1-15.AX968

「大変申し訳ないですけど、意味不明ですよ」紋切型の自己紹介の後、口火を切ったのは由貴だった。「あなた方がここに隠れ住む人々だ、それも理解不能だが納得しましょう。しかし、人が人を殺すには相応の理由が必要だ。被害者の村上綾さんは、この土地に縁もゆかりもない。公木浜市をたまたま訪れていただけの女子大生だ。たとえばあなた方……この秋野村の生活を脅かす存在を処理したとかならまだ納得がいきますけどね。接点が想像できないわけじゃない。塩は。糖質は。脂質は。タンパク源は。ここに繋がってるだろう発電機のガソリンは。車は。でも、そのいずれも、東京から来たゲーム好きの女子大生とは重ならない」

「こいつの疑問への答えは、あなた方が何者であるかに深く結びついている。そうですね、マヤさん、サチさん」樹里は二人を順番に見た。「八〇年以上前の本がある。八〇年以上前に滅びが始まった生活様式がある。まるでタイムスリップでもしてきたみたいですね」

 すると、マヤとサチは目線を交わして笑いあった。

「実のところ、その通りなのです」とマヤは告げた。「私たちが眠りについたのは一九四五年。最初のひとりが目覚めたのは一九九五年。地下に私たちを冷凍保管していた棺があります」

「冷凍睡眠? まさか、そんな……」口の端で笑う由貴。「ねえ、樹里さん」

「まさか、ここのノートはその研究の過程、あなたたちが成果?」

「……クライオニクス!」実宇は半開きになっていた口を閉じて声を上げる。「アルコー財団だけじゃなかったんだ。この日本に、アルコーだって首だけ保存とかなのに」

 マヤは静かに頷く。

 樹里は席を立ち、本棚のノートを手に取った。

「悪い、ユッキー。質問はお前に任せる」

「餅は餅屋ですね。そちらはお願いします」由貴は頷き、マヤたちへと向き直った。「では、僕の専門でないところは気にしないで続けます。あなた方は一九四五年に眠りについた。その理由は?」

 マヤは感情の感じられない声音で応じる。「本土決戦。この国が火に焼かれた時、最も尊い方とその方のお子を宿すための女たちを未来へ向けて保存するための取り組みです」

「そんな突拍子もない研究、一体誰が」

「名古屋帝大の秋野忠義教授」

「秋野村の名の由来ですか」

「そもそも……」樹里は口を挟む。「一九一〇年代だったかな。凍害ってのは塩濃度が高まるせいだと考えられてた。現代ではこれは誤りで、凍結に伴う水分子の膨張、細胞への器械的で不可逆な損傷によると考えられている。しかし昔の人の言うことにも一理あってな、細胞液内に糖が大量に存在すれば塩の作用を緩和できると考えてた。理屈は間違いだが糖が有効なのはある意味ではマジだ。糖によって水の分子運動を阻害して、結晶ではなくガラスの状態で保存するんだよ」

 ガラスと結晶の差は、分子の配列が規則的であるか否かによる。分子同士が熱的に安定になるよう立体的に最適化され、繰り返し構造を取る結晶に対し、配列が無秩序あるいは限定的な繰り返し構造のまま熱的な準安定状態にあるものがガラスと呼ばれる。単体でガラス状態への転移点を持つ物質もあれば、複数の物質を混合することで準安定になる場合もある。

 樹里は英文で書かれたノートの表紙に目を落とす。Tadayoshi Akinoと署名されていた。

「秋野忠義。知らない名前じゃない。三〇年代に作物の凍害研究から蚕の精子の冷凍保存研究をしてた人だ。だが養蚕業の衰退に伴って彼も研究の表舞台から姿を消した」樹里はノートを開く。「続けてたのか。それも、蚕どころじゃなく人間の冷凍保存の研究を?」

 由貴は眉を寄せる。「普通生きてるものを冷凍して解凍したら死んじゃうと思いますけど、あなたたち死んでないですよね。どんな魔法を使ったんです?」

 マヤが答える。まるで他人事のように淡々としていた。「秋野先生の開発した凍害防止剤です」

「えっと……樹里さんの言うところの、塩の作用を緩和する糖?」

 ノートはすべて英文で、几帳面にブレずに綴られた字や図表には持ち主の性格が窺われた。開いたページにはラットでの実験結果が記されていた。貼り付けられた写真は四方に秋野の印が押され、その上からテープで留められていた。

 麻酔したラットの静脈に二時間ほどかけて穏やかに〈AX968〉を投与、血液を置換する。そしてマイナス五度で冷凍し、四十八時間後に穏やかに解凍する。ラットの生存が確認された、とある。

 〈AX968〉がその凍害防止剤を示すようだった。日付が古いノートを開くと、内容は動物実験ではなく専ら有機合成になる。開発初期には蚕も使用されていたが、血中に酸素運搬体を持たない生物を用いた開発に途中で見切りをつけたようだった。

「……合成した化学物質で血液を置換する?」

 呟いた樹里に実宇が応じた。「できないんですか? なんかこう、ちょいちょいと」

「できてたら献血ルームは全部閉店じゃん?」

「あ、なるほど」

「すみません、少し理解が追いつかないのですけど」由貴はこめかみにわざとらしく人差し指を当てる。これは理解が追いつかないのではなく、話の主導権を握りたいのだとわかった。「神州の国土が戦火に晒されるリスクへのヘッジとして神と、その子を孕むための女の冷凍保存が計画され、秋野忠義という化学者がその技術を確立した。冷凍保存のためには、何らかの化学物質で血液を置換する必要がある」

 マヤは頷く。「そのための〈AX968〉です」

「見えてきました。その〈AX968〉は、乳白色の乳液状の物質ですね?」

「はい。私たちの身体には、鉄の配位したヘモグロビンの代わりに〈AX968〉の集合体が流れ、酸素運搬体の役割を担っています」

「すみません、やっぱり見えない。凍害防止剤がどうして酸素運搬体になるんですか。ヘモグロビンってタンパク質でしょう。サイズの桁が違う……ですよね、樹里さん」

「合ってるぞ。続けろ」樹里は逸る気持ちを抑えて、努めてゆっくりノートのページを繰る。「やっぱり。グリシルグリシンまたはグルコースが一部に枝分かれを持つ長鎖脂肪酸とアミド結合した両親媒性分子だ。すごいな。一九四〇年代なのに、合成経路が洗練されすぎてる。でも、実用レベルへのスケールアップはこれじゃ無理だ」

 反応経路図。実験手順。器具と設備と原料が揃っていれば再現実験を即座に行える精度で書かれていた。だが、内容の前に、構造式の美しさに驚かされる。手書きにもかかわらず、化学構造式描画ソフトで描いたと見紛うほどに整っていた。

 樹里自身と、柿野まゆみによるかの白い液体の分析結果から得た推測に、その構造式はぴたりと符合する。

「……マヤさん。集合体って言いました?」

「ええ。〈AX968〉は単体では凍害防止剤、水中で会合して自己組織化し、ヘモグロビンと同様に振る舞う酸素運搬体となります」

「ミセルのことを言っているのか……?」

 由貴はマヤと樹里へ目線を往復させる。「いや、そもそも、石鹸みたいな分子なんですよね。それが凍害防止剤になるんですか? ガラス化するんでしたっけ」

「それ自体はありえない話じゃない。細胞毒性が極めて低い凍害防止剤、タンパク質安定化剤として市販されている両親媒性分子もあるっちゃある。高いけどな」

「ざっくりおいくら万円くらい?」

「一グラムで一〇万円」

「嘘でしょ」

「一般論だが、両親媒性ってことは、原料は水に溶けるものと油に溶けるものだ。素材が嵩高くて複雑で、親水性なり疎水性なりが高ければ高いほど、同じ溶媒には溶けにくい。そんで有機合成反応はエネルギーを持った分子と分子の衝突によって確率的に起こるものだから、まず溶解して分子レベルまで分散しなきゃらならない。その面倒くささを日本円に換算すると、グラム一〇万になるんだよ。金属石鹸だとそんなこともないんだけどな」

「わかる人にはわかる納得の価格ってことですね。了解しました」

「秋野先生は」マヤが淡々と告げる。「酸素運搬体化の機構についての仮説も残されています。小暮さんが今お読みになっているものの、次のノートです」

 樹里はそのノートを棚から引き出す。その間に由貴が言った。

「マヤさんはこれをすべて読まれた?」

「時間はありましたから」と彼女は微笑む。ようやく彼女が人間に見えた。

 そして樹里はノートを開き、「マジかよ」と呟いた。

 〈AX968〉の、水中での自己組織化に関する考察と想像図だった。両親媒性の分子が親水部を外、疎水部を内にして二重膜を構成し、それが中空の筒を作っていた。少量含まれる金属分子が、ヘモグロビン内でポルフィリンに包摂されるようにその内部で安定的に存在し、血中酸素濃度に応じて配位した酸素の吸着と放出を行う。

 樹里は思わず声を上げた。

「有機ナノチューブか!」

 分子の会合・チューブ化のスイッチは温度変化による。すなわち、低温では分散して凍害防止剤として働き、体温程度の高温になると分子の活動が活発化して自己集合し、酸素運搬体となる。

 ページの左に書かれた日付を見る。一九四四年十月十七日とある。

「大澤映二がC60同素体の存在を予言したのが一九七〇年、フラーレンが発見されたのが一九八五年、飯島澄男がカーボンナノチューブを発明したのが一九九一年だぞ? 有機ナノチューブに至っては二〇〇〇年代だ。それを戦前に?」

「現存する技術なんですか?」と由貴。

「現代の、アカデミア領域ではな。ユニークな物質だけど量産化と応用、社会実装にはまだほど遠い……これ、電顕写真とかありますか。予測されてるようなナノスケールならSEMの解像度で観察できるはずです」

 マヤは首を横に振る。「ここでは、とても」

「電子顕微鏡の商品化は六〇年代。当時は見えないはずだ」樹里はスマホを取り出す。「体温で安定に存在するなら、撮れば……ああくそ、圏外だ」

「戻って電話します?」

「後にする」

「では続けましょうか」由貴は足を組んで、マヤに目線を向けた。「なぜ、公浜ガーデンパークへ? なぜ、偶然遭遇した女子大生の殺害を? 犯行前後の行動には合理性が乏しい。夕方に会った村上綾さんと、夜にもう一度会う約束をしたのはなぜです?」

 応じたのはサチの方だった。

「私は……人間になりたかった」

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