1-14.コミューン
轍のある道はほんの五〇メートルほど。そこから先は、軽自動車でも通れないほどに道幅が狭くなり、やがて徒歩での行き来も困難になる。身体を横にして法面に張りつくようにして、高さ五メートルほどの崖下を睨みながら進む。足を少し滑らせたら死が待っている。
実宇と由貴が騒いでいる。実宇はともかく、由貴の方は、口先では騒ぎながら頭の中では様々な考えが渦巻いているに違いなかった。
案内に立つ女は、マヤと名乗った。地図に載らない秋野村には、マヤを含め、女ばかりが三〇人ほど暮らしているという。
文明から隔絶されたコミューン。アマゾンの奥地ではなく、日本の、国道から数キロの場所にそんなものが実在していたのか。にわかには信じがたいが、貫頭衣に手編みの草鞋というマヤの衣服は明らかに現代文明と趣を異にしていた。ゲームの設定と言われた方がまだ信じられる。
やがて杉や檜の木立が開け、幾つかの建物が見えた。コンクリートのものと木造のものが混在して経年劣化し、ほとんどバラックのようになったものが合わせて五棟。いずれも枝葉で厳重にカモフラージュされ、科学技術の目を逃れていた。裏を返せば、知識のある誰かによる計画性が見て取れた。
「築八〇、いや、一〇〇年は経ってるかもしれません」と由貴が呟く。樹里は応じる言葉を持たなかった。
同じ服に、同じように髪を伸ばした女たちが、三人とマヤを遠巻きにしていた。ある者は布を束ね、ある者は作物を運ぶ。またある者は火を使い、一方では何かの粉末の入った二〇キログラムの袋を一輪車で運んでいる。
「完全な自給自足ではありません」とマヤが言う。静かで、消え入りそうな声だった。「少数の協力者を経由して得た現金収入で必要最低限の物資を購入しています」
「……凄いな」戸が開け放たれた木造の建物の方を見て由貴が言った。「手動織機なんて初めて見た。このあたり、昔は豊富な水を背景に綿花の栽培と織物産業が盛んだったんです。現金収入はそれで得ている、というわけですか」
「現代では一部を除きほぼ失われました」とマヤ。
実宇も目を丸くしている。「すっご。鶴の恩返しのあれじゃん」
「そういや、かの自動車メーカーも元は自動織機だもんな」
「創業者の出身地は三河ではなく遠州ですね」由貴はわざとらしく顎先に指で触れた。「なるほど。それでクラウンにタウンエースか」
「綿花畑は? ここからは見えませんけど」
マヤが変わらない平板な声音で応じる。「森の中の一〇箇所に点在しています。一箇所に集めると目立ちますから」
「そんなことより」由貴はレプソル・ホンダ印の刺繍された野球帽を取った。「あなたたちは何者ですか。なぜこんなところに。僕らの来訪を誰から聞いた。警察と仰いましたね。公浜ガーデンパークでの殺人事件は……」
マヤは答えず、代わりに「中で話しましょう」とコンクリートの二階建ての建物へと一行を誘う。
かつてはガラスが嵌っていただろう扉を抜けて建物の中へ。電気は通じていないらしく、照明は壁に取りつけられたランプが担っていた。足元は建材がそこかしこで剥がれていたが、元は正方形のラバータイル張りだった。
扉が外された部屋の中には、ベッドや点滴器具、金属の医療器具が打ち捨てられている。
「病院か、研究施設だったんですかね」と由貴。
「な、な、謎の廃病院……」実宇は、恐怖というより興奮でわなわなと震えている。
廊下を進み、初めて現れた扉のある部屋へと誘われる。
室内は清掃が行き届いており、窓ガラスも残されている。電気が通じているのか、照明も灯っていた。元は応接室か何かだったのだろう、大型の執務机のようなものが窓際に置かれ、壁の書棚には書籍やファイル、ノートの類が詰め込まれていた。
その触れれば崩れそうな書籍のいくつかに樹里は目を留めた。
「山岡望、小竹無二……マジか」
「何者です、それ」
「日本の昔の有機化学者で、教育者だよ。昔っつーか、これ、世代的には戦前の大学の教科書だな。日がな一日よその大学の図書館に引きこもってた時に見たことがある」
「なんで自分のところじゃないんですか……」
「まあ、そこは訊くな。国立の方が充実してて面白かったんだよ」
「昔ってことは、そんなに価値はないんですか?」
「いやいや、あたしの卒論も反応経路のひとつに一九五〇年代のやつをリファレンスしたぞ」
「僕も判例とかでは一九三〇年代のものを引いたことがありますけど、というか定番がいくつかありますけど……そういうの、法律の世界だけだと思ってました」
「何事も先人の築いた基礎の上に成り立つからな。どんな分野でもまともに研究しようと思ったらそうなるってことだろ」樹里は更に別の棚に目を移す。「こっちは医学書で……研究ノート?」
「それについてもお話しします。どうぞ、おかけになって」
四人がけのソファセットがあった。由貴と実宇が先に座り、樹里はノートに手を伸ばそうとして、諦めて腰を下ろした。
見計らったように扉がノックされ、村の女が茶を携えて入ってくる。
年の頃は、マヤより少し年下か。髪が短い。そして、マヤと同じく青白い肌。死人に給仕されているようで落ち着かない。出されたものは、香りから察するに、何の変哲もない冷やした緑茶のようだった。
同じお盆に乗っていたものに目を奪われた。鳥のマークがエンボス加工されたガラス瓶。事件現場で発見されたものと同じだった。
そして女は退出しない。彼女はそのまま、奥の机についたマヤの隣に立った。
「サチと申します」と彼女は言った。
「まず、みなさんがお知りになりたいことをお答えします」とマヤが後を継いで言った。「向日葵畑の殺人事件は、彼女の犯行です」
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