1-8.26番サンプル


 ホテルから現場まで送ってくれる約束だった磯辺刑事が一向に現れず、ロビーでぽつねんとしていた小暮樹里の手元でスマホが震えた。捜査に急ぎの進展があるため迎えに行けない、自前で移動してほしいという連絡だった。

 致し方なし。自分の車で向かおうとすると、フロントの男性に呼び止められた。曰く、「お連れ様のバイクが置きっぱなしなのですが」とのこと。防犯上、駐車場を専有するならひと言フロントに知らせてほしいと腰を低く遠回しに伝えてくる彼に、樹里は内心舌打ちしつつ平謝りする。怒りの矛先はもちろん、目の前のフロント係ではなく、やりたい放題の乾由貴だった。

 愛車の運転席に座って走り出せば、目の前に広がるのはどこにでもある地方都市の風景。空を塞ぐ建物がほとんどなく、しかしロードサイド型の広い駐車場を備えた店舗が点在する。一方で、ところどころに宅地開発されて住宅が密集している地域もある。

 いわゆる田舎とは少し異なり、車さえあれば暮らしやすい。だが公共交通機関だけでは生活に難儀して、施設と施設の間は徒歩移動が困難な程度に離れている。一箇所で済ませたければ、ショッピングモールに行くしかない。

 イオンモールのような大型のものだけではなく、大型スーパーとコインランドリーと一〇〇均と、運がよければ衣料品店か本屋か家電量販店が併設されているような、ごく小さなショッピングモールもある。地方といえばイオンという認識はまず間違っていて、政令指定都市や中核都市のような地方に暮らす人々の生活は、むしろ小規模なモールによって成り立っている。

 空腹を覚え、時間を見て、朝から何も食べていなかったことを思い出した。ちょうど道路沿いにラーメン店を見つけ、ステアリングを切る。

 入店して、ひとりです、と店員に告げると少し怪訝な顔をされる。忘れていた。女がひとりでラーメンを食べる文化は東京だけのものなのだ。

 東京よりも地方に多く進出しているチェーン店のオーソドックスな醤油ラーメンを啜り、柿野まゆみから共有された、件の物質の赤外吸収のスペクトルデータを確認していると、乾由貴からの着信が鳴った。

「ああ樹里さん、そちらはどうです?」電話口の由貴は相変わらず人を小馬鹿にせずにはいられないかのような腹立たしい声をしていた。

「ごく簡単に言うと、海風薫る緑地公園にはあるはずのないものだ、ってことがわかった」

「それ、不死の女神の血かもしれませんよ」

「意味がわからん。そこのJKのオカルト話に毒されたのか?」

「まあ詳しくは現地で。それと僕らは、コスプレの題材のことを、たかがゲームと軽視しすぎていたかもしれません」

「軽く見るのは知らないから。知らなきゃ見えないこともある」

「どうしたんです、急に」

「別に。……お前昼飯は?」

「今まさに。増田さんの奢りで、漁港近くのお店の刺身定食です」

「なんだよお前らだけいいもん食いやがって」

 電話の背後で実宇の声がした。

「すみません。食事中の電話は行儀が悪いと窘められたので、また後ほど」

 おう、と応じて電話を切る。

 それから手早く食事を済ませて車を走らせる。途中でコンビニに寄ってペットボトルの水を数本買った。それから思い出し、車内に転がしていた試薬を目分量で水に混ぜる。

 ナビに従って進むと、景色が次第に市街地から漁港のそれへと変わる。潮風のためか錆色が目立つ家屋と、居並ぶ小さな漁船の中を縫うように進む。窓を開けると、いつの間にか風の味も街から海に変わっていた。

 入り組んだ湾内を小刻みに繋ぐ橋をいくつか渡り、申し訳程度のオーシャンリゾートホテルを脇目に進む。すると、汽水湖と海の境で景色が開けた。

 青い海と燦々と降り注ぐ日差し。海の上を渡る大きな橋を、地元ナンバーの軽自動車や原付バイクが次々と走り抜けていく。海上にはそこかしこにシーカヤックやヨットの蛍光色が見え、いいところだな、とふと思った。

 〈公浜ガーデンパーク〉の入口には制服警官が数人警備に立っている。路駐している覆面車両の横に、磯辺の姿が見えた。

 路肩にエレメントを停めると、磯辺が駆け寄ってきて言った。

「お迎えに行けませんですみません。乾さんとうちの増田が、えらいもの見つけちまったようで。まずは中へ」

 磯辺の指示に従って車を進める。その磯辺と話していた制服警官は、オレンジ色の塗装がところどころ剥げた、見慣れないSUVに、明らかに訝しげな目を向けていた。それもそのはず、事件のために市民の立ち入りは制限されており、広大な駐車場にはパトライトをつけた車両か地味なセダンしかない。

 駐車場には日差しを遮るテントが設けられていた。鞄を肩に担ぎ、ペットボトルを提げて向かうと、由貴と実宇と増田、それに見慣れない若い女が並んでいた。

「そちらは?」

「山田香菜さん。コスプレサークルのメンバーのひとりです」と由貴。「行きましょう。詳しくは歩きながら」

「その前に」樹里はペットボトルを由貴と実宇に渡した。「水分補給はちゃんとしろって、モモやんが」

 受け取った由貴はボトルがまるで毒薬入りのように指先で摘む。「……開封済みのようですが」

「ちょうど塩化ナトリウムがあったから。おおよそ0.2パーセント溶液にしておいた。食塩より高いし高純度だぞ」

「それ、試薬ですか?」

「富士フィルム和光の特級」

「うわ、飲みたくない」

「食塩より高純度だけど……」

「ミネラルとか、なんかあるでしょ」由貴はボトルを隣の実宇に押しつける。「あげる。怪しい液体」

「ひっど、怪しいやつ押しつけるって信じらんない。海の塩と岩塩の味が違うのはミネラルが違うからなのに……っておばあちゃんが言ってた」

「利き塩とかできそうだよね、あの人」

「お前らさあ」樹里は肩を落とす。「ナトリウムってミネラルど真ん中なんだが?」

「いじけてないで行きますよ」と由貴。「樹里さん、もしかしてアルコールランプで牛タン焼くタイプですか?」

「それ理系あるあるだろ」

「あなたがズレてるんですよ」

「お前にだけは言われたくねえ……」樹里は味方を求めて新顔に声をかける。「よくやりますよね。夏は研究室のクエン酸で飲みもの作るとか。ねっ山田さん」

「まだ二年ですし文学部なので……」山田はにべもなく応じる。

 味方はいない。樹里は大人しく黙ることにする。すると、蝉の声が急に大きく聞こえた。

 〈公浜ガーデンパーク〉は、園内にいくつもの広場や体験学習施設、屋外ステージ、展望台等を備え、総面積は五十六ヘクタールに及ぶ。潮風の心地よさを忘れるほどの日差しに焼かれ、皆額の汗を拭っている。

 駐車場から芝生の広場を抜けて水路を渡ると、白い建物が見える。展示ホールや管理センターが入る施設のようだが、今は警察の捜査拠点になっていた。そこかしこに季節の花が植えられているが、薬になるか毒になるもの以外、樹里には名前もわからなかった。

 警官の数は施設の広さに比べれば少ない。普段は親子連れで賑わうだろう公園は静まり返り、それでも花は昨日までと同じように咲き乱れている。

 結局試薬メーカー製塩化ナトリウム入りの水に口をつけた由貴が言った。「人がいれば映えスポットでも、人がいなければ幻想的ですね。僕らが普段東京で生活しているせいかもしれませんが」

「五感に訴えてくるからかな。潮と花。青と緑と極彩色」

「蝉の声が違いません?」と実宇。「ミンミン言うやつが全然聞こえない」

 すると磯辺が後ろから声を上げる。「ここらはクマゼミなんですわ。ミンミンゼミは聞きませんねえ」

 なるほどねえ、と樹里は呟く。地球温暖化とクマゼミの生息域拡大。関東以北に多いミンミンゼミと西方のクマゼミ。知識としては知っていたことだったが、体験しても、意識していなければ気づけない。きっと、セミに限った話ではないのだ。

 似たりよったり、と感じるのは基本的に感性の鈍さの証明なのだ。この世に同じ土地などひとつとしてないのだから。

 そして目的地である向日葵畑に辿り着く。眼前に広がる一面の鮮やかな黄色に目が焼かれる。しかし、テープで規制線が張られ、足元には鑑識の番号札。

「宅コス、ってのはやっぱり少し違う形態の表現なのだそうです」と由貴が言った。「アニメやゲームのキャラクターは実在しないものです。その実在しないものを降ろす時、自宅ではミスマッチが生じる。記号化された物語を再生産することで、逆に記号化されたものの非記号性を高めようとする行いなのですね。その非記号性とは、作品を見た自分の情動なのだと思います。感じられるものは実在しなければおかしいのですから。そしてその情動を、SNSやイベント会場での交流によって共感に変える。ここに高揚がある」

「ユッキーさ、お前本当に真面目だよな」

「バカにしてます?」

「褒めたんだよ」由貴の部屋にあった論文のことを思い出しての本心だったが、気にしないことにして樹里は後ろを振り返る。「磯辺さん増田さん、ここ入ってOKですか?」

「許可は降りてます」と増田。

 礼を言い、今度は首からカメラを提げた山田に向け言った。「どのあたりですか? その写真を撮影した場所」

 その山田は、タブレット端末を手に、一同の最後に規制線を越えた。

 程なくして、彼女はタブレットの画像とカメラのファインダーからの景色を見比べ、「ここです」と言った。

 間隔を開けて植えることで作ったのだろう、向日葵畑の中を通れる通路の一角。横幅は大人がすれ違うのがやっとだった。

 写真の中では、独特の装飾がついた、ゲームのイラストを模して作ったワンピースを着て微笑む村上綾の姿。

「向日葵の向きまで同じだ。妙ですね」と由貴。「向日葵って、時間に応じて向きを変えるんじゃありませんでしたっけ」

「それは成長途中の話だな。成長して花を咲かせた株は、東を向く」樹里は水平にしたスマホで方位磁石のアプリを起動する。「……うん。東だ」

「西方浄土の方角とかじゃないんですね」

「東を向いていた方が午前中から日差しを浴びられるじゃん? すると花の温度が上がる。温度が高いと虫がよく集まるようになるから、受粉しやすい。子孫を作るのに有利ってわけ」

「じゃあ西を向いてる個体をせっせと温めたら集まる虫の数が増えたりするんですか?」

「場合によるだろ。自然選択は偶然の産物だから洗練されていない。意地悪テストをするとボロが出る」

「DNAというシンプルで洗練されたものにすべての説明が依って立っているのに結果が洗練されていないのは、どう説明するんです?」

「DNAですべてを説明しようとするのが間違いなのかもしれないけど、人類の科学はまだそこに到達していない」

「ずるい言い方だなあ。だから純粋理系って苦手なんですよ」

「じゃあお前も学べよ、秀才」

 追いついてきた実宇が、山田とタブレットと実際の光景を見比べて言った。「幽霊少女がいたのは……そこですね」

 実宇の指差す先は、どこでにもある向日葵畑の茂み。誰かがいたことを前提として見れば、背の高い向日葵の茎が、ちょうど小柄な人間がしゃがみ込んだ形に押し平げられているようにも見える。

 だが、一同の目は別のものに釘付けになった。

 鑑識の置いた番号札だった。26番だった。

「どういうことだよ」と樹里。

 由貴が応じる。「あの白い液体が写真の少女由来、とか」

「ありえない。あれは人間の分泌物ではないし、それなりに高度な有機化学的知見がないと合成できない物質だ」

「ゲームの話なんですけど」由貴は苦笑いだった。「向日葵畑で出会う不死の少女、血が白いらしいですよ」

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