1-5.『消滅の技法』について


 翌朝、警察署や事件現場からは少し距離のある、新幹線駅から徒歩数分のシティホテルで目を覚ました乾由貴は、身支度を整えると小暮樹里に電話をかけた。午前七時半のことだった。

 樹里の応答は簡潔だった。

「何らかのアミノ酸または糖類が長鎖脂肪酸と縮合した両親媒性分子。おそらく混合物だが用途は不明。昼前からまゆみさんとWebで会議。見解をまとめてから行く。寝る。お前何号室だっけ」

「603号室です」

「借りる」

 一方的に通話が切れる。そして数分後、非常口以外に窓のない表の廊下で待っていると、ノーブランドのジャージの上下を着た樹里が現れた。据わった目をしていた。爪のマニキュアがところどころ剥げていた。

「鍵」

「なんで」

「部屋が有機溶剤中毒予防規則的にアウト。あたし512号室」

 由貴がカードキーを渡すと、それをひったくって樹里は603号室に入った。

 数秒の間呆然として、それから気を取り直して一階に降りた。何も知らないフロントの男性の笑顔に心を痛めつつ、由貴は「512号室と603号室、清掃に入らないでください」と告げた。

 仕事での長期滞在者にはよくあることなのだろう、フロント係の男性は心得た様子で応じた。また心が傷んだ。よもや室内でちょとした有機化学実験が行われていたとは想像だにしていないだろう。

 ロビーで待っていると、昨日と同じスーツだがシャツを青色のものに着替えた増田が現れた。程なくして、スニーカーの足音を立てて小走りで実宇が現れる。五分丈のパーカーとスキニーなパンツ。裾からストライプのTシャツが覗いている。

「小暮さんは?」と訊く増田。

「そっとしておいてください。午後に合流します」

 増田は訝しげに眉を寄せたが、渋々納得した様子だった。この男、眉が細いな、と由貴はふと思った。

 その増田の運転する車で向かったのは、〈公浜プラザホテル〉。新幹線駅前にある由貴らの宿からは一〇分ほどの道のりだった。街の東側を通る私鉄沿いであり、塩見の実家の近くだという話だった。

 午前中は、村上綾と一緒に公木浜市を訪れたサークルメンバーへの事情聴取。午後は事件現場へ向かうという手筈である。

 着いてみると大型バスの乗り入れを想定したのか、駐車場の入口にエントランスまで覆う巨大なカーポートのようなものがある。肝心の駐車場の方は屋根なしだった。

「古い作りですねえ」と由貴が言うと、

「バカでかい宴会場もあるんですよ」と増田が応じる。「夏はビアガーデンもやってます。地域にひとつ、あるに越したことはない施設ですよ。東京の方には寂れて小汚いだけでしょうけども……」

「いえ、時々利用しますよ。最近のホテルチェーンと違ってこういうところは大型バイクをちょっと置いておくのに寛容なんです」

「驚きましたよ。本当にバイクで、しかもアフツイ。自分も乗るんです」

「こんなところで同志に会えるとは。何乗ってるんです? 公木浜市だし……」

「自分は隣街の出身なもので、MT‐07です。元々白バイ隊員に憧れて、警察官になったんですよ」

 車を停めると、増田の顔つきがほんの少し険しくなる。本人も無意識なのだろう。もう無駄話に応じるつもりはないようだった。

 増田は、公浜プラザホテルが普段は小会合・会食に提供している、最大二〇人ほど収容できる部屋を抑えていた。応援と思しき制服警官が数名。窓の向こうには覆面車両も見える。県警が大学生らに疑いの目を向けているのは本当のようだった。

 幾何学模様の絨毯はくたびれて、あちこちに染みが残っている。テーブルも椅子も古びているが、決して使い心地は悪くなかった。ペットボトルのお茶を出されて待っていると、制服警官に連れられて、一人目が姿を見せた。青木あおきさとる、二〇歳。黒いセルフレーム眼鏡の痩せた男だ。アトピー持ちが昨日からのストレスで掻き毟ったらしく、半袖ポロシャツから伸びた長い腕に血が滲んでいた。

 繰り返しの事情聴取と、同じことを訊いてしまうだろうことを詫び、由貴はICレコーダーをテーブルの上に置いて、ペンと手帳を手に取った。

「スマホ使わないんですか?」と実宇が言った。

「何も悪くないのに大変な事件に巻き込まれて、一刻も早く解決してほしいと願っている人の前でスマホはないでしょ。礼儀であり、人の感情のハックでもある」

「あ、なるほど。ユッキーさん頭いいですね」

「僕、秀才だから」

「別に、構わないですよ。俺は」と青木が身体を揺らしながら言った。「そっちの方が効率いいっすもん」

「では遠慮なく」由貴は手帳をサマージャケットの懐に収め、代わりにスマホを取り、名刺をテーブルに置いた。「まずお断りしておきます。僕らは警察の人間ではなく、警察の委託を受けた半官半民の協力機関の人間です。記録は取らせていただきますが、あくまで警察にアドバイスを行うのみであり、捜査の主体は警察にあります。銃も持ってません」

 由貴は上着の前を開いて見せる。脇の下に拳銃などない。

「解決してくれるなら、誰にでもなんでも話しますよ」と青木は前のめりに言った。

「ではまず、城南大学サブカルチャー研究会の活動内容を教えていただけますか?」

「別に……コスプレと、衣装作って場所選定して、許可が要るなら取って、移動して撮影して、SNSにアップしたり、後はイベント参加したりとかです」

「コスプレの題材は、どうやって決めるんですか?」

「普通に、今盛り上がってるゲームとかのキャラっすね。今度のも……」

「ノスタルジック青春ホラー、でしたっけ。えっと、タイトルは……」

「〈ヴァナディースの向日葵〉です」青木は被せ気味に言った。

 何か口を出したそうな実宇を横目で窺い、由貴は息を吸い込んだ。

「僕の理解ですけど、コスプレってのは、ハレの場を自ら作り出す行為なわけですよね。毎日毎日、盛り上がること、エモいこと、アツいこと、無数のイベントに晒されてカーニヴァル化した日常において、柳田的なハレとケの概念は一見、消失したように思われる。しかし、実在しない真のハレともいえるフィクションの世界を再現して、衣装や化粧、時にテープで無理やりに顔や身体の形を変えてまで、極めて作為的で記号的な写真を撮影することで、ハレの世界を降ろしている。現代における神降ろしの巫女なんだと思うんです。コスプレイヤーってのは。一方で、ボードリヤールは光の反射によって作られた一瞬の幻像に写真家のエゴを重ね、彼のエゴが世界の真実であると誤認させるのが写真である……的なことを、かいつまめば、言っているわけなんですが、しかし示すのが世界の真実ではなくエゴそのものである、なりたい自分、憧れる自分、自分が心動かされたものであるという点で、極めてユニークな表現形態であると思います。嘘であることを自ら認め、しかしその嘘を信じるふりをする。あまり知らない文化でしたが、調べてみると頷くことも多かった。気持ちの上ではレヴィ=ストロースでした」

 実宇は酢昆布でも噛んでいるような顔をしていた。「わかりました。つまり古代文明のオーパーツってことですね。古代人は現代人を遥かに凌駕する科学技術を有していて世界の終わりも予言していた」

「どこからオーパーツが出てきた……」

 青木は首を傾げている。「すいません、理系なんでそういうのは……」

 由貴はひと呼吸置いてから続けた。「村上綾さんは、なぜ夜中にひとりで公園にいたんです? コスプレイヤーの祝祭的な文脈で、彼女には夜の向日葵畑に立つ理由があったのですか? それとも何か、コスプレ衣装である白いワンピースを着て、夜にあの場に向かうに足る、別の理由が?」

 青木が何か言いそうになって飲み込む。由貴が「どんな些細なことでも構いません」と促すと、青木は手でしきりに顔や髪に触れつつ言った。

「キービジュアルが夜の向日葵畑じゃないですか」

「ホントだ」スマホ片手の実宇が応じる。画面には〈ヴァナディースの向日葵〉の公式サイトが表示されている。月夜の向日葵畑で、白いワンピースを着た黒髪の少女が微笑みながら振り返っている絵だ。

「あの公園、夜は施錠されちゃうからキービジュアルを再現した写真が撮れないとかで、ちょっと揉めたんですよ。いや、揉めたってほどでもなくて……」

 じっと聞き耳を立てていた増田が手帳にペンを走らせる。

 昨夜増田がホワイトボードに描いた人間関係図を思い浮かべつつ由貴は応じる。「誰かが愚痴った感じですかね」

「ええ。長岡さんでした」

「それはどうしてだと、青木さんは思いました?」

 尋ねると、青木はまた言葉を渋らせる。間違いでもいい、憶測でもいい、話してくれた内容の秘密は守ると繰り返すと、青木はようやく口を開いた。

「長岡さん、塩見くんへの当たりがキツいんですよ。だから、そんな場所を選んだ塩見が悪い的なことを言って……それを綾ちゃんが庇って、そしたら長岡さんがもっと機嫌を悪くして、だから俺、じゃあ自衛隊の広報館とか行きましょうよって言ったんです。気分転換になればって。したら逆に、じゃあ行こうよ行こうよってなっちゃって……」

「長岡さんって情緒不安定なんですか?」

「これから話すからね」と窘め、由貴は青木に向き直る。「他に村上綾さんが夜の公浜ガーデンパークに向かう理由になりそうなことに心当たりはありますか?」

 青木はしばらく考え込んでから、軽く頭を下げた。

「すみません。全然わからないです。綾ちゃんとは同じサークルってだけでそんなに話さないですし」

「カメラマンなんですよね?」実宇がテーブルに身を乗り出す。「いいよいいよ~、可愛いよ~とか、言わないんですか?」

「カメラを置いたら一線は引くよ。俺のカメコとしてのプライドだから。そこ勘違いするカメコはクソだから」

「ごめんなさい……」途端に悄気げる実宇。

 丁重に詫び、そこで質問を終えることにした。後は増田の番だった。何度も繰り返しているだろう村上綾殺害当時の居場所。事件に至るまでの行動の整理と確認。

 最後に青木は、立ち上がって深々と頭を下げた。

「絶対に捕まえてください。俺にできる協力ならなんでもします」

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