1-18.例のハンバーグ、例の餃子、例のパイ

 持ち帰ったものは、精密フロー合成の触媒らしきものが一〇グラムほどと、実宇が襲撃されるまでに撮影できた秋野教授の研究ノートの一部、秋野村の写真、それに映画版〈ヴァナディースの向日葵〉のお蔵入りになったDVDだった。

 車とバイクで国道を南下する。道中、一同言葉少なだった。狭苦しい山岳路が郊外路に変わり、徐々に住宅や商店が増える。やがてロードサイド型の店舗が現れ、信号で停まれば一〇台以上が行列する。

「ちょっと寄り道しませんか」Bluetooth越しの由貴が言った。

「何、晩メシ? 宿に戻ってシャワー浴びてからにしたいんだけど」

「いえ、外付け光学ドライブを買って帰りたいなと」

「例のDVD?」

「そうです。うちの支給PC、光学ドライブついてないですよね」

「確かに。ちょっと考えが追いつかない。観ながら整理したいな」

「実宇さん、この先に家電量販店かハードオフないか調べてくれない?」

 由貴の言葉に応じて実宇がスマホで調べ始める。「えーっと……この通りの右手にハードオフあるみたいです」

「じゃあそこで」とだけ由貴は応じた。

 そのまま走り続け、ロードサイド型店舗が密集し始めた頃、実宇が不意に言った。

「あの子、逮捕されるんですか?」

 樹里は道路標識を横目に応じた。駅前市街地までの距離を示す数字が確実に縮まっていた。「村上綾さんのご遺体や瓶の破片から唾液のDNAが採取されてる。うちらが磯辺さんや増田さんに話を持っていけば、あの子を逮捕して、DNA鑑定して、一致して、起訴になるだろうなあ」

「少し考えさせてもらってもいいですか」と由貴。「僕には、それが正しいのか、自信がない」

「お前の考えてることはわかるけど、あたしは反対だな」

「……彼女たちは、いつか必ず滅ぶ」また信号で停車。シート高が高いバイクに跨る由貴は窮屈そうだった。「殺人は確かに許されざる行為です。ですが、僕らが警察に話せば、秋野村は確実に世間の耳目を集めることになる。彼女たちの秘密を暴き、村を衆目に晒すことも、殺人の告発と同じように正しいかは、僕にはわからない。僕たちは確実に、ある集団の文化、平穏な日常を、破壊することになる。だったらやがて来るべき滅びまで、そっとしておくべきなんじゃないかと思うんです」

「未開部族が文明と繋がったら独自の生活様式が滅ぶみたいな話だな」

「文化人類学的な話だけではなく、疫病や食生活の変化、文明による搾取の問題もありますね」

「うちの子が殺されかけたってこと忘れてねえか?」

「忘れていませんよ。なんの罪もない女子大生が殺害されたことも。今日子さんが『あたくしだと思って大事にするのよ』と仰ってたことも。だから悩んでいるんです」

「全否定はしないけどよ……」

「どんな場所でも、人は生きている。暮らしている」由貴は、一語ずつ噛み締めるように言った。「僕らが旅に出るのは、それを実感するためです」

 旅好きならば、理解できなくもないことだった。

 観光名所や名物の食べ物を堪能するのも楽しい。だが、人が暮らしているという実感は、足を運んで初めて得られるものだ。SNS越しの写真や動画では決してわからない感覚だった。

 乾由貴にはこういう感傷的なところがある。彼の美点であり、欠点でもある。そして、由貴の感傷に付き合うのは、程々にした方がいい。図に乗るからだ。

「所長、そういえば妙なこと言ってたな」

「あの人が言うことはいつも妙ですよ。何があたくしだよって話じゃないですか」

 チクるぞ、と応じて樹里は続ける。「出発間際になんか言ってたじゃん。石黒? とかいうやつが出たらふん縛って連れてこいとか」

「そうは言ってないと思いますが」次第に道が混雑し、車間距離を詰めないと割り込まれそうになる。後ろの由貴は頻繁にシフトチェンジを繰り返していた。「まあ、今日子さんにも何か思うところがあったんでしょう。そういうこともあります。気にしないでおきましょう」

「普通の女の子だった」実宇が口を挟んだ。「あの子が殺人を犯したなんて、私には信じられないんです」

「参考までに、反社会性パーソナリティ障害の人は、非常に感じよくにこやかに他人と会話するそうだよ。目的を達成するため、という注意書きがつくけどね。普段のその人の度を越した独善性を知っている人からすると、まるで別人格のように見えるんだってさ」

「いわゆるサイコパス?」

「そうそう。僕は本人と面談したわけじゃないし、そもそも精神科医でもないけど、マヤさんサチさんからの断片的な情報や、彼女の行動を思い返すと、DSM‐5の診断基準にぴたりと符合する」

「生得的なものなのか?」と樹里は言った。

「遺伝要因と環境要因の両方と考えられてますね。後者の代表的なものは幼少期の虐待です。それで少し考えたんですけど……」

「あ、ハードオフ」実宇が声を上げて前方を指差す。そこで由貴の話は中断となった。

 店内に掃いて捨てるほど並んでいた外付け光学ドライブのうち、使えそうなものを二束三文で購入。会計は由貴が済ませたが、領収書を忘れずに貰っていた。

 そして店外へ出ると、由貴はなぜか腕組みで道路の反対側を見つめていた。

「ねえ樹里さん。静岡といえば例のハンバーグチェーンですよね」

「御殿場の店が休みのたびに大行列するっていう、あれか?」

「この辺にあるんでしょうか」とスマホを取り出した実宇が、そのまま前を指差した。「あったー!」

 斜向かいにログハウスのような外観の店舗があった。ロードサイドらしい背の高い緑の看板。あたりにそこはかとなく漂う香ばしい匂いが食欲を刺激する。

「これは行くしかないでしょう。見つけちゃいましたから。もう運命ですよ、運命。そのへんのしょっぱい居酒屋よりずっといい」

「はい私行きたいです! でっす!」

「まだ一旦ホテルに戻るとかつまんないこと言います?」

 由貴と実宇、ふたりの目線を一身に受けた樹里は、ため息をついて応じた。

「わかったわかった。行くよ。行けばいいんだろ!」


「クロスをお持ちくださーい」

「おおー」

「ソースはお掛けしてよろしいですか?」

「お願いします」

 鉄板の上で肉汁が跳ねる。表面は炭火の焼き目も鮮やか、内部は生の俵型ハンバーグに店員がナイフを入れ、真っ二つになったものを鉄板に押しつけて加熱する。そしてオニオンソースを掛けると、一気に沸騰して甘く焦げた香りが広がる。派手に飛び散るところまで含めてのエンタテイメントなのだ。

「粗挽きで肉感がすごいですねえ」赤みがやや残るハンバーグを頬張った由貴は、ちょうど責任能力鑑定について語っている時のように満足気な笑みを浮かべていた。「美味しい上に楽しいなんて最高じゃないですか。これは愛されるわけだ」

「へー。肉の鮮度のために工場からの距離が大事で、だから県外に進出できないんだな」樹里はクロスに書かれていた店のこだわりの文を横目によく焼きを入れ、それからソースをたっぷりつけてハンバーグを口に運んだ。途端に広がる肉汁。オニオンソースの程よい酸味で食が進む。ご飯によく合う気取らない味だった。「やっば。これうまっ。一回食べてみたかったんだよ。やべーわこれ」

「はぁー、幸せ……」実宇はフォークを手に恍惚としていた。「あっ、写真忘れた……」

「地方都市ロードサイドのブリコラージュは写真に写るものじゃないよ。体験が大事。動画に香りは収録できないしね」

「ユッキーお前さ、もうちょっと他に言い方あんだろ」

「わかってますよ。僕のこういう思考は都会目線のジェントリフィケーションであると仰るんでしょう」

「ちげーよ。大体限定的な嗅覚センサーなら実用化されてるものもあるっつーの」

「わかりました。つまりこの世のありとあらゆるところに世界を裏から支配する秘密結社の痕跡があるってことですね。どうして誰もイルミナティの存在に気づかないんでしょう? 不思議です」

「どこからイルミナティが出てくる……」由貴は肩を落とし、そしてまたハンバーグに舌鼓を打つ。

 そして全員の皿と鉄板が空になった頃、由貴が言った。

「経費で落ちますかね」

「経理にはお前が出せよ。あたしは知らん」

「飲み代は樹里さん持ちで」

「飲みながら観るのか? 一応証拠品だろ、あのDVD」

「飲みたい気分なんですよ」

「大人は大変ですねえ」と実宇は呟いた。「大丈夫ですよ。私が白面で観ますから」


 ホテルに戻り、県警の磯辺に一応連絡を入れておく。成果はあるともないとも取れる玉虫色の表現に留め、詳細は明日と言っておく。

 それからスマホでホテル近くの酒屋を調べて徒歩で向かう。

 場所は住宅街のど真ん中。向こう三軒も個人の住宅だった。怪しげな佇まいに胸が躍る。酒屋とはそういうものだ。

 店内には県内産から有名ブランドまで多種多様な日本酒が所狭しと並ぶ。頑固一徹な様子の店主に尋ね、せっかくなので地元の酒蔵のものを中心に二合瓶で数本と、白ワイン酵母で仕込んだという変わり種を一本購入した。

 そしてホテルの前の喫煙所まで戻ると、片手を挙げる乾由貴の姿があった。夏の長い日も暮れかかる時間だった。

 喫煙所のベンチにはどこかからテイクアウトしてきたらしい料理の包みがある。酒は樹里、食べ物は由貴の担当になっていた。

「そろそろ頃合いだと思ってたんですよ。一本ください」

「何買ったの?」

「決まってるでしょう。餃子ですよ。それと徳用のうなうなパイ」

「及第点」と応じ、樹里はボディバッグからタバコを取り出す。

 一本加えて火を着け、ひと息吸って吐く。それから、赤熱する先端をもう一本の先端に当てて、吸って火を移した。

「ほれ。一本」

「樹里さん、そういうのやるんですね……」

「いいだろ別に。続けて二本吸うことってないから、やってみたかったんだよ」

「誰かの真似ですか?」

「ジャン=ポール・ベルモンド」

「まーたパリ要素ですか」由貴はタバコを吹かして言った。「何を買えば満点になりました?」

「うなぎの白焼」

「予算オーバーですよ……」由貴は苦笑する。

 おおよそ二十四時間ぶりのニコチンが頭に染みた。昼から夜への切り替わりに虚しい抵抗をするような蝉の声がどこかから聞こえた。

 地方は自然が多い、という一般的な感覚は、部分的には間違っている。どんな街中でも計画的に、やや大袈裟に緑化される東京の方が、そうでない地方都市より蝉の声を聴く機会が多い。中心部を離れても、存在するのは里山などというロマンティックなものではなく、人々の胃袋を支える農地だ。そして山林は気安く立ち入る場所ではない。

 そんなことをぼんやりと考えていると、疎らな街路樹の上で儚い命を燃やす蝉の鳴き声が止んだ。

「露骨すぎましたかね」と由貴が言った。

「ハンバーグで子供の機嫌を取ることか? 悪いことはしてないと思うけどな」

「衝撃的な出来事の受容には時間が必要です。そしてそれを消化できるのは本人だけ。周りの人間の支えってのは、畢竟、意味がありません。支えるのは、周りの人間の方が、立ち直った本人から後で恨まれないためなんですよ」

「それは何心理学?」

「僕の人生哲学ですかね。あるいはただの故事成語。情けは人の為ならず、です」

「迂闊だったよ。反省してる」なかなか短くならないタバコを見つめつつ樹里は言った。「あの村は敵地だって意識があたしにはまるでなかった」

「それを言うなら僕もですよ。ところで」指先でタバコの灰を落とし、由貴はさらりと言った。「話の続きなんですけどね」

「どれだよ」

「反社会性パーソナリティ障害です」

「それかよ」

「環境要因として幼少期の虐待があると言いましたね。これも符合するのではないかと思うんです」

 話す相手の困惑に配慮するつもりはないようだった。諦めて樹里は応じた。

「そんな様子あったか?」

「子供を冷凍睡眠の実験台にしたんですよ。秋野という科学者の非人道性はともかく、その実験に子供を参加させた親も親でしょう」

「不要な子供だったってことか?」

「もしかしたら母親も合わせて」由貴は時折車の行き交う街路に目線を逃した。「僕が見た廃村の住人だったのかもしれない。周りの集落から、不要な女を集めて実験に使ったのかもしれない。遺伝要因があるということは、キツネ憑きを隔離して滅ぼそうとしたのかもしれない」

「よせよ。八〇年近く前の話だぞ」

「でも過去です。現代は過去の続きです」

「忘れることがいいことってのもあるんじゃねえの?」

「この議論には結論がありませんね」

「全部憶測だからな。データに基づかない話ってのは、酒かタバコのお供が似合いだろ」

「仰る通りです。……上がりますか」

「だな」樹里はベンチに置いた袋を取り上げた。「このワイン酵母のやつ、冷温と常温で味が変わるらしいよ」

 樹里のスマホが着信に震えていた。実宇からだった。

 樹里と由貴は揃ってタバコをスタンド灰皿に放り込んだ。

「さてさて……何が出るやら」と由貴は呟く。

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