1-7.小暮樹里の分析
*
駅前のシティホテルの一室で、小暮樹里はやにわに目を覚ました。時間を確認する。ベストのタイミングだった。
室内には、バイクから取り外したハードケースが並んでいる。テーブルの上には、論文らしきものの印刷物がいくつか散らばっている。一見すると、コスプレを主眼にサブカルチャー文化論を扱ったもののようだった。
一応着衣の状態を確認する。異常なし。気を取り直してベッドを降りて部屋を出た。
リネンの交換と清掃を行うスタッフが行き交う廊下に出て、由貴の603号室から自分の512号室に戻る。窓を開け放っていたものの、まだ有機溶剤臭がした。決して広くないテーブルには、SARCの研究室で調合した試薬や市販の試薬、遮光瓶に入った有機溶剤類が並んでいる。それらを収めていたアクリルコンテナはベッドの上。蓋は開けっ放しで、ワイプ材や手袋、未使用ガラス器具やステンレス器具類が並んでいた。
シャワーを浴びて髪を乾かして着替え、コンテナの蓋を閉め、冷蔵庫に入れていた試薬とサンプルを取り出して並べる。PCを開いてビデオ会議ソフトを立ち上げると、程なくして、柿野まゆみからの着信音が鳴った。
映像とマイクスピーカーを有効に。事務所を背景にした白衣姿のまゆみの姿が映し出された。
「樹里ちゃんさ、厄介なもん送ってくれたね」
「エタメタじゃまず溶けないですよね。DMSOには溶けますけど」
「見た感じそれなり長鎖の脂肪酸っぽいけど、性状的には両親媒性だよね」
「こっちでも確認しました」樹里は黄色に濃い茶色のスポットが打たれた五センチメートルほどのガラス板を、それを貼り付けたノートごとカメラに近づける。「性状的にねばつく脂肪酸をいくつか選んで一緒に展開してもやっぱりスポットの位置違いますね」
「ヨウ素だよね。DNPは?」
「どっちも黄色。一応ニンヒドリンもやってみたけどこっちは出ない」
「脂肪族でアミンはなしと。こっちの結果とも符合するわ」
「しかもスポット割れるし」
「それもこっちと符合」
「もしやと思ってビウレット反応かけてみたんですけど」樹里は試験管立てから色づいた液体の入った試験管を取り、カメラに近づける。「紫っぽい発色するけど、あたしの勘からすると薄い。二連続以上NHCO結合はあるってことはわかった、でも定量するにはサンプル量が足りない感じですね」
「しかしまあ、よくやるねえ。ホテルの部屋でしょ?」
「ライター以上の火を使わなければ大丈夫ですよ。キャピラリーとかはストックを持ってきましたし。他はリンモリブデン酸の発色がいいので水酸基とかありそうだなーってのと、過マンガン酸カリも出るんですけど二重結合があるくらいで、これ以上あんまり情報なしです」
「TLCじゃ限界あるでしょ。差分と混合物か否かと、官能基分析までだもん。他は何かやってみた?」
「もしかして糖かなーって当たりつけてフェーリングやっても出ませんした」
別の試験管をカメラに近づける。青藍色の液体が揺れていた。
「じゃあこっちから。といってもプロトンとカーボンでNMR取った報告が主なんだけどね」
「うちのやつ早いですよね。カーボンでも身構えなくていいし、大学にあったポンコツとは大違いですよ」
「だから朝イチ届いたサンプルをもう報告できる。でもやっぱり混合物っぽいから、スペクトルぐちゃぐちゃで読むの時間かかりそう。ごめんね」
まゆみからPCの画面が共有された。核磁気共鳴のスペクトル図を見ていると気持ちが少し落ちつくのは学生時代からの性だった。
HとCそれぞれのスペクトルを交互に参照しつつまゆみは言った。
「ぐっちゃぐちゃなCHは脂肪酸由来として、着目してほしいのはCH‐OHの水酸基。四個あるでしょ? これC6の糖だよ」
「でもフェーリング反応は出なかったですよ? 非還元糖?」
「親水部が糖類の両親媒性分子ということでしょう。そんで末端のCOOHのピークはあってもエステル結合は見当たらない。両親媒性の性状からどこかで縮合してるはずだけど、アミド結合しかない」
「糖のどこかの水酸基が置換されてるってことですか?」
「このスペクトルからはそう読める。つまり、少なくとも、糖の1位の水酸基がアミンに置換されたものを長鎖脂肪酸と縮合した分子が、現場から見つかった白いねばねばしたやつには含まれてる」
わぁーお、と樹里は声を上げる。「合成死ぬほどめんどくさそう」
「私もちょっと調べないと合成経路わからないな。天然物にこんなシンプルかつ作為的な分子があるはずもないし」
「わかんないですよ。生命の神秘」樹里は画面に目を凝らす。「TLCスポットに出た他のやつは……これペプチドですかね」
「そうそう。単体のアミド結合と、シンプルなペプチドのものが見て取れる。つまり混合物のもう一方は、グリシルグリシンとかトリグリシンだと思う。ビウレット反応の結果と一致するよね? 正確にはもうちょっと時間がほしいけど。一応IRも取ったから、スペクトルにコメント入れてそっち送るね」
「十分です」と樹里は応じた。「重要なのは人工物だってことです。しかも民生用に出回ってるとは思えない物質です。合成技術を持っている人間だけでも相当絞れると思います。仮に天然物だとしても、現場は向日葵畑ですから、外から持ち込まれたものってことです。犯人に繋がる物証です」
「でもこれ、用途は?」画面共有からカメラの映像に戻り、まゆみの胸から上がまた表示された。
樹里はホテルのメモ用紙にペンで構造式を書く。そして画面に目を戻すと、まゆみの左右に作業着の巨大な腹と、スーツに白衣の細身の胴が見切れていた。
細身の方、桃山修がフレームレスの眼鏡をくいと上げつつ画面に顔を寄せた。
「生物由来の物質である可能性も否定できません。脂質二重膜は両親媒性分子です。人体は糖を二分子のATPに変えて代謝しますし、グリシンの合成経路もあります」
「言ってることはわかるけどさ」と樹里は応じる。「モモやんさ、単体でそれぞれの物質が存在してることと、それが縮合することって全然別じゃん。まして超親水と超疎水の物質だから、生体内で縮合反応がそうホイホイ起こるとは考えづらいって」
モモやん、とSARCで呼ぶのは樹里だけである桃山修は、何か言いたいが反論の言葉が見つからないようだった。
今度は作業着の巨漢が顔を寄せるが、位置取りが悪く無精髭の顎しか映らない。栗田太郎だ。
「グリースの類かも。使える。たぶん。食品加工機械とか」
「いやタロちんそれは無理筋だろ……」
「やっぱり膜とかミセルじゃない? 何かの有用性が出るとしたら」とまゆみ。やはり彼女の案が樹里の考えに最も近かった。
だが、分子が集合する構造を考えても、それ以上を思いつかないことも同じだった。
「……さっぱりわからん」と樹里は呟く。
「そうなるとやっぱり現場でしょ。頑張ってね樹里ちゃん。冷房の効いた部屋から応援してる」
「ちくしょうなんであたしが」
「塩分摂取をお忘れなく」修は眼鏡に触れつつ言った。「汗にはナトリウムやタンパク質が含まれます。目安は0.1から0.2パーセントの食塩水。コップ一杯に塩ひと摘みが目安です」
今度は太郎が言う。「熱中症での労災死、毎年出てるから。二〇人くらい。気をつけて」
樹里はPCの時計を見た。
「そろそろ出るわ。なんかわかったらよろしく」
すると修がカメラの方を見ずに言った。「乾は。元気そうですか」
「ユッキー? 今頃絶好調じゃねーの、あのクソ野郎」
樹里は肩を竦め、それからため息をついた。
*
乾由貴はペットボトルのお茶を飲み干し、目一杯伸びをして言った。
「もう喋りたくない。一生分喋った」
隣の実宇はまだまだ元気だった。「じゃあ私がやる。ユッキーさんは鏡と十字架とにんにく持ってきて」
「昼間に吸血鬼は出ないんじゃない?」
「出るかもしれないじゃん」
「じゃあ鏡も十字架もにんにくも効かないかもしれない。そもそも十字架っておかしいよね。超自然的な存在にたかだか二〇〇〇年の文化が効くのって辻褄が合わないよね」
「じゃあ胸に杭刺すし。それなら生きてても死ぬから」
「吸血鬼が胸に杭を刺されると封印されるという伝説は、元を正せば土葬されて腐敗した死体にうっかり何かを刺したら溜まったガスと一緒に血が吹き出たことに由来するらしいよ」
「そもそも、殺人ですね」と増田が応じた。これは恐らく彼なりの冗談だが、それを上手に茶化す小暮樹里はこの場にいなかった。
そこでまた制服警官が現れ、最後のひとりを室内に招き入れた。
地味な色合いの柔らかいロングスカートの裾を気にしながら、由貴の正面に座る。半袖の緩いサイズ感の白い半袖シャツの上から薄いベージュのニットベスト。丸眼鏡の下の目には隈が目立つ。明らかに落ち着かない様子は、友人の死から受けた衝撃の大きさを物語っていた。最後のひとり、
他の三人と同様の前置きをしてからICレコーダーをテーブルの上に置き、由貴は切り出した。
「山田さんは、村上綾さんと親しかったのですか?」
「学部の同期で……サークルにも綾が誘ってくれたんです。コスプレなんて無理って何度も断ったんですけど、だったら撮る側で、専属カメラマンになってよと言われて……」
「安い買い物ではないですよね。カメラって」
「最初はスマホで撮ってたんです」頻りに片手でもう一方の腕を撫でる。「でも、段々撮るのが楽しくなってきて、バイト代貯めて、去年の冬コミに合わせて一眼とレンズを買いました」
「冬コミ?」と実宇。
「年に二回やってる自主制作漫画を中心とした即売会。コスプレイベントとしての性格もある」由貴は応じて、山田に向き直る。「では、サークルメンバーで村上綾さんを一番近くで見ていたのはあなたですね。何か変わった点に気づかれることはありましたか?」
「殺されるような恨みを買ってたかってことですよね」少し口調に棘が立った。「ないと思います。わたしが知る限りですけど、綾は……本当にいい子でした。誰とでもすぐ打ち解けて、わたしみたいなのにも気さくに話しかけてくれて、細かい事でもすぐ察してくれて……」
散々質問されていることなのだろう。山田の目には涙が浮かんでいた。それは思い出というよりむしろ、何度も同じことを話さなければならない無力感に由来するように見えた。
「質問を変えましょう。〈ヴァナディースの向日葵〉はお好きですか?」
「刑事さんも?」
「いえ、僕はまだ購入したところで……そろそろダウンロードが終わってる頃だと思います。それと、僕は警察官ではありません」わかりやすく落胆した様子の山田に由貴は言った。「ご遺体の状況はお聞き及びですね?」山田が頷くのを確認して続ける。「今回の事件が、ゲームの見立て殺人ではないかという見方があります。山田さんのお考えはいかがですか?」
「それは、だとしたら……わたしのせいです」
「どうして?」
「あのゲームを綾に勧めたのが、わたしだからです」
内心で舌打ちしつつ、平静を装って由貴は質問を続ける。「ADVゲームですよね。あまり最近の流行りではないと思いますが……」
「ゼロ年代が這い出してきたようなゲーム、ってネットでは言われてました。なんか……そういうのにムカついちゃって。わたしの感動や共感を、台無しにされたみたいで、それでますます好きになって、綾にも勧めたんです。そしたら彼女も、わたしにLINEしながら徹夜でプレイしてくれて……嬉しかったです」
「ハッピーエンドの公称真エンドと、バッドエンドの製作者が意図した真エンドがあるそうですけど、山田さんはどちらがお好きですか?」
「もちろんバッドエンドです。……って、一昨日までなら言ってました。でもこんな事件があったら、わたしもう、どうしたらいいのかわからなくって……」
「心中お察しします。あなたが話せるのなら、僕は黙ってそれを聴くべきなのでしょう。しかしここは診察室ではありませんし、これはカウンセリングではないし、僕は精神科医ではありません。事件解決のため、僕らはあなたの力を借りたい。無理だ、と思ったらではなく、無理そうだと思ったら即座に知らせてください。質問を打ち切ります」
「大丈夫です」山田は深呼吸をして姿勢を正した。「お願いします。わたしに答えられることで、綾ちゃんの無念が少しでも晴らせるのなら」
頭を下げ、由貴は言った。「では、同じゲームをプレイした者として、村上綾さんが衣装を着て夜間立入禁止の公園に足を運ぶことに違和感はありましたか? 村上綾さんは、それほどまでにのめり込む……あるいはそれほどの魔力が、〈ヴァナディースの向日葵〉にはあると思われますか?」
「普段の綾は普通の子です。ノリとか、勢いとか、そういうのに流されて、当たり前の大人の振る舞いを忘れたりしません。でも」食って掛かるようだった山田が言葉を濁らせる。「あの日は様子がおかしかったんです」
「殺害される前日、ということですか」
山田は頷く。「ハナがいた、って言ったんです。ヒロインの女の子なんですけど……」
「ゲームの登場人物と、現実に出会ったと?」
「ありえないって、わたしも言ったんですけど……綾ちゃんはその子が、『今夜、私にあなたの赤い血をちょうだい』と言ったって。ゲームのセリフなんです」
実宇は食い入るように話を聞いていた。「ファンが他にもいたんでしょうか?」
「それは……ないかな。映画化とかの話もあったけど中止になったし。そんなにファンがいっぱいいるゲームじゃないの」
見立ての意味が変わってくる。
ゲームになぞらえて誰かがゲームのコスプレをした村上綾を殺害したのなら、それはひとつ筋が通る。だが、現場にゲームの登場人物が実在していたと被害者が主張していたのなら、見立ての主体が犯人ではなく被害者の村上綾ということになる。
「それで気になって……ここに来てから撮影した写真を見返していたら、その子らしき女の子が映り込んでたんです」山田はタブレットをテーブルの上に置いた。
向日葵畑。降り注ぐ日差しを浴びて、微笑みながら振り返る村上綾。広がる黒髪が白いワンピースと、鮮やかな向日葵の黄色に映える。
その背後。
ピントが外れているが、背の高い向日葵の株の隙間でかくれんぼでもしているかのように、屈んだ少女らしき人影がある。ワンピースに黒髪だった。
「このことは警察には?」
「今が初めてです。さっき、クラウドのバックアップを確認してて気づいたので……」
「オリジナルは?」
「SDカードでご提供いただいています」増田はスマホを手に立ち上がった。「確認させます。乾さん、午後は現場の予定でしたよね」
「ええ。樹里さんの方もそろそろ話が終わった頃合いですし」
「山田さんに同行していただきましょう。写真の正確な撮影位置を知りたい」
増田はそれだけ言い残し、スマホを耳に当てて大股で部屋の外へ出る。
「なんか……幽霊みたい」と実宇が呟いた。
映り込んだ少女は、向日葵の作る影に沈んでいるせいか、やけに肌が白く見える。見方によっては、心霊写真だ。だが、それにしては実在しすぎている。
由貴は、思わずタブレットに身を乗り出していた姿勢を直し、山田を真っ直ぐに見た。
「お辛いところ申し訳ございません。ご協力いただけますか?」
「もちろんです」山田の目は画面の一点を凝視していた。幽霊少女か、在りし日の村上綾を見ているのかはわからなかった。「わたしも、真実が知りたいです」
由貴は立ち上がり、深く頭を下げた。
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