉しくて、少し照れた。それを隠そうと、彼女の料理を口にする。

 相変わらずどれも美味しい。

 黙ってしばらく食べていると、彼女がじっと私を見ていた。

「……な、なに?」

「いえ、どうしてそんなに幸せそうなのに、何も言わないのかしらと思いまして」

「え」

「良い言葉は良い空気を作るのですよ。言葉は気体ですからね。——だから、そんなに嬉しいなら理由を私に教えてはくれませんか?」

 少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 回りくどい言い方をよくするけれど、彼女の望みは至ってシンプルなものだ。

「——ああ、ごめんなさい。

 すごく美味しいです。ありがとう」

 彼女は満足げに笑った。

 褒めて欲しかったのだ。

「……それにしても、あなたは随分と変わりましたね。——懐かしい。あれから二年経つんですね」

 桜を見上げながら彼女は言う。

「『あれ』って?」

「あなたが包丁を胸に向けていたあの日から、ですよ」

「うわ……もうあんなの早いこと忘れてください……」

「そうもいきませんよ。私は言わなければならないのですから」

「何を?」

 

 ——桜より美しいものを、これまで私は見たことがなかった。

 太く、強く、だというのに上品で。

 私はただ、見上げるだけだった。

 でも、今は違う。

 

 この世のどんなものよりも美しく笑った彼女は、私の頬にそっと口付けをした。

 その後彼女が放った言葉に、涙が止まらなかった。

 

 いつか、二人で映画を見に行ったとき、彼女は感動して泣いていた。

「よくそんなに泣けるね」

 と私が苦笑すると、彼女は言った。

「感動したときに涙が出るのは、言い表せないくらいの言葉たちが一気に蓄積され、溢れ出すからです。

 もしいつか、あなたもそんな涙を目から零してくれたのなら、私にとってそれ以上のことはありませんよ」

 と。

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