2-14.第三の女


 江口爽平の三人目の女、松井まつい裕子ゆうこの勤めるスナックは市内の中心部にあった。シャッターの降りた、不動産屋のテナント募集の張り紙が目立つ表通りから一本入った路地にある、古びた二階建ての住居兼店舗の一階がそのスナック〈ブルーヘブン〉である。

 ニスの剥げた扉の前でタバコを吸う女がいた。乾いた髪を明るい茶色に染めた彼女、松井裕子は、スタンド灰皿でタバコを押し消して言った。

「どうも、一戸さん。そっちが東京から来たって人?」

 一戸は頷き代わりの会釈を返し、樹里と実宇を紹介する。裕子は樹里を一瞥し、それから実宇の爪先から脳天まで目線を往復させた。

 店内は錆の目立つ椅子がカウンターの上にひっくり返して置かれ、赤いビロードにタバコの焦げ痕が目立つソファは壁際に並べられていた。使いかけのモップがカウンターに立てかけられ、コードが伸びた掃除機が所在なさげに床に倒れている。

 バーカウンターの壁に並ぶ名前入りのボトル。開店時のものだろう色褪せた写真が、ボトルの隙間に遠慮がちに一枚。店の奥には年季の入ったカラオケマシンがあった。天井に据えつけられたテレビ画面から地元局のお昼のニュースが流れている。

 そのへん適当に座って、と言われ、しかし座る場所がない。困っていると一戸がソファを壁からテーブルの横に引っ張ってきた。

「度々すみませんねえ、裕子さん」と一戸。「江口の件です。あらましは、こちらのお二人にも伝えてます」

「じゃあ、何を話すことがあんのさ」とカウンターの中から裕子が応じた。

「お姉さんのお店なんですか?」と実宇。「素敵ですね。秘密基地みたいで、なんか可愛いです」

「やめてよ、お姉さんなんて。悲しくなるっての」裕子は大袈裟に手を振る。「ここのママの体調が最近悪くてね。私は雇われ。自分で店を出すような金はないしねえ」

「ご結婚は?」

「バツ2。三十一で。すごいでしょ」裕子は屈託なく笑う。「ごめんねえ、教育に悪いおばさんでさ」

 実宇が応じる言葉に困るのを察して、樹里は口を開いた。「江口さんと、会社の先輩の方とトラブルがあったと聞きましたが……」

「別に、珍しい話でもないよ」裕子はタバコを咥えた。ピアニッシモだった。使い捨てライターで火を着ける。

 壁を作られる前に、懐に飛び込むべきだった。

 樹里もジャケットのポケットからタバコを出した。そして、ライターを探すふりをして、立ち上がった。

「すみません。火借りられますか」

「どうぞ」と裕子。

 カウンター越しにライターを受け取ろうとすると、裕子はその手を払った。致し方なく、樹里はタバコを咥えたままカウンターに身を乗り出し、裕子は手を翳して樹里のアメスピに火を着けた。ライターには店のロゴがプリントされていた。

 煙を吐いて樹里は思わず苦笑する。こんなことを吸う度にされたら、客が天狗になるのも当たり前だ。

「綺麗な子のタバコは絵になるからいいねえ」と裕子。

「色気が出ないのが悩みなんです」と樹里。

「あんまり熱心だったから、つい魔が差しちゃってさ」これも店名が印刷された灰皿で灰を落とし、裕子は言った。「一回だけのつもりだったのに、ついずるずるって感じかな。小暮樹里さんだっけ? あんた年下の男に迫られたことある?」

「ないですね」

「じゃ、わかんないかもね。一応言っとくけど、あの子をやったの、私じゃないからね」

 座ったまま一戸が言った。「それはもちろん。裕子さんのことは少しも疑ってません」

「柴田組の方は、よくこのお店に?」

「よく来てくださってるよ。社長さんが昔からのここの常連でねえ。若い人が入ると必ず二次会でここに連れてくんの」

「それで江口さんとも出会った」

「私さあ、結婚しようって言われてたのね」薄暗い店内に流れていく煙を見送りながら裕子は言った。「でもそしたらここの仕事で柴田組の人の相手すんのも気まずいじゃない? そしたらこんな仕事辞めちゃえって、そう言うわけ。でもそしたら、ママも体調悪いし、この店なくなっちゃうでしょ? 私結構、ここの仕事好きだったし。なんかそれで冷めちゃってさあ。そういうタイミングだったのよ。爽平くんとそういう関係になっちゃったのは」

「優しくて一途で酷いことは言わなかった?」

「そう自分を見せるのが上手い子だったねえ。たまにいるじゃないの。察しが上手いっていうか、ほんっとろくでもない男なんだけど、ここって時に本当に嬉しいこと言ってくれたりしてくれたりする男。爽平くんはそうだった」

「裕子さん、なんかメッチャカッコいいです」

「これで私が、あんたみたいにパリッとした服着て、都会で働く女だったら様になるんだけどね」

「でも裕子さん、訛りがないですね」

「埼玉出身なの。ここは二番目の旦那の赴任先」ふーっ、と音を立てて煙を吐いて裕子は続ける。「別れて、でも喧嘩別れして出てきた実家にも戻れないで、ここに居着いた感じかな。あ、埼玉ってことは秘密ね。一応東京の女ってことになってるから」

「流れてきた東京の女って、なんかエロいですね」

「でしょ? わかってるね」

「あたしの地元、群馬なんですよ。群馬から見ると、埼玉ってもう東京ですから」

「変わんないでしょー」

「群馬の東京要素ってテレビのチャンネル数だけですよ?」

 裕子は声を上げて笑う。打てば響くような彼女の反応が、素なのか、客商売で身に着けたものなのかは、樹里には判断つかなかった。

 その裕子は、短くなったタバコを消して、ぽつねんとしている実宇と一戸の方へ言った。

「あんたたち、お昼食べた?」これからです、と一戸が応じると、裕子はカーディガンの袖を捲った。「食べていってよ。キムチチャーハンでいい? うちの店の二番人気」

「一番は?」と樹里は訊いた。

 裕子は歯を見せて笑った。

「私に決まってんでしょ」


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