1-16.フロー精密合成について
きっかけは一枚のDVDだった。
「ここと、公浜ガーデンパークをロケ地にした自主制作映画です。結局、諸事情から上映されなかったと聞いていますが」
サチの目配せにマヤが応じ、机の引き出しからDVD‐ROMを取り出した。
受け取った由貴は一瞬凍りつき、ソファに座り直した。そして黙って、応接テーブルの上に置いた。アクリルケースに油性ペンで書かれたタイトルは、経年劣化のために掠れていた。だが文字は確かに読み取れた。
〈ヴァナディースの向日葵〉と書かれていた。
ちょっと待って、と言った実宇は腰を浮かしかけていた。「以前にもここに誰かが来てた? それで例のゲームを原作にした映画を?」
マヤが無表情で応じる。「撮影はゲームより前だったと思います。いらしたのはおひとりだけで、ライターさんと名乗っておられました。その時の映像にインスピレーションを得て作られたのがゲームの方。そしてゲームの映画化に際して、当時の映像が素材として使われたそうです。自然体の生活を撮影したものに、編集とナレーションで物語を作ると」
「……少なくとも二人」と由貴。「そのライターと、ライターが撮影した映像にインスピレーションを得てゲームを制作し、映画を制作し、完成品をあなたに渡した人物の二人が、ここを訪れている」
「それって上村阿呆人先生ですよねっ!」実宇は立ち上がってスマホを取り出し、圏外であることを思い出したのかすとんと座り直した。「ここのことを書かれたとしか思えない記事があったんです。オカルト雑誌の老舗・月刊ミューの日本怪奇紀行という連載なんですけど」
「お名前は……憶えてる?」マヤは隣のサチに水を向けるが、そのサチも首を横に振る。
「これがカウンセリングなら、脳のMRI検査を勧めるところです」と由貴。「責任能力の鑑定では、心神喪失、心神耗弱の医学的根拠のひとつとしてMRI検査やCTの結果がよく用いられるんです」
「わかるもんなのか?」と樹里。
「たとえば血管性認知症とか」由貴は即答する。「血流に未知の物質が混入したことにより虚血性病変が脳に多数発生し、軽度の記憶障害が生じている可能性があります。この場合、時間見当識に障害が生じることもままありますので、ゲーム、映画、ライターの来訪の時系列をマヤさん自身が正しく理解していない可能性があります。まあ、僕は精神科医ではありませんが」
餅は餅屋。なるほどねーとだけ応じ、またノートを開く。〈AX968〉の大量合成についての試行錯誤がひたすら繰り返され、一向に確立されたところに辿り着けない。ラットの実験も、実験室スケールで一ヶ月以上かけて合成し続けて貯めたサンプルを用いているようだった。このペースでは人間三〇人分を合成する間に広島と長崎に原爆が落ちてしまう。
読む間にも由貴のインタビューは続いていた。
「つまり……この映像の中に映る普通の人々が、羨ましくなって、ロケ地へ向かった?」頷くサチ。だがそれ以上は語ろうとしないため、由貴は続けて言った。「ここでの暮らしに閉塞感を覚え、街へ逃げる。でもそれでなぜ殺人を?」
「乾さんの推測の通りです」マヤが代わって応じた。「この血である限り、私たちは緩やかに死んでいく。生を求めることに、なんの罪がありますか」
「それで人間の血を採取して、輸血しようとした」
「彼女には医学的知識はありません。目覚めたのも私より随分後でしたから。ですから、血を抜いて、飲もうとしてしまった。動物の血抜きについては知識も経験もありますから」
「ひとつ疑問が」どうぞ、と応じたマヤに、由貴は続けて言った。「なぜマヤさんが答えるのですか。サチさんではなく」
それは、と応じようとしたマヤを、樹里の声が遮った。
ノートを手にした樹里は、「なんじゃこりゃ」と思わず大声を上げていた。
秋野忠義は、ある時点で合成方法自体の大転換を思い立っている。フラスコやタンクで一回あたりに合成する量を増やすと、反応が進行せず未反応原料が大量に残留してしまう。その後に精製工程を加えてもある時点で合成効率が頭打ちになる。
そこで秋野は、原料を投入すると逐次合成が進行し、反応物が逐次排出される新しい反応系を構想する。
「フロー精密合成じゃねえか。天才かよ」と樹里は呟いた。
精密のつかないフロー法により合成される化合物の代表はアンモニアであり、すなわちハーバー・ボッシュ法である。高温高圧、超臨界流体状態にした窒素と水素の触媒上の反応により逐次的にアンモニアを得る方法であり、現代工業化学の基礎を作った反応である。その発明は一九〇六年であり、これがアレンジを加えながらも現代まで用いられていることが、発明の偉大さの何よりの証明である。
しかしながら、このような方法が適用可能なのはごく単純な構造を持つ基礎化学品の合成に限られ、たとえば低分子医薬品のようなある程度複雑な構造を持つ化学物質については、現代でもほぼ一〇〇パーセントで、ひとつひとつのステップを踏んで都度合成品を回収するバッチ式が用いられる。
それを、戦前の化学者が、一方通行の反応系で、ファーストイン・ファーストアウトで、連続的に合成した。
「それ凄いんですか?」と由貴。
「怪物的だな。ハーバー・ボッシュのような単純なものならともかく、フロー精密合成による医薬品の合成が成功したのは二〇一五年だ。Natureに載るレベルって言えば凄さはわかるか?」
「世界一権威のある論文雑誌の内容を七〇年先取りした研究」由貴は口笛を鳴らす。「そりゃ凄い。樹里さんが鼻息を荒くするわけだ」
「地下に冷凍機と〈AX968〉の製造設備があります。ご覧になりますか?」とマヤ。
「是非」樹里は即答する。
「しょうがないな。話の続きは地下でやりましょうか」由貴は立ち上がった。
「私も……」と腰を浮かす実宇に、樹里はノートを預けた。
「これ、撮れる限り全ページ写真撮っといて」
「え……全部……?」
「うん。これとこれと、あとこれ優先で」
「えー……」
ノートを一〇冊ほども実宇に預けると、樹里は由貴の肩を叩いた。
「行くぞ。これがマジならノーベル化学賞ものの発明だ。いくらなんでもヤバすぎる」
「樹里さんがヤバいと仰るならヤバいんでしょう」由貴は嘆息する。「実宇さんは留守番ね。ここの記事を月刊ミューに持ち込むにしても、証拠はあったほうがいいっしょ」
「確かに」実宇は目の色を変えた。「やります。お任せください」
音もなくいつの間にか立ち上がっていたマヤが部屋の扉を開けた。
「こちらです。足元に気をつけて」
照明に乏しい地下室の天井は低く、樹里は屈みながら進むことを余儀なくされた。床は湿っていて、ところどころに水溜り。頭上には排気ダクトや冷媒管らしきものが縦横無尽に走る。小型の発電機がけたたましい音を上げて駆動する。そして正面に、金属の格納容器が並んでいた。
生々しい溶接痕。装飾の類はほぼないに等しい。ステンレスを曲げて二重カプセル型に加工し、間に断熱材を詰め込み、天井のパイプから冷気を供給しているようだった。まさに手製の冷凍庫だ。人を寝かせて格納すると顔にあたる部分だけ、ステンレスが切り抜かれてガラス窓が嵌っている。稼働しているものは一基もない。発電機はただ照明と換気を担っているようだった。
冷凍容器が右に二基、左に二基並んで道のようになった中を、写真撮影しながら進む。数えると、四〇あった。
「最後のひとりが目覚めるまでは、周辺の集落から電気を引いていました。もう、誰もいなくなってしまいました」マヤが変わらず淡々と言った。
汗を拭いつつ由貴が応じる。「ここで歳を取った人も?」
「もちろん」サチが頷き、部屋の奥の方を手で示した。「あそこが秋野先生の研究室でした」
樹里は、居並ぶ装置群へと駆け寄った。
長さ一メートルほどの反応カラムらしきものが複数接続されて一式になったものが一〇以上。供給部には振動機が取りつけられていて、定速での供給が意図されている。反応部には電熱器と断熱材、。反応溶媒は回収して還流するようリービッヒ‐グラハム冷却器が組まれており、冷媒用の地下水を引いていた跡があった。
だが、経年劣化からガラスはひび割れ、金属は錆び、一部は朽ちて破損している。反応触媒と思しき黒っぽい粉末が床に飛散していた。
「有機溶剤は完全回収されて、最終生成物は熱水中に排出されて、その後徐冷って手順か」経路を指差して追い、写真撮影しつつ樹里は言った。「確かに、見た感じ精密フロー合成設備に見えるけど……再稼働はちょっと難しそうだな」
「難しいものには見えないですけど」と由貴。「条件はノートに記録があるんでしょう? ならガラス器具を交換して、反応容器? のようなものは寸法取って作れば」
「ノートには触媒についての記述がなかった。ユッキーなんか袋みたいなの持ってない?」
由貴は、待ってましたとばかりにホルスターバッグからチャックつきポリ袋を取り出す。「これよこれ」と応じ、樹里は触媒を破損したカラムから掻き落として回収する。そして迂闊に立ち上がってしまって、天井の配管に頭をぶつけた。
涙目になる樹里を由貴は鼻で笑い、マヤの方を向き直った。
「ここで出産した人はいますか?」マヤが黙って首を横に振る。由貴は続けて言った。「あなたたち、誰かを庇っていませんか?」
「庇ってる?」と樹里は応じた。
マヤもサチも沈黙していた。
由貴は樹里と、二人の村人との間に立ちはだかるように前に出て言った。
「どうもね。犯人像に矛盾がある。都会に憧れるのは若者です。映画に影響を受けるのも。別の自分になりたいと思うのも、アイデンティティがあやふやな思春期の青少年だ。そして何より、警察の捜査によれば、犯人は交通事故の怪我で失血していて……ロングヘアの少女のはずなんですよ」
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