1-21.石黒一成

 昨日と同じ道を走る。眩しい朝の日差しは日中の酷暑を予感させる。交通量は少なく、スピードが上がる。

 空きテナントが目立つ市街地からロードサイド店舗が並ぶ郊外へ。そして店舗と店舗の間が次第に開き、広大な田畑で視界が開けるようになる。

 ありふれた、どこにでもある地方都市の風景。ひとつとして同じものはないはずなのに。山奥に不死の一族が隠れ住むほどの独自性はなくとも、その土地、その場所だから生まれるものは必ずある。必然的に発生する。ただ、外から来て通り過ぎるだけの人間には、見出すことができないだけなのだ。

 やがて時折見える工場さえも消える。田畑も消える。深い緑に包まれた川沿いの道をひたすらに爆走する。地元の軽自動車を追い抜き、道の駅に入っていくスポーツカーを尻目に加速する。ダムを越える。橋を越える。そして山岳路に入る。

 標高が大して上がらないから、山に近づけば近づくほど気温が上がる。寄り道せず、最大速度で飛ばしてきたため、昨日よりも遥かに短時間で、ヘアピンの連続する隘路へと突入する。

 逸る気持ちを抑え、時折シートから腰を浮かしながら下る。多少の枝や葉、石ころがあっても、トラクションコントロールが即座に作動してスリップを防ぐ。

 件のトンネルに近づくと、本来ここには存在しないはずの音が聞こえた。ディーゼルのエンジン音だった。

 トンネルの少し手前で、由貴はバイクを停めた。

「なんだよ、これ」

 荷台に廃材を満載にした1トントラックが幌を掛けられているところだった。トンネルの向こうで一旦軽トラに積んで、表の道で積み替えているようだった。

 幌の隙間から織機が見えた。大量の布地も。木材については小型のユンボまで持ち込んで積み込んでいた。

 バイクを降りて橋を渡り、トンネルを抜ける。ライトバンが一台停まっていることは変わりない。だが、それ意外は様変わりしている。

 奥へ通じる獣道が存在しなかった。代わりに、書割とセットの残骸があった。落ちていたノートの一冊を由貴は手に取った。表紙こそ古びていたが、中は白紙だった。

 近くにいた作業員に声をかけられる。

「ちょっとあんた、どこの人? 危ないから勝手に立ち入らないで」

「すみません。この工事は……」

「なーんか、映画のセットだってさ」ヘルメットを被った男は応じた。「外に施主さんいるよ。気になんなら訊いてみれば?」

 由貴は礼を言って、表の道路へと取って帰す。

 橋を塞ぐように1トン車が停まっている。道幅が狭く、この一台が居座っている限り他の車は通れない。もっとも、早朝のこんな場所を通る車両は皆無だった。

 そして、トラックの向こう、より進行方向側の路肩に黒いレクサスのセダンが停まっており、その横に立つスーツの男が、由貴を手招きしていた。

 トラックを避けてセダンの方へ移動する。その拍子に荷台の中が見えた。樹里が目を皿のようにして観察していた、〈AX968〉の合成装置だった。

 ジャケットのポケットの中でICレコーダーを作動させ、由貴は男の前に立った。

 年の頃は三〇代の半ばか。両サイドは短く刈ったツーブロック、トップはパーマのかかった髪型が、実直な清潔感の中にも遊び心を感じさせる。この暑さにもかかわらずジャケットにネクタイ。前ボタンは開けていたが、セダンの横の日陰から出るつもりはないようだった。スーツは黒。ネクタイも光沢のない黒。シャツは白無地で、タイピンはしていない。まるで喪服だった。

「乾由貴さんですね?」男は靴音を鳴らして由貴の方に歩み寄ってくる。手には名刺があった。「先程はお電話で失礼しました。初めまして。石黒一成と申します。フリーで映像作品や広告の企画プロデュースを行っています」

 差し出された名刺を受け取らずに見下ろし、由貴は応じた。「お前が誰かはわかった。お前が言う『彼ら』とは誰だ? 広告代理店か? それなら納得だな。広告代理店は悪だから」

「まさか。宇宙人ですよ」

「イカしたジョークだ。暑さも忘れそうだよ」

「困りました。本当なのですが……」

「それはさすがに」

「ですよねえ」石黒は声を上げて笑う。

 つられて由貴も笑う。静まり返った森に男二人の笑い声が広がっていく。石黒は名刺を差し出す姿勢のまま。由貴はジャケットのポケットに手を突っ込んだまま。蝉の声が聞こえなかった。

 そしてスイッチが切れたように、互いに笑うことをやめた。

 由貴は、名刺を石黒の指の間から引き抜くように取って、一瞥してポケットに収めた。石黒は満足気に数歩後退する。

「昨日まで存在していたものが消えている。存在しなかったものが現れている」

「申し上げた通りです。あなたが思うより、この世はアンバランスです。一方で、注目されないものが突然差し替えられても、誰も気づかない程度には、この世はバランスが取れている」

「選択的注意、あるいは非注意性盲目」と由貴は応じた。「別のことに注目していると、明らかに不条理なことが起こってもそれに気づかない。ダニエル・シモンズ博士とクリストファー・チャブリス博士による、インビジブル・ゴリラ実験。僕らが殺人事件の謎に注目するあまり、ハリボテのセットに気づかなかったと?」

「確からしいという思い込みが、確率への真っ当な感覚を見失わせる」

「フェミニストのリンダ。代表性ヒューリスティックと呼ばれる認知バイアスだ。僕らがそれに陥って、もっともらしさのために明らかに低確率で不合理なことを事実と勘違いしたと?」

 インビジブル・ゴリラ実験とは、一九九九年にハーバード大学の心理学者二人により行われた、非注意性盲目を立証した衝撃的な実験である。

 画面には六人の若者がおり、うち三人は白い服、三人は黒い服を着ている。映像の中で、彼らはバスケボールを同じ服の色同士でパスする。そして被験者は、映像を見ながら、白い服を着ている若者同士のパスの回数を数える。

 正解は十五回だ。だが、実は映像の中で、ゴリラの気ぐるみが画面を右から左へと、パスする若者たちの間を通過している。こっそりどころではなく、画面の真ん中で手を振ってもいる。それでも、白い服の若者たちがやり取りするパスに注目している被験者は、ゴリラに気づかない。

 一方、フェミニストのリンダ問題とは、心理学者で行動経済学者、二〇〇二年にはノーベル経済学賞も受賞しているダニエル・カーネマン博士と、彼の共同研究者であるエイモス・トベルスキー博士による、代表性ヒューリスティックの典型問題である。

 三十一歳で独身、頭がよく大学では哲学を専攻し、差別や社会問題に関心があり、デモに参加していたこともあるリンダ。彼女が『銀行員である』か『フェミニストの銀行員である』か、どちらかを問うと、多くの人は後者を選ぶ。『A』よりも『AかつB』の方が明らかに狭く、正解である確率は下がるにもかかわらず、後者を選んでしまう。

 由貴が広告代理店を嫌うのは、このような認知バイアス、人間の認識の穴を心理学者の次に熟知し、利用しているのが、マーケッターたちだからである。

 だが。

「ゴリラの存在を知っていれば、パスを数えながらゴリラに気づくこともできる。集合の基本を常に頭に入れていれば、リンダがフェミニストであると思い込むことはない。そもそも、認知バイアスで道も、コンクリの建物も消えないんだよ。秋野村はバイクも通れないような場所にあったんだぞ。ユンボや軽トラが通れるはずがない」

「そんな土地で孤独に暮らす女たち。しかも彼女たちは戦前から冷凍睡眠でタイムスリップした。そんなの、ありえないでしょう」

 石黒は笑みを浮かべている。薄いラテックスのマスクを顔に貼りつけているかのようだった。

 何か、圧倒的かつ根本的におかしなことが起こっている。

 血を求めて殺人を犯す者を匿っていたクライオニクス者の集落は、非現実的かもしれないが、昨日までは実在していた。即ち、非現実的ではあっても、非科学的ではない。正しく科学的に検証すれば、それが現存する理由を解明可能だった。

 だが今は、実在しない。実在しないことになった。検証した上で、ペテンだと判明したわけではない。得意気な薄ら笑いで、実在しないという新たな現実を押しつけられたのだ。そして、ここに暮らしていた人も、同じ薄ら笑いに消された。

「この目で見たしこの足で歩いた、と言っても、あんたにとっては反論にもならないんだろうな。現実はこのザマだ」由貴はトラックの方へ歩み寄って荷台を顎で示す。「あんたがこれをやったのか?」

「私といえば、私ですね」

「あんたがクソ野郎だってことは、よーくわかったよ」由貴は吐き捨てる。「土地や、暮らしってのはな、五感で触れなきゃわからないんだよ。ありえない、信じられないなんて宣う権利は、誰にもないんだよ」

「そう仰っしゃられましても、人類は既に敗北しておりますので……」

「敗北?」

「ええ。侵略は既にほぼ完了し、最後の仕上げの段階なのです。だからこそ、私のような者がこうして個別対応の役目を担っておりまして……」

「宇宙人の?」

「宇宙人です」

「やだなあ。宇宙人なんているわけないじゃないですか」

「ですよね」

 また、由貴は声を上げて笑う。石黒も笑う。男たちの笑い声が、湿った山中に響き渡る。笑い声は、次第に大きくなる。互いに目は笑っていなかった。

 由貴は確信した。

 この男を野放しにしてはいけない。

 不可解だったことが頭の中で繋がっていく。そもそも園田今日子はなぜSARCの人員をここへ派遣したのか。なぜSARCの無理筋な捜査介入を快く受け入れる者がいたのか。そして、化学や生化学、工学の専門家が集まる調査分析機関が犯罪心理学者である乾由貴を採用したのか。

 すべては、対人戦が予期されたからだ。石黒一成のような存在に拮抗するためなのだ。

 ならばすべきことはひとつだった。

 由貴は、無理して動かしていた表情筋を休ませる。石黒も唐突に笑顔を消した。沈黙が降り、そして石黒が言った。

「それがね、いるんですよ。宇宙人」

「この支離滅裂はその宇宙人のせいだと」由貴は顔の前で指の関節を鳴らす。「園田今日子はそれを知っていた。だからあんたを見つけたら拘束しろと僕に命じた」

「彼らは〈黄昏の者たちトワイライター〉、と呼ばれています」

「トワイライター?」

「逢魔が時に、科学では説明のつかない怪奇が訪れる。柳田國男は、黄昏時も誰そ彼時、つまり人の理を外れたものが現れる時間を指していると考察しています。逢魔が時は、アウマガトキではなく、オオマガトキ、つまり大きな禍の時と書いて、大禍時と読んだのだそうです」

「御託はいい。話は後でじっくり聞かせてもらう」

「暴力に訴えるのは反対ですねえ」

「どんな場所でも、人は生きてる。暮らしてる」由貴はトンネルの方を指差した。「そこに住んでいた人たちを消し去ることはどうなんだ! 一発殴らせろよ、彼女たちの代わりにさ!」

「もう少し紳士的な方だと思っていましたよ」

「残念だったな。僕はイギリス帰りじゃない。留学先はヤンキーの国。ついでに同僚は金髪ギャルだ」

 駆け出す由貴。石黒は車の後部座席に乗り込む。

 閉じたドアのノブに取りつく。開かない。スモークの窓を叩く。傷一つないドアを蹴る。返事はない。車は急発進する。後輪から砂利が飛び散り、咄嗟に目を守った由貴の掌に当たった。機を図ったかのように、放置されたセットのスクラップを積んだ1トントラックも最徐行で走り出す。

「逃がすかよ」

 由貴は後方へと走る。サイドスタンドを立てて停まったホンダ・アフリカツインが鞍上の主の帰還を待ちかねていた。

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