第八話 熱情/氷解

 人生とはいつだってままならないものであり、願った方向に物事が転がってくれることなんて、そうありやしない。ある時は『急がば回れ』と言うくせに、ある時は『善は急げ』と言う。挙句、『急いては事を仕損じる』と言われる始末なのだから、望み通りの人生なんて、どこにもありやしないのだろう。


 ──そして。無論私の人生も、その例に漏れない。


「ははは! なんだ、このボロッちいペンダント!」

「や、やめてよぉ! 取らないでよぉ!」


 例えば、このように。ある日突然、何の前触れもなく身近なモノが傷つけられる、なんてのは。悲しきかな、よくあることだ。


 休日。時刻はちょうど正午。所用で両親が留守の時に、事件は起きた。

 二階の窓辺から、一階の玄関前を見やる。そこに居るのは、四人の幼い少年少女だった。


「返してよぉ! なんで……なんで、そんなヒドいことするの……?」

「へへっ、そんなの、チビをからかうのが楽しいからに決まってるだろ?」

「そうだそうだ! やーい、チービチービ!!」

「……」


 か弱い少女を囲うように、同じ年ごろであろう三人の少年たちが立ちはだかる。小太りの少年はレイのペンダントを取り上げ、メガネの少年は彼に便乗する形で汚い言葉を浴びせていた。小柄な少年は直接加勢するわけではないものの、口を真一文字に結び、完全に傍観者と化している。


 まるで、社会を表す縮図のようだった。


【成熟していない子供なんかは、ほとんど反転してません。まだ善悪の判断基準が確立されていないので。表裏が無い人間は反転しないってワケです】


 ふと、エージェントの言葉を思い出して。同時に、ひどく納得を覚える。


「ほらほら、取り返してみろよーだ!!」

 強者。

「へへへ! 全然届かないでやんのー!」 

その意を借りる、従者。

「……」

 傍観者。

「もう、やめてよぉ……!」

 弱者。


 善人に溢れているはずの世界で。それでもなお、あまりに分かりやすい構図でイジメが起きているという現状。その原因はひとえに、子供が無垢であることに他ならないだろう。

 無垢だからこそ。時に子供は、自覚なしに残酷な悪を為しえる。イジメのきっかけなんて、大抵は単純なものだ。楽しいから。スッキリするから。みんなやってるから──そういう『なんとなく』で、子供は無垢に弱者を傷つけうる。


 まだ何が悪いコトなのか、よく分かっていない。無邪気な行動が、結果的に悪にも善にもなりうる。


 ──だから、子供は反転しない。


「ぐすっ……うっ……やめて、よぉ……」


 耐え切れず、レイの目から涙がこぼれる。

 いつも明るい『妹』の瞳から、徐々に色が失われていく。


 そして、刹那。


【おねぇちゃん! おねぇちゃん!】


 不意に、毎夜聞いている声を思い出した。


【あのね! 今日はね?】


 なぜだか。知らない感情が、私の小さな胸を締めつけていた。


 ……痛い。


「レ、イ」


 ──痛い。


「私、は、どう、すれば」


 ──痛い。


 この痛みは、なんだろう。一瞬考えてみて、コレは心の筋肉痛なんじゃないかと思った。ずっと無感動がデフォルトで、心が運動不足だった。だから久しぶりに動いた心が、ひどく痛んでしょうがない。


「ああ。でも、どうして」


 今、私の心は。


「おねぇちゃん……おねぇちゃん……!」


 どうして、こんなに動いているんだろう。


「……はぁ。ほとほと呆れますね、まったく。遠くから眺めてるだけのつもりでしたが、もう我慢なりません。思わず出てきちゃいましたよ」


 自問していると突如、どこからともなくAIが現れた。


「アナタ、いい加減認めてはどうなんです? 『どうして』なんて、そんなの自分が一番分かってるでしょう?」

「……急に、何を」

「まあ? 確かに、アナタは孤独に生きてきたのでしょう。どうしようもないくらい、傍観者な人生だった。『どうせ誰も自分を愛さないから』と、全てを諦めて生きてきた。ええ、その価値観は否定しませんとも。しかし……愛されたくない人間なんて、どこにもいやしないのです。その諦観の根底には少なからず、『愛されたい』という願いがあったのでは?」

「……でも、私に愛される価値なんて無い」


 そうだ。私はレイの本当の姉妹じゃない。おろか、毎日声を掛けてくれる彼女を無視し続けている。どう話せばいいのかも分からないし、会話すらマトモにしたことが無いんだ。


 そんな私が、今更──


「だぁ、もう! アナタはこの期に及んでまたグチグチと! いいですかぁ? 愛の価値なんてのはねぇ、愛する側が勝手に決めるものなんですよ!!」

さらにAIは私に思考する間も与えず、かつてない速度でまくしたてる。

「引きこもりのクソニートだろうが、全然遊び相手になってくれないおねぇちゃんだろうが、好かれた時点で勝ちなんだ!! あの子は大層な理由も無く、ヨシナカケイが好きなんですよ!! 子供なんて、そんなもんだ! だからあの子は今、アナタを信じて待っているんですよ!!」


 そして。機械のくせにゼーゼー息切れを起こさんばかりの勢いでそう言い切ると、


「おおっと失礼、柄にも無くヒートアップしてしまいました。では最後に一言だけ」


 さらに早口で言いながら、エージェントはこちらに背を向けて。


「それでもアナタは、この状況で傍観者のままでいるおつもりですか? アナタは今、何をしたいんですか? 偶にはめんどくさがらずに自分で考えるとよろしい」


 例の如く窓をすり抜けて、流れ星のように飛び去っていってしまった。


「……はは。まさか、人工知能に気づかされるなんてね」


 負け惜しみのように呟きながら、重くて仕方がない腰を上げる。

 心が動いた理由なんて。身体が動きたがっている理由なんて。言われてみれば、一つしかなかった。


 ちっぽけなこと。簡単な話。


 ──私はただ、レイを助けたいだけだ。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 レイが辛い思いをしていると、私も辛いんだ。

 妹が傷ついているのを、私は見たくないんだ。


 でも、ずっと独りで生きてきたから。

 誰かを大事に想うのがどういうことか、なんて。

 大切な人が泣いていると、ひどく心が痛むことなんて。


 そんなの、全然知らなかったから。


 ──アイツに言われるまで、私は自分の気持ちにすら気づけなかったんだ。


 彼女から貰ったのは、なんということはない厚意。その日の出来事を聞いて、『おやすみ』を言ってもらうだけ。直接言葉を交わしたことは、ただの一度だってない。


「待ってて。今、行くからね」


 それでも私は、震える足を前に踏み出す。反転世界に来て初めて、私は自分の意志で閉ざされたセカイから飛び出していく。


 急に出しゃばったらレイはビックリするだろうか。あの悪ガキ共をちゃんと追い払えるだろうか。……不安なことは、たくさんあるけれど。


 もし上手くいったら、まずは『ありがとう』と『ごめんなさい』を言おう。


 きっと私は独りが平気なんじゃなくて、ただ寂しいことに気づかずにいるだけだったから。


 ずっと声を掛けて、それに気づかせてくれてありがとう、って。

 接し方が分からなくて、ずっと無視しててごめんね、って。


 仮り染めで、すぐに終わってしまうかもしれないけれど。そうやって、姉妹を始めよう。


「スゥー、ハァー……」


 階段を降りて、深呼吸。間髪入れず玄関前へ。

 扉一枚を隔てて、悪ガキの声とレイの涙声が聞こえてくる。中から外へ出る時に限り、ウチの玄関は自動ドアだ。あと一歩でも前に出れば、私の姿は彼らの前へ晒されるだろう。


 我ながら慣れないことをしていると自覚しつつ。ようやく覚悟を決めた私は、鉛のように重い一歩を踏み出す。


 そして最後、めいっぱいに息を吸い込んで。


 足、手、声。何もかもを震わせながら。


「こ、こらっ! わ、私の妹をイジメるなぁーー!!」


 その日。私は傍観者をやめた。

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