1-17.刑法第一〇五条
一階の応接室にひとり残った園田実宇は、ひたすらノートを撮影する手を止めた。
日陰とはいえ空調はない。窓は開いていたが、部屋の中は熱気に満ちていた。その、暑さのせいなのかもしれない。話す相手が急にいなくなったせいかもしれない。実宇はふと、眼の前の現実が現実味を失っていくのを感じた。
深夜の都内心霊スポット通いを習慣にしていても、心霊現象に遭遇することはなかった。オカルト雑誌の記事を楽しんでも、頭の中のどこかでは、UMAも宇宙人もいるわけがないと考えていた。常識の一線を引いた上で、これは嘘だという暗黙の了解のもとに楽しんでいた。昔の映画を観ているときは、ミニチュアを釣るワイヤーが映り込んでも見てみぬふりをするように。
にもかかわらず、ここは七〇余年の眠りから目を覚ましたクライオニクサーの女たちによる地図にない村だ。専門家である小暮樹里は驚いてはいても、疑ってはいないようだった。
強い日差しの屋外と薄暗い室内。まるで昼と夜のよう。ぼうっとして、水分補給をしておこうと思い出して、ペットボトルホルダーをぶら下げたサコッシュバッグに手を伸ばした時だった。
急に背後から何かが髪に触れた。
声を上げて慌ててバッグを抱えてソファの端から端まで後ずさる。それから実宇は、音もなく忍び寄っていた人影をしげしげと見た。
同年代の女の子だった。実宇は胸に手を当てて深呼吸する。心臓の鼓動が一気に高まっていた。
ソファの背もたれに顎を乗せて、彼女が何か言っていた。大きく吸って、吐いてを三回繰り返して、何を言っているのかわかった。
「……髪?」
「うん。綺麗な色ね」
「これ?」実宇は自分の髪を一房摘んで持ち上げる。「いいっしょ。先週染めたばっかなんだ」
「どうやるの?」
「どうって……カットして、ブリーチして、カラー入れて……」その時、実宇は白いワンピースから伸びる少女の腕に包帯が巻かれていることに気づいた。
赤い滲みがない。この子も血の色が白いのだ、と否応なしに思い知らされる。
「怪我してるの?」と実宇は訊いた。
「うん」
「痛い?」
「うん」
それきり、話が続かない。
間が持たなくなって、実宇は思いついたことを口にする。
「てか凄いね。血、白いんでしょ? そういえば名前なんてーの?」
「あなたの血は赤いの?」
「普通に赤いっしょ」
すると少女は立ち上がり、応接テーブルの方に回り込んだ。そして、置きっぱなしになっていた、お茶の入っていた瓶を手に取った。
そして少女は言った。
「あなたの赤い血を、私にちょうだい」
少女の片手には瓶、もう片方の手には血に汚れたナイフがあった。
思い出す――山田香菜が言っていたこと。
村上綾を夜の公園に誘い出した、ゲームのセリフだった。
*
「刑法第一〇三条には、罰金以上の刑に当たる罪を犯した者又は拘禁中に逃走した者を隠匿し、又は隠避させた者は、二年以内の懲役又は二十万円以下の罰金に処する、とあります。しかし一方で……」由貴は天井の配管を避けながら、ゆっくりした足取りで左右を往復する。「刑法第一〇五条には、犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯したときは、その刑を免除することができる、とあります。あなたが真犯人を匿っても、もしそれが親族であるなら、蔵匿、隠秘の罪には問われません。逆に言えば、この規定の存在は、親族は……特に親は子の罪をしばしば庇うことを意味するわけです」
「じゃあまさか……」と樹里。「サチさんが犯人というのは嘘。彼女の子供が真犯人、ってことか?」
「そちらの方が辻褄が合うでしょう。防犯カメラの映像には、犯行後の犯人と思われる人物を公浜ガーデンパークから慌てて連れ戻している様子が映っていましたよね。隠れ住むことに耐えられない、若く無分別な人物が〈ヴァナディースの向日葵〉の映画版を観た。そして勝手にこの秋野村を抜け出し、ガーデンパークへ向かった。外から見咎められない程度に、運転の練習くらいはしていたんでしょう。年長者もいつまで理性を保てるかわからない。外との接点を引き継がせる必要もありますからね。だが公道走行は初めてだ。どうにか近くまではたどり着いたが、路肩の木に突っ込む事故を起こした。事故の痛みに耐えながら、その何者かは、向日葵畑の中で蹲っていた。その姿が、山田香菜の写真に写っていた」
「いや、山田さんのことここで話してないだろ」
「反応を見てるんですよ」本人たちを前にして事もなげに言って、由貴は続けた。「あなたたち、いつまでもここで生きていけるわけじゃないとは理解していますよね。ただでさえ山地の中、地盤も脆弱。一度の土砂災害で、ここの暮らしは破綻する。あなたたちはその誰かに、外の世界を見せようとしていたのでは? 秋野村の女たちと外の世界の人間たちの違いを教えて、いつか村を解体して、社会の中に溶け込ませようと考えていたのでは? あるいは……」
マヤとサチは黙って互いに目配せを交わしている。
由貴は意を決したように続けた。
「手に負えなくて放逐しようとしたか」
「そんなことはありません!」サチが即座に応じた。
由貴は満足気だった。「なるほど。あなたは信じていた。あなたが母親ですね。しかし長であるマヤさんはそうではなかった。サチさんの娘さんは、秋野村の秩序を乱す存在だった」
「ええ。その通りです。あの子は手に負えなかった」マヤが観念したように言った。「人の物を盗ることにためらいがなかった。誰かを傷つけることにも。息をするように嘘をつき、託された仕事を投げ出してそれを悪びれることもなかった。今年の梅雨時には、長雨で溢れそうになった川に、母親であるサチを突き落として殺そうとした」
「外でも生きていけるようにしたかったんです」サチは肩を震わせていた。「車の運転を教えたのは私です。映画を見せたのも。それがどうして……」
「目覚めてから今までの死者数は?」由貴は訊いた。「冷凍容器は四〇ありました。今の村人の数は三〇ほどでしたね。二〇〇〇年の目覚めから現在までにそれだけの死者が出ていることになる」
マヤが応じる。「十二人です。現在の人口は二十八です」
「〈AX968〉による長期スパンの脳機能障害を考慮すると、人口は加速度的に減少する可能性があります。一定以下になると、生活を維持する労働力が不足する。そしてこの村に男はいない。そもそも、冷凍睡眠から目覚めたあなたたちが正常に妊娠・出産できるか……」
「ユッキー、ちょい待ち」樹里は口を挟んだ。「要約すると、サチさんの娘さんがサイコってことか?」
「いくらなんでも適当すぎますがそういう理解でも結構です」
「この村のどこかにいる」
「そうなりますね」
「戻ろう」樹里は由貴と、マヤとサチのふたりを押しのけた。「ミューちゃんをひとりにするべきじゃなかった」
「確かに。彼女は一見してわかる都市の人間です」
「一見して?」
「シアンのインナーカラー」と由貴が短く応じた時だった。
上階から悲鳴が聞こえた。
一階フロアへ飛び込んだのは由貴が先だった。だが、廊下を走れば樹里の方が速かった。そして応接室に飛び込んだ樹里が目にしたのは、ソファの上で手脚を縮めている実宇と、目元を抑えてうめき声を上げながら本棚の下に蹲る、白いワンピースに長い黒髪の少女だった。
樹里は実宇の元に駆け寄って手を取った。
「大丈夫? 何があった?」
「その子が、瓶持って、それで私……」
床にはガラスの破片が飛散し、その中に、乾いた血に汚れたナイフが転がっていた。瓶は、サチがお茶を入れてきた瓶だった。ナイフは、村上綾殺害の凶器に違いなかった。
そして実宇が持っていたものを取り落とした。毒々しい赤色をした防犯用の催涙スプレーだった。
実宇の身体を抱きしめる。華奢な全身が小刻みに震えていた。
「今日は帰ろう。怖い思いさせてごめん」
「で、でも私、まだノートの写真……」
「そんなのいいから!」
「全面的に同意します」ガラスを避けながら部屋に入ってきた由貴が応じた。目は蹲る少女へ向けられていた。「その子が何者でも、たとえ殺人犯でも、逮捕拘束する権限も義務も僕らにはありません。僕らはあくまで調査分析機関の人間であり、警察ではありませんから」
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