第十一話 混迷/無垢

 男から殴られても、そのうち泣かなくなっていた。

 女から罵られても、そのうち涙が出なくなっていた。


 痛くても、辛くても、悲しくても。


 それを、痛かったモノにして。

 辛かったモノとして、処理して。

 悲しかったモノだと、切り替えて。

 私は泣かずに、無感動に生きてきたつもりだった。


 つもり、だった、のに。


「こんな──なんで、私──?」

 

 なんで、私は泣いているんだろう。

 なんで、こんなに涙が出てくるんだろう。

 なんで、こんなに心が熱を帯びているんだろう。


 なんで。なんで。なんで。


 優しさの理由を知っただけで。

 それはきっと、とんでもなくありきたりなワケで。


 なのに。ああ、こんなにも。


「あり、がとう……!」


 凍っていた心が溶け出すように、溢れる涙は止まらない。


「おねぇちゃん、なんで泣いてるの……?」


 膝から降りて、レイが心配そうに私を見上げる。ボヤけて表情はよく分からないけれど、大きな目をまんまるに開いている気がした。


「分かんない……分かんない、けど……!」


 涙の理由は分からないけど、今何がしたいのかだけは分かってきた。


 今は、ただ。

 私によく似た、あなたの近くに居たい。

 寂しい夜に、歩幅を合わせてくれて。

 淡い月のように私を照らしてくれる。

 そんなあなたのことを、もっと知りたい。


「嬉しい。私は、嬉しいんだと思うな」


 きっと私はまだ、寂しくなれたばかりで。

 この気持ちの名前は、まだ分からないけれど。


「あれ? なんでだろう。おねぇちゃんが泣いてるのを見たら、なんだか、わたしまで……」


 ──寂しい時は寄り添って、嬉しい時は笑い合える。


 そんな姉妹に、私はなりたい。


「えへへ、なんでだろう、笑ってるのに、泣いちゃうね……?」

「ふふふ。ほんと、なんでなんだろうね?」


 二人で心がぐちゃぐちゃになって、ワケも分からなくなってきて。寂しがりやな私たちは、とりあえず抱き合って額と額をくっつけてみる。


「えへへ、でも、なんだかとっても嬉しいね?」

「ふふ、そうだね?」


 薄暗いリビング。触れ合えなかった時間を埋め合わせるように体を寄せ合って、また少し離れて、おかしくなって笑い合った。


 気づけば、世界は夕暮れ時。

 窓から望むのは、ビルに寄り添うように、沈みゆく太陽。


「おねぇちゃん! これからもいっぱい、お話しようねっ!!」

 

 ──その日。私は初めて、人のぬくもりを知った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る