ドッペルの因果
燦々東里
ドッペルの因果
目の前に広大な灰色の地面が広がっている。右を見ても、左を見ても、灰色一色だ。上から丸くて白く光っているものが、じりじりと地面を焼いていく。自分の体さえ焼けて消えてしまいそうで、今にも足を止めたくなる。
「おや」
殺風景な灰色の中に、一段濃い灰色が見えた。知っている。あの濃い灰色は、少しだけ涼しいのだ。ああいう濃い部分は、花という種族の方たちが作ってくれる。パンジーさんやぺんぺん草さん、コスモスさんなど、今までたくさんの花たちに助けていただいた。
「こんにちは。少し君の下にいてもいいかい?」
顔を上げ、今日の宿主さんに声をかけてみる。濃いピンク色の花びらが、きらきらとしていてとても綺麗だ。
「こんにちは。こんな小さな影でよければどうぞ」
「小さくなんかないさ。とっても大きくて立派だ。ありがとう」
快い返事を聞いて、いそいそと影の中に踏み入れる。中に入った途端、一気に涼しくなる。足の裏の痛みも引いていく。湿気を伴った外気は変わらないが、体の辛さはぐんと軽くなった。
やっと一息つけると安心していれば、頭上から密やかに笑う声がした。
「どうして笑うんだい?」
「いや……わたしの影が大きくて立派なわけじゃない、と思ってね」
「というと?」
「ただただ君が小さいだけさ」
「ふぅん」
短い返事に、また頭上から笑い声が聞こえた。特段感情を乗せていない声音に、何を感じ取ったのだろうか。
「もちろん、わたしもだ。この大きな世界では、わたしや君という存在は随分と小さい」
その声に続く言葉はなかった。卑屈っぽい感情が見えたが、これこそ勝手な妄想かもしれない。
「君から見たおれは小さい。おれから見た君は大きい。そんな相対的な評価はどうでもいいのさ。今大事なのは君がおれを助けてくれたという事実だけ」
「そうかい」
今度は特に何の感情も感じられなかった。これも妄想かもしれないことは心に留めておく。
じーわじーわと遠くで泣き声が聞こえる。誰が泣いているのだろう。この声の主、種としての名前はせみらしい。知り合いの声ではなさそうだ。そもそもせみに知り合いは多くない。この誰かさんの泣き声を聞いていると、余計に暑く感じるのは気のせいだろうか。この影の中に入れてもらえなければ、本当に死んでいたかもしれない。
「ところで、君、名前は?」
命の恩人の名前を聞く前に、へんてこりんな会話をしてしまったことを恥じる。そんな感情が伝わったのかは知らないが、ピンクさんは静かに言葉を発した。
「ないよ」
「ナイヨさん? 初めて聞く名前だ」
「違う、違う。ない。無。持っていないんだ、名前」
「……へぇ」
またも短い返事を聞いて、ピンクさんは軽く笑った。じーわじーわとせみが泣く。こういう状況だとやけに響いて聞こえる。ピンクさんもそう思っているだろうか。
「なんで、ない? これ聞いてもいい?」
「君は堪え性があるのかないのかわからないね」
「ばれた?」
返事に特に嫌がっている感じはなかった。これこそ最大の妄想かもしれない。しかも欲望が多分に含まれた。
「わたしはね、どこから来たのか、どこへ行くのか、全くわからないんだ。気づけばここにいた」
「何か覚えていることは?」
「誰かを待っている……。生まれた時から、そんな思いだけは持っていたね」
「風流だねー」
「風流では、ないね」
急に右側から強い空気の流れが押し寄せる。知っている。風だ。脚を踏ん張ったけれど、体が勝手に流れていく。灰色の地面に僅かな跡も残さぬまま、ピンクさんの緑色の体にぶつかる。無事に体は止まる。
「大丈夫?」
「ふぅ……おれが風に流されるとは」
「あれはそういう意味で言ったのか……」
ピンクさんにもたれかかっていた体を起こし、汚れを移してしまっていないか見る。その体は丸くて白いものに照らされ、綺麗に輝いていた。一片の汚れもない。長いこと歩き続け、汚れなのか本来の色なのかわからなくなったこの体とは大違いだ。しかも先程の突風に吹かれたにもかかわらず、びくともしていない。
「すごいな。おれと違って風にも負けない」
「風に負けないからこそ、わたしは待ち人に会えないのかもしれないな」
その言葉の端ににじむ感情は、きっと寂しさなのだろう。ピンクさんが本当に知らないのは、おそらく名前だけなのだ。待ち人も、なぜ一人なのかも、全てわかっている。偶然にもここにたどり着いてしまったその不運すら、丸ごと受け入れている。
この堂々たる姿はそれが理由なのかもしれない。地に根付いた様は正直少しだけ羨ましい。
「ところで君の名前は?」
「あー、おれはね、君と違って忘れた。というより、捨てた? とにかく今ここで名乗れないことは君とおんなじだ」
「本当だ。おんなじ、だね」
ピンクさんはそこで言葉を切る。じーわじーわと泣くせみの声に交じって、甲高い鳥の鳴き声がした。慌ててピンクさんの体に身を寄せ、うまく隠れる。声の主は特に近くにいないとわかったので、また表に出る。たっぷり時間はあったのに、ピンクさんは一言も声を発しなかった。
「理由、聞かないの?」
「君が話したいなら、聞くよ」
「そうかい」
ピンクさんはため息を吐いた。呆れを隠そうともしていない。
「どうして名前を捨てたんだい?」
でもなんだかんだ優しいし、面倒見がいい。ピンクさんの性格がちょっとわかってきた。
「おれはいわばはぐれ者なのさ。周りのみんなとちょっと性格が合わなくて、飛び出してきちゃった」
「わからなくはない」
「ひどい」
あんまりな言い分に悲しくなる。命の恩人でなければ殴っていただろう。
「でも、おかしいと思わない? おれのところさ、一人だけすーごく偉くて、他はせっせこ働かされるの。しかもそれを疑問にすら思わない。おれ思うんだよねー。生まれる前から、考える器官をいじられて、疑問に思う心すら奪われてるんじゃって」
「それをされずに生まれたのが君ってこと?」
「そ。なんでこんなずっと働かされるんだ? そしてそれこそ生きる目的で、喜びだって思えるんだ? そうやってずっと疑問だった。実はみんなも言わないだけでそう思っていると、信じてた」
「でも違った」
「そう」
変わり者。そう言われ続けて、どれくらい耐えたのだったか。風に吹かれてふらふら旅をする生活が長すぎて、もう忘れてしまった。『使命』も『生きる目的』も捨てて、自由に生きて、最初の頃は楽しかったような気がする。今だって楽しい。こうしてピンクさんのような方たちに出会い、会話を交わすのはまたとない喜びだ。だが不意に、不安が頭をもたげる瞬間がある。結局、考える器官をいじられていたことには変わりないと、認めてしまいそうな時がある。
こう思う時点で半分認めているようなものだと自覚はしている。いずれにせよ常に素晴らしい選択肢などない。どちらがより満足できるかというだけならば、何度だってはぐれ者になる選択をしただろう。
こうやって結論付けることも幾度となくやった。
「君とわたしは似ている」
「……なして?」
「お互い一人きりだ」
「そんなおれらが出会ったのは奇跡だ」
かっこつけたかったのに、かすれた声しか出なかった。
「と言いたいところだけど、似てないよ。おれはいわば悪者さ。みんなと違った道を選んだかっこ悪い奴。でも君は違う。君は何も悪くない。だけどなぜかここにいる。随分違うだろう?」
「ふぅん」
「真似しないでくれよ」
ピンクさんの『ふぅん』の使い方は完璧だった。使用するタイミングも、そこに込める意味も、何もかも。はたから見れば自分はこうだったのかと、現実を突きつけられる。
「それこそ、君が最初に言っていたじゃないか。相対的な評価はどうでもいいって」
「ああ、言った」
ピンクさんはくすりと笑う。返事に笑ったのか、最初の会話を思い出して笑ったのかはわからない。
「君が変わっていると思われるのは、君と同じ種族の中にいたからだ。君が旅先で出会った人達の中では? わたしの中では?」
ピンクさんが朗々と語る。その声は上にある青の中に向かっていく。丸くて白くて熱いあれにも負けなさそうだ。
「今大事なのは、君がわたしを認めてくれたという事実だけさ」
「悔しい!」
思わず口から飛び出した声は、辺りを揺るがした。そんな気がしたけれど、ピンクさんの体は微塵も揺れなかった。立派な体だ。
休めていた脚を動かし、ピンクさんから少し離れる。濃いグレーの部分からは出ないようにして、綺麗なピンク色の花びらが見える位置まで行く。それでも見上げすぎて体が痛い。
「ここまで語り口をパクられたのは初めてだ! 君はなんなんだい? どこでそのやり口を学んだんだ?」
「わたしは君みたいな怒りの方向性を初めて見るよ……」
「いやだって」
地面が大きく揺れる。土ぼこりが舞い、体がその衝撃によろけた。
「********!」
大きな、大きな声が、聞こえる。大きすぎて、もはや何を言っているのかはわからない。反響音だけが脳を揺さぶっていく。
知っている。この存在を、知っている。
恐怖が体中を駆け巡る。変わり者だろうがなんだろうが、死への恐怖はきっと共通だ。何か悪事を働いたわけでもないのに、かつての仲間が面白半分に踏み潰された。数えきれないほど、潰されていた。見上げてもてっぺんが見えないほど巨大な物体が、あっという間に追いかけてきて、その大きく平たい部分で、体を押しつぶそうとする。逃げ切れるのは、運がよかった者だけだ。もはやこの種族は死への象徴でしかない。しかし今日ばかりは、すぐに逃げ出そうとはしなかった。この種族、ニンゲンがやろうとしていることが、何となく察せられたからだ。
「やめろ! ピンクさんはお前たちに何もしてないだろ! 生きているだけなんだぞ!」
「いいよ! 君は逃げるんだ。わたしはいいから、逃げて」
ピンクさんが初めて怒った。でも全く怖くない。怒鳴り声をものともせず、ニンゲンの足の方へ向かう。ニンゲンから見たらこの体はちっぽけだ。それでも立ち止まることはできない。なんとかしてピンクさんを引っこ抜こうとする手に向かう。
「******?」
また大音声が響き渡った。体がその衝撃に一瞬揺れる。その隙に大きく平たい部分が眼前に迫っていた。
「だめだ――……!」
ぷちり
おれが最期に残した音は、この広い広い世界では、随分と小さなものだった。
消えゆく意識の中で、守れなかったピンクさんを想う。もしかしたらここで終わることこそ、ピンクさんにとって最良なのかもしれない。そう思ったが最後、意識は遠く遠くの彼方に消え去った。
ドッペルの因果 燦々東里 @iriacvc64
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