2-13.乾由貴の分析

 一時間ほども話してから、美馬由佳への聞き取りは終了とした。続いて江口と親しかったという同僚にも話を聞こうとしたが、一戸に止められてしまった。

「次の女に関係することで、江口の社内での立場は少し悪化していたんです。訊いても厭な気分になるだけですよ」

「美馬由佳が話していた対人トラブルですか」

「ええ。先輩の女を、こう、寝取ったと」クラウンのエンジンをかけ、一戸はため息を漏らす。「殺したのがその先輩か、他の女がいると知った美馬ならありふれた事件だったんですけどねえ」

「九万って、それも繰り返しってすごいですよね」

「まさかそんなに高額とは。警察の事情聴取には課金カードを渡したとしか話さなかったんです。担当も重視していませんでしたので、この件、新情報です」

「それはよかった……って言っていいんですかね」

「少なくとも笹渡の犯行動機には関係なさそうですからね。ただ、江口と女たちの関係性を知る手がかりにはなります」一戸は教習所の教官のような模範的な運転で車を進める。「搾取的で、他に女がいることを仄めかしつつ女同士を競争させるような関わり方をしていたと考えられます。大森にはホテル代も食事代も払わせていたんでしょう?」

「クソ野郎ですね」

「小暮さん、そんな言葉遣いもされるんですね」

「すみません。つい」

「いえいえ。言葉遣いを気にしてたら刑事なんてやってらんないっすわ」

 ですよね、と樹里は適当に応じた。

 美馬由佳は、一昨年の暑気払いの後から江口との関係が始まったと言っていた。飲み会の後ということは、なし崩し的な関係だったのだろう。最初の一歩に同意があったかはわからない。むしろ、なかったからこそ、関係を持った自分を肯定するために、常軌を逸した自傷的な金銭提供に至ったのかもしれない。親の縁故で就職した職場で、問題を公にすることは躊躇われたに違いない。そして、そんな内心の葛藤を、江口に搾取され続けたとも考えられる。

 後部座席の実宇が言った。「美馬由佳さん、でしたっけ。〈ESクリア〉にはあんまり反応しなかったですね」

 物思いから我に返って樹里は応じた。「うちらとしてはそこなんだよなあ……」

 大森里美に続き、美馬由佳に対しても、樹里は同情的になってしまっていた。それすなわち、江口の死を肯定することだとわかっていても、女たちの話には一定の共感を抱いてしまうし、伝聞から浮かび上がる江口爽平という人物に苛立ちを覚える。

 樹里は耳のピアスに触れた。γ‐アミノ酪酸。抑制性の神経伝達物質だが、経口摂取しても血液脳関門は通過しない。よって、GABAを食べれば脳内に入って神経の昂ぶりを抑えてくれるからGABA入りチョコレートは効く、という考え方はあまりに短絡的で概ね間違っている。効くとすれば別の、もっと複雑な作用機序があるのだ。

 苛立ちは判断を鈍らせる。特に共感に由来するものは。

 別の、もっと複雑な作用機序。

「あのカスに期待かな」と樹里は呟いた。



 午前中に実施した笹渡耕助へのEPPS性格検査の記録を見返し、乾由貴は首を捻っていた。

 時間の延長は許可されてもアクリル板越しの面会であることには変わりなく、また、アナログな記録を取るためのペンやノート以外のものの持ち込みは相変わらず許可されなかった。時間も限られており、取れる手段は自然と絞られてくる。

 EPPSを用いたのは、これが正常者の性格診断にも用いられる手法だからである。統合失調症や双極性Ⅱ型障害のような、症状によっては強い攻撃性を発揮する典型的な精神疾患に笹渡が罹患していない可能性が高い以上、敢えてEPPSを使う方が、多弁な笹渡の心の深層に迫れるのはないかと考えたのである。

 EPPSは、アメリカの心理学者ヘンリー・マレーの欲求‐圧力仮説に影響を受けたアレン・エドワーズにより作成された性格検査である。欲求とは、人から環境への力。圧力とは、環境から人への力。これらのせめぎ合いに対して個人が取る態度をパーソナリティとして解読する。

 マレーの欲求理論は、ビジネスの人材育成や自己啓発のせいで妙に流行して一般に知られるようになったマズローの欲求五段階説、すなわち、『生理的欲求』『安全欲求』『社会的欲求』『承認欲求』『自己実現欲求』のピラミッドを、さらに三十九に細分化したものだ。エドワーズは、それらの欲求を十五の尺度に整理した。すなわち、『達成』『追従』『秩序』『顕示』『自律』『親和』『他者認知』『求護』『支配』『内罰』『養護』『変化』『持久』『異性愛』『攻撃』である。

 そしてEPPSの特徴は、自分をよく見せたり、質問の意図を察して結果を誘導する回答をすることが困難なことにある。質問は必ず二者択一であり、いずれも、社会的な望ましさは同等になるよう設計されている。たとえば、「友人同士が口論していたら、間に入って仲裁したい/友人から色々な好意を示してほしい」の二者択一を行う。これにより、今の気分に左右されない、その人物の根本的なパーソナリティを浮き彫りにする。換言すれば、決して口に出さない内心の欲求が、EPPSの結果には現れるのである。

 昼食時だった。由貴は、休憩用に借りていた昨日と同じ会議室で、コンビニで買ってきたイギリストーストを囓る。イギリス、とは名ばかりで、実際はマーガリンとザラメを混ぜたものを塗って挟んだ食パンである。コンビニに行ってみたら、青森県民のソウルフードとの噂に違わず本当に並んでいたため、つい購入してしまったのだ。

 眼前にはSARC支給のビジネスノートPCがあり、専用ソフトに笹渡の回答を入力した結果のグラフが表示されている。C値と呼ばれる回答の揺らぎの尺度は十四であり、これが十三以上であれば信頼できる。十四であるならば、笹渡の回答は、パーソナリティとの相関が十分に確からしく認められると考えられる。

 まず所見として挙げられるのは、『攻撃』『顕示』の突出した高さである。何者かを攻撃し、その正当性を広く知らしめたい欲求が垣間見える。これは、隣人を滅多刺しにした上でその理由に社会的に認められた価値観であるダイバーシティ・アンド・インクルージョンを持ち出したことと一致する。

 『秩序』と『養護』の値も標準より高い傾向が認められる。江口の殺害は、社会に何らかの秩序をもたらし、何者かを養護する結果に繋がると、笹渡は確信していたのだろうか。

 対照的に、『他者認知』は極めて低い値を示している。これは、初日の二〇分の面談で感じられたASD傾向に一致する。他者の中で自分がどう思われているかという感覚が希薄で、自己完結的な傾向は、職場でのミスを軽視したり己だけの理解不能な理屈で殺人を犯した笹渡の言行に照らして納得性がある。

 『親和』『変化』の値が低めである。代わり映えのしない孤独を積極的に求めているかのようである。仕事を短期間で変えていることと矛盾しているようにも思えるが、おそらく、彼の価値観では、何かを変えないために仕事を変えているのだろう。そして、他者の価値観とは折り合わない。

 由貴はイギリストーストの空き袋を丸めると、続いてシベリアを取り出す。これもコンビニに並んでいたものだった。なぜシベリアがあるのかはよくわからない。青森の人は甘い物が好きなのか、あるいは、津軽海峡の向こうの北海道にシベリアの影を見ているのかもしれない。

 午後を検査にするか、通常の面接にするかを由貴は決めかねていた。考えを整理するための無駄話の相手も出払っている。

 パーソナリティを深掘りするべきか、精神疾患の可能性を再検討するか。

 大切なのは、この面接の目的は量刑判断でも責任能力鑑定でも、治療でもないということだ。笹渡本人も気づいていない、犯行の背景にあるものを炙り出し、真実に辿り着くことこそが、最大の目的なのだ。そのためには、顕在意識が必ずしもその存在を認めていない複雑な内的情動、すなわちユング心理学でいうところのコンプレックスを詳らかにしなければならない。あるいは、ジョハリの窓理論でいうところの、否認領域や未知領域に辿り着かなければならない。

 さもなくば、自分は宇宙人だという彼の言葉をそのまま受け入れることになる。それは心理士としてのお手上げ、つまり敗北を意味する。

 なべて犯罪とは、個人に対して入力された刺激が、認知というブラックボックスを介して犯罪行動へと出力されることで起こる。これがインクのシミへの感想や頭蓋骨の形が人を規定するとした古典的な、信頼できない犯罪心理学から脱却した、現代の犯罪心理学のセントラルドグマである。そして認知の形成には、社会、経験、生育、遺伝などの多数の要因が複雑に絡み合っている。

 かつて乾由貴はマートンの緊張理論やサザーランドの分化的接触理論に傾倒しすぎており、留学時代にはそのために恩師から厳しく叱責されることもあった。

 EBMとNBMという考え方がある。

 前者はエビデンス・ベースド・メディシンの略であり、古典的な精神医療と決別して統計的な有用性を重視し、理論や経験、換言すればアートの領域から科学的なエビデンスを重視する方向への転換を目指したものである。乾由貴の恩師はこの考え方を規範としていた。

 一方、NBMとはナラティブ・ベースド・メディシン、すなわち患者個人の物語を重視するものであり、EBMの隙間を埋めるものである。ラディカルなEBMが大規模な無作為化比較試験により統計的有意性を見出さなければ無意味と断じる一方で、現実の臨床には多数の非定型症状が出現する。この隙間を対話をもって埋める試みである。

「僕は未熟だ」と由貴は呟いた。

 EBMは有効だが、統計は傾向しか返さない。そこでNBMと組み合わせることで両者は車の両輪となる。そしてNBMの実践には、経験が要る。

 今すぐ三〇年の経験を積めるのなら話が早い。だが乾由貴は二十六歳の秀才でしかないのだ。そしてエンジンの優秀さはそのバイクの素晴らしさと必ずしもイコールではない。

 りんご味のついたミネラルウォーターを飲み下して昼食を終え、検査用紙やマニュアルを前に考え込んでいると、部屋の扉がノックされた。どうぞ、と応じると、現れたのは平埜署長だった。

「いや、乾さん。面接の具合はいかがかな」

「なかなか厄介ですね」と由貴は応じた。「みなさんが調書の作成にも難儀したのも道理です」

「乾さんほどのお方にそう仰っていただけるなら、我々の苦労も報われるというものです。ははは……」平埜は目が笑っていなかった。

 効果覿面な腰の低さ。一戸は平埜が筋金入りの権力嫌いと語ったが、嫌いであることは強いことを意味しない。やはり頼れるものは謎の権力である。いつも喪服のような装束に身を包むヘビースモーカーおばあちゃんのことを思い出さずにはいられなかった。

 彼が引いた一線を動かすなら今である。由貴は指先でペンを回して言った。

「お願いがあるんですけど……午後の面接、室内にストップウォッチを持ち込んでもよろしいですか?」

「電子機器の持ち込みは……」

「一律禁止ですか? でも室内の壁に時計はありますよね。何も変わりませんよ」

 平埜は、何か言いかけて黙る。不自然な沈黙が数秒。それから豪快に笑う。見るからに虚勢だった。

「そうですよねえ! どうぞどうぞ、持ち込んでください。時計、ありますもんねえ」

「ありがとうございます。これで反応時間を計測するタイプの検査も行えます。署長の寛大さには頭が上がりませんよ」

「私にできる協力をしているまでですから。では、私はこれで」

 すごすごと部屋を後にする平埜。程なくして、廊下の方から大きな音が聞こえた。きっと気のせいである。

 しかし、これはこれで問題だ。今のところ、平埜に対してこちらが切れるカードは園田今日子しかない。ずっと2を出し続ける大富豪のようなものであり、平埜がいつ何時カードを放り投げるかわからない。この警察署は彼の庭であり、笹渡をいつまで警察署に勾留するかは彼の胸先三寸なのだ。

 昼休みが終わる。由貴は書類と、愛用しているストップウォッチを手に立ち上がった。

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