1-20.すべてが嘘になる


 カーテンの隙間から差し込む陽光で、乾由貴は目を覚ました。

 空き瓶が転がるテーブルに突っ伏して寝ていたようだった。DVDを再生していたPCはスリープモードになっていた。

 ベッドの上では身長一八〇センチメートルの金髪女が爆睡している。時刻は朝の六時。平和そのものな寝顔に頼むから自分の部屋のベッドで寝てくれと心中吐き捨てると、樹里はそれが聞こえたかのように「シャーク……」と呟き寝返りを打つ。起きる気配はなかった。

 シャワーを浴びて戻っても樹里の姿勢は変わっていなかった。ため息をつき、樹里が部屋に持ってきていたポーチの中を探る。財布。スマホ。部屋の鍵。そしてタバコとライター。

 迷惑代を徴収するつもりで、由貴はタバコとライターを拝借し、小銭と部屋の鍵、自分のスマホをズボンのポケットに適当に突っ込んで部屋を出た。

 何かが記憶に引っかかっていた。

 映画は確かに公木浜市をロケ地にしており、秋野村らしき映像も使われていた。しかし、そこではない。

 フロントの自販機で缶コーヒーを買い、ホテルの表の喫煙所に出て、タバコに火を点ける。群れをなすムクドリの声が聞こえる。蝉が鳴くにはまだ早いようだった。

 朝から空気は湿っている。それでも、地方都市の朝は東京に比べて人の臭いに乏しい。車の排気ガスの浄化が進んだ現代において、東京の空気が汚いとは、人の臭いのせいだ。

 二日酔いの頭にタバコが染みた。そして今日の予定を考える。

 まずは公浜西警察署へ行って、磯辺と増田に、梨のつぶてでした、と報告する。由貴の肚は、秋野村の女たちの緩やかな滅びを待つことで決まっていた。

 オカルト雑誌に感化された実宇はもちろん、ノーベル賞級だと興奮していた樹里も反対するだろう。だが、昨夜観た映画の中での集落の結末が、秋野村の行く末を暗示しているように思えた。

 鉄道がS字にカーブし、何十年も国道が開通しないほどの脆弱な地盤なのだ。近年の気候変動により、いつ何時、豪雨や土砂災害によって致命的な損害を被ってもおかしくない。そして何年、何十年が経ち、国道が開通した時、彼女たちの生活の痕跡が発見されるかもしれない。アフリカツインで分け入った廃集落のように。

 あるいは、彼女たちは、この日本に残された数少ない真の田舎へと姿を晦ますのかもしれない。

 ジャン=ポール・ベルモンドがタバコからタバコへ火を移す映画に、由貴は心当たりがあった。その映画の冒頭のセリフを、由貴は呟いた。

「海が嫌いなら、山が嫌いなら、都会が嫌いなら……勝手にしやがれ」

 眼前に広がるのは、典型的な、中心街が空洞化した地方都市の駅前の光景だった。

 さて、問題はSARCと園田今日子へ提出する報告書だった。何もありませんでした、では済まないことは明白である。

 日差しの中へ漂っていく紫煙を見送り、さて現実へ向き合うかと缶コーヒーを飲み干した時だった。

 由貴のスマホが着信を鳴らした。どうせ樹里が目を覚まして我に返ったのだろうと画面を見ると、意外なものが表示されていた。

「非通知……?」

 数コール放置しても切られる気配はない。わざわざ非通知でかけてくる知人に心当たりはなかった。

 誰かは知らないが、不義理には不義理で応じるのが乾由貴の主義だった。念のため録音アプリを起動し、意を決して電話を取る。そして目一杯低く、鼻にかかった気取った声を出して由貴は言った。

「もしもし。福山雅治です」

 電話口から日本語が聞こえるとは思っていなかった。だが、応じたのは日本語で、それもたったひと言で話し手の誠実さや丁寧さが伝わってくる、男の声だった。

「乾由貴さんのお電話ですね?」

「どちらさまです?」

 ニコチンのせいだろう。目眩がした。

 この男は、事件のことを知っている。殺人事件のことも、未開通国道の横で暮らす白い血液を持つ冷凍睡眠で時を超えた女たちのことも、そこで撮影された映画のことも。

 事件に近い男性といえば公浜西警察署の磯辺と増田だが、彼らは秋野村の女たちのことも、DVDのことも知らない。兵頭自動車のことを思い出したが、彼とは声が違う。

 秋野村を過去に訪れた者といえば、月刊ミューに秋野村らしき土地の紀行文を執筆したオカルトライター・上村阿呆人がいる。だが、出版業界に知人はいないし、私用の電話番号を不用意に教えることはしていない。SARCでも、番号を知っているのは小暮樹里と園田今日子だけなのだ。

「何者だ、あんた」

「映画館に行くと、エンドロールが始まるや否や席を立つ観客を目にしますよね。私はあれがどうしても許せないんですよ。ああ、もちろん、スーパーヒーロー映画のオマケ映像の話ではありません。私は、演出の話をしています。エンドロールは、ただ関係者の名前を列記するための映像ではないのです。映画監督たちは、最後の一瞬、上映時間が終わり、館内が明るくなるまでのすべての時間に意図を込めるものです。BGM。文字の大きさ。書体。流れる速度。暗転かアニメーションか、本編の続きか。それを切り捨てて席を立つとは、映画に委ねたはずの時間を一方的に取り返す、愛とリスペクトに欠けた行為であると私は思います。乾由貴さん、あなたはいかがですか?」

「僕の質問に答えろ」

「ああ、わかりました。あなたは注意散漫だった。そういうことですね。園田今日子の人を見る目も、随分と錆びついたものですね」

 そう言われると頭に血が昇りそうになる。相手のペースに呑まれてはならない。由貴は、まだ長いタバコを吹かす。

 何かが引っかかっていた。男が言うのは〈ヴァナディースの向日葵〉のことなのか。確かに、エンドロールは寝ぼけ眼で眺めていた。その中に、「何者だ」という質問への答えが潜んでいるのか。

 結末に不平不満を漏らす樹里と実宇を後目に、由貴は一応画面を見ていた。その中に――。

 由貴は目を見開いた。タバコの先端から灰が落ちた。

 確かにそう書かれていた。そして、園田今日子は、石黒という男が現れたら即座に拘束しろと命じていた。

「その通りです。さすがですよ、乾由貴さん」男は、柔和な笑顔が目に浮かぶような優しげな声だった。「映像プロデューサーの石黒いしぐろ一成かずなりです。以後お見知りおきを」

「なぜ僕に接触した。お前はどこにいる」

「ええ、ちょうど今、件の秋野村のあたりにおりまして。ここは電波が不安定ですね」

「……ロケ地の確認か?」

「いえ、セットの解体作業です」石黒は、特筆することもない業務連絡のように言った。「あなたが思うより現実とはアンバランスです。そして、何を安定した調和と見なすかを、私たち人間は選択することができない。ですが、彼らにはそれができます。むしろ彼らは、そうすることで私たちを消費している。励起状態から基底状態に遷移する時にエネルギーが発生するように、この現実の中の怪奇なるもの、調和の中の非調和が本来のバランスを取り戻す時、彼らは喝采する」

「意味不明だ。何を言ってる?」

「端的に申し上げましょう。あなた方が発見した不死の一族が住まう隠れ里は、今から企画が頓挫した映画の放置されたセットになるということです」

「どういうことだ? まさか……」指にタバコを挟んでいたことも忘れて由貴は言った。「すべては存在しなかったことになると?」

「ご自分の目で確かめられては?」

「そんな突拍子もないこと、信じると思うのか?」

「ではなぜ、園田今日子は私の名を予言したのでしょう?」

 それは、と応じたきり、二の句が継げなかった。

 沈黙に満足したのか、石黒はこう言って電話を切った。

「アノマリー・ゾーンへようこそ。乾由貴さん」

 通話終了の電子音だけが聞こえるスマホを耳に押し当てたまま、由貴は何度も怒鳴った。当然、石黒の応答はなかった。代わりに朝を告げる鳥の鳴き声と、目を覚ました蝉の声が聞こえた。

 自分の目で確かめねばならない。

 由貴はタバコをスタンド灰皿に放り込んだ。

 エレベータで部屋に戻ると、樹里はまだ夢の中だった。構わずに室内着のスウェットパンツを脱ぎ捨て、プロテクターの入ったバイク用のデニムに穿き替える。上は着替えるのが惜しく、半袖Tシャツの上からメッシュジャケットに袖を通す。ライディングシューズを履き、最低限の荷物をまとめてヘルメットとグローブを掴んだ時、樹里が物音に気づいたのか半身を起こした。

「ユッキー? あれ? なんでお前あたしの部屋に、え? うわ、マジ? 嘘だろ」

「話は後で。実宇さんも叩き起こして、今すぐ支度してください」

「あ? 今何時? 行くってどこ?」

「秋野村です。先に行きます」由貴は部屋の鍵を樹里の前に投げ落とした。「僕らが突き止めたことがすべてなかったことになります。急いで!」

 返事を待たずに部屋を出てホテルの駐車場へ。愛車は主を待っていた。

 装着したままだったサイドボックスに財布や通信機器を放り込む。底には出掛けに押しつけられたトリフィールドメーターがあった。今は必要ないが、持って上がる時間はなかった。

 箱を閉じ、ヘルメットを被ってグローブを装着する。そしてシートに跨がりエンジンをかける。揺るぎない音と振動が応える。

 道は覚えている。

 車体を傾けスロットルを煽る。ポンとクラッチを繋げてアクセルターン。そのままロケットスタートで走り出す。車にクラクションを鳴らされながら、アフリカツインは速度を上げる。

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