1-13.酷道をゆく
長いトンネルを抜けると、標識の表示がいつの間にか市道を表す五角形に切り替わっていた。国産車とはいえアメリカ仕様である樹里のエレメントでは左右の草木に衝突しないか不安になる。鬱蒼と生い茂る木々のために眺望はないに等しい。舗装は荒れて穴や水たまりが目立つ。アフリカツインで先を行く由貴も、後ろに遠慮しているというよりは、自身の安全運転のためにスピードを出せない様子だった。
やがて道は申し訳程度の舗装だけがされたワインディングになる。もちろん、観光地化された峠のようにスポーツ走行を楽しめる類のものではない。単に険しいのだ。
ガードレールすらないところが増える。すれ違いのための待避所は舗装がなく、常緑の針葉樹が作る影のために、真夏の真昼だというのに乾燥しない泥溜まりができていた。
進んでも進んでも終わりが見えない様は、まるで森の中の獣道。時間間隔を失わせる薄暗さだが、エアコンを弱めるようなゆとりはなかった。ステアリングから片時も手を離すことなく、一八〇度転回の曲がり角を最徐行で通過。由貴の騒ぐ声がスピーカーから響いた。
「ヘアピンカーブって、なんというか、こういうのじゃないでしょ!」
「倒すなよー。倒したら下の藪まで真っ逆さまだぜ。こんなとこじゃクレーンもレッカーも入れねえ」
「勘弁してください。納車半年なんですよ!」由貴の背中は明らかに肩に力が入っていた。「樹里さんこそ、これ脱輪させたら終わりですよ」
「わかってるよ! ああくそ、こんなことならジムニーにするんだった」
「わー! 絶叫マシン!」と実宇は笑っている。彼女をひと目見て、いつか舞浜にでも連れて行ってあげようと思った自分を樹里は呪った。
「黙っとれそこのJK!」
「ぎゃー! 死ぬ死ぬ!」
「うるせー!」
「おわーっ! 今ABSなかったら死んだ、絶対死んでた。二輪車ABSが義務化してよかった」
「うるせえって言ってんだよカス!」
「そのすぐカスカス言うのやめませんか?」
「やかましい!」
騒げども道のりは遠い。
だが、どんな道にも果てはある。山岳狭隘路がようやく緩やかになった時、いくつ目かのつづら折りの先に、それは現れた。
先行する由貴がバイクを急停車させた。
小川を渡る小さな橋があった。装飾はおろか欄干すらない。塗装が剥げて一部が朽ちた木製のバリケードが置かれて立ち入りを阻んでおり、その先には、反対側が見通せる小さな短いトンネルがあった。
開通しない国道が近くにあるため、工事中の表示が出された場所はいくつも目にした。峠を抜けることだけが目的ならば、気にも停めずに通過してしまうだろう。
樹里は車の窓を開けた。湿った熱気が車内に侵入する。
「調べてみるか?」と呼びかける。
二輪と四輪のアイドリング音が、人気のない森に紛れていく。由貴はバイクに跨ったまま、橋とバリケードとその先のトンネルを睨んでいた。
そして由貴はエンジンを切って、バイクを降りた。ヘルメットを取って、グローブも取る。
樹里も車を降り、実宇も倣って降りる。途端に蝉の声に包まれる。
「妙ですね」と由貴は言った。「工事表示板がない。短期で完了するものじゃない限り設置が法令で義務づけられてるはずなのに」
「ご迷惑おかけします云々ってやつか?」
「それです。道路みたいな公共工事だと、発注者である自治体、ここなら公木浜市の土木事務所の名前と、実際に施工を行う業者の名前、それぞれの連絡先とかが書かれたものをわかりやすい場所に設置する必要があります。……見当たらないですよね、どこにも」
樹里はクーラーボックスからスポーツドリンクを一本取り出して由貴に渡した。
「調べてみるか? 多少立ち入ったところで、誰も見てねえだろ」
律儀に礼を言ってから由貴は応じる。「鳥や獣が見てますが……」
「中断だから取り下げてるとか」と実宇。
「他のところは一応表示はあったけどなあ……」由貴はペットボトルを手に、バリケードの隙間をすり抜ける。
「おい鳥や獣は」
「人は万物の霊長ですよ。神には後で懺悔しましょう」
会話するような鳥の囀りがどこからともなく響く。由貴は木漏れ日で斑模様になった橋を渡り、トンネルの影を抜け、そして反対側の陽だまりへと進んで足を止めた。
樹里も一度実宇に目配せしてから、腹をくくってバリケードを跨ぎ越えた。ほんの三メートルほどの橋の下を流れる川は水量が少なく、真上に立ってようやくせせらぎが聞こえる。
飛び回る羽虫を避けてトンネルに入るとひやりとした空気が肌を撫でる。ついてきた実宇が水溜りを飛び跳ねるようにして避ける。
「おいユッキー。なんかあったか?」
「何もありゃしませんよ……と、言いたいところですが」
由貴が指差す先。
幌をかけられた車のようなものがあった。由貴はスマホを出して次々と写真を撮影する。迷彩色の幌は一台用にしては大きく、余った分が丸めてペグを打たれて固定されている。
「最近ですね」と由貴。「上に葉がほとんど乗っていない。ペグも錆びてない。車体は……」
幌の一部を捲ると、白いライトバンの車体が見える。人差し指で外装を撫で、感触を確かめてから由貴は立ち上がった。
「洗車直後ですね」
「業者の車じゃねえの?」
「洗車してこんなところに放置はしないでしょう。それに、ナンバーが取り外されてる」
由貴が指差す先には、あるはずのナンバープレートがなかった。
三人で幌をすべて取り外す。現れたのは比較的新しい型式のトヨタ・タウンエースバンだった。車内には偽造されたらしきナンバープレートと工具類が収められている。
「そこ、タイヤの形に凹んでます。幌の大きさから見ても、隣にもう一台停めてあったんでしょう」
「例の事故車か。ホイールベース的にも小型車だな。例のクラウン、古い型式だから小さいよな?」
「ホイールベースで2720ですね」
実宇は現場保全的なことを考えたのか数歩下がって言った。「じゃあ犯人の少女は、ここから車で市内まで出て、こっちの大きい方が追いかけて連れ戻した……?」
「その過程で洗車もした。血痕でも着いたとすれば、辻褄が合うね」
「あたしのより横幅狭い車だし、やる気があれば走れないこともないか」
「でも車ってこんなところに放置してて壊れないんですか?」と実宇。
「どんな旧車でも適切に整備すれば動くよ」由貴が答えた。「なんてったってそこはトヨタ車だし」
「遠回しにあたしの車をコケにすんじゃねえよ」
「適切な整備には適切な設備と、知識と経験を持った人間が必要です」
「さっきの兵頭さんがその役目を担っていたとすれば……」
「整備工場の方はかなり長くやってるみたいでしたよね」
「この先、進んでみましょうよ」実宇が広場の奥の方を指差す。
道と呼ぶにはあまりにもお粗末だが、一応轍のようなものは見えた。車一台ならば通行できそうだった。
「とりあえず僕が先に行ってみます。車で進めるなら、ここに車置いとかないでしょうし」
「それもそうか。ここじゃ目立つもんな」
「表からは見えませんよ?」
訝る実宇に、樹里は空を指差した。
「衛星写真からは丸見えじゃん。迷彩かけとけば無償の民生レベルでは目隠しできるだろうけど」
「軍事レベルだったら丸見えでしょうけどね」由貴は目を細めて空を見上げていた。
車を入れることにした。バリケードを動かし、橋とトンネルを徐行で抜け、ライトバンともう一台の跡を避けて停車する。
そして由貴は片手を挙げて意気揚々と林道のような道の奥へと突入し――五分ほどで悄気げて戻ってきた。
「駄目です。路肩が崩落しててとてもじゃないけど徒歩以外じゃ進めません」
しょうがねえな、と樹里は応じて、車の後部ハッチを開けた。
バックパックに最低限の荷物を詰める。樹里は靴をフラットシューズから登山用ブーツに履き替え、薄手の長袖パーカーを羽織った。
「こんなこともあろうかと、登山用にも使える靴にしてきました」由貴は自分の足元を指差す。
「私のも安物ですけど一応トレッキングシューズです」実宇の靴は作業服ブランドが販売しているもので、樹里の自宅の棚にも二年前のモデルが一足眠っていた。
そして日除けのハットやキャップを被り、
準備万端、いざ出発という時だった。
「……誰だ」由貴が言った。常になく鋭い声だった。
分け入ろうとしていた道の入口に、綿の貫頭衣のようなものを着た女がいた。
実宇が樹里の腕を掴んだ。由貴が一歩前に進み出た。
女の歳の程は、一見すると四〇代の半ばくらいだろうか。だが、時間をかけて観察すればするほど、実年齢がわからなくなる。それあ、腰まで届く長い髪のせいかもしれない。口紅も何も差していない唇のせいかもしれない。荒れた手指のせいかもしれない。どこの衣料品店でも売っていないタイプの服のせいかもしれない。
だが、その女を最も異様にしていたのは、肌の白さだった。赤みのようなものが感じられず、むしろ青か緑を帯びているように見える。日差しを浴びていても影の中にいるかのようだった。
「警察の方ですね? そろそろいらっしゃる頃合いと伺っておりました」女は道の奥へと手招きして言った。「ご案内します。ようこそ、秋野村へ」
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