1-3.SARC西へ

 環状八号線と交差する入口から東名に乗り、一路西へと走る。決して乗り心地がいいとはいえないアメリカンな思想で作られているエレメントは、高速の些細な段差を拾ってよく揺れる。ATの制御もあまり賢くないから無駄に回るエンジンノイズが車内に響く。それでいいのだ、と割り切って乗る。本来SUVとはそういうものなのだ、とも樹里は考えている。

 その後ろから、付かず離れずの距離で車高も車幅も立派な由貴のアフリカツインが走る。オフロード仕様のヘルメットにゴーグルを降ろしており、バックミラー越しでは表情はわからない。

 その由貴の声が、ダッシュボードに固定した樹里のスマートフォンから聞こえた。ヘルメット内のインカムからBluetoothで接続しているのだ。車間距離を保つのは、離れると接続が切れてしまうから。

「順を追って確認しましょう。遺体の発見は今朝。静岡県公木浜市の海沿いにある、公浜ガーデンパークです。入場無料ですけど、夜間は施錠される緑地公園です」

「ミューちゃん頼める?」樹里はドアポケットからiPadを引っ張り出し、指紋認証でロックを解除して実宇に渡した。

 実宇は「了解でっす」と応じてブラウザでその公浜ガーデンパークの公式サイトを開き、樹里の方へと向けた。

「へえ。湖畔にあんの?」

「っていうか海じゃないですか?」実宇は画面を早速ブラウザから地図アプリに切り替えている。

 スマホのスピーカーから由貴が割り込む。「濱木湖は汽水湖だよ。外洋との境目のあたりでしょ」

「四季それぞれ季節の花が楽しめるように管理してて、夏真っ盛りの今が見頃なのは、向日葵と」

「他にもいっぱいあるみたいですよ。サルビアとか、スイレンとか……」公式サイトの見頃の花一覧を実宇は延々とスクロールさせていた。「なんかいっぱいあります」

「被害者は? 概要には女子大生って書いてあったけど、なんで施錠されてる場所で女子大生が死んでんだって話じゃん」

「えーっと……」PDFの捜査資料を繰る実宇。「被害者は村上むらかみあやさん、十九歳。東京の、城南大学の二年生。コスプレサークルの所属で、撮影のために公木浜市を訪問中だったって書いてあります。うおっ、グロ画像」

「死者を尊ぶ気持ちは常に最優先でね。ここは誰も聞いてないからいいけど」

「僕が聞いてますが」背後でバイクが蛇行走行する。「その傷口、確かに刃物で刺した上から噛みついたみたいですよね。そのくせ肉は食ってない。そもそも、どう見ても動物の噛み跡じゃない」

「歯型から個人を識別するのはよほど特徴的な歯をしてないと無理だからな。人間だってこと以上に得られることはないだろ。むしろ付着した唾液の方が証拠になる。歯の治療痕で個人を識別する技術は確立してるけど、法歯科医ってマジで少ねえんだよ。ビル火災で焼死体が一度に出ると、経験のあるひとりに数人の知識はあるけど経験のない歯科医が応援でくっついて、ようやく技術を伝承すんの」

「マニュアルとかないんですか?」と由貴。

「東日本大震災を機にやっと統一されたやつができたんだよ」

「へえ……」と気のない返事。これが本当に感心している時の反応だと樹里は知っている。「で、それはなんなんでしょうね。チュパカブラとかでしょうか」

 すると即座に実宇が応じた。「チュパカブラは南米ですよ。ユッキーさんちょっと雑じゃないですか?」

「ユッキーさんって……」由貴は苦笑して続ける。「ガラパゴス諸島には他の鳥の血を吸う鳥がいますね。後は吸血動物といえば有名所で南米のナミチスイコウモリ」

「ウナギって血を吸うんじゃなかったっけ。濱木湖といえばウナギじゃん」

「それはヤツメウナギですね」

「あ、そっか。口が吸盤みたいになってんのか。思い出した」

「しかも顎なし、無顎類です。脊椎動物はみんな顎があるのに、進化の神秘ですよねえ」

「それっぽいのは日本にはいそうにないか。そもそも人の歯跡だしなあ」

「やっぱり吸血鬼ですよ」と実宇。「夜に殺されたんですよね? 吸血鬼が一番しっくりきません?」

「人が人に噛まれるのは夜が多いんだな、これが。みんな医者にかかると動物に噛まれたって言う」

「あなたが噛んだ小指が痛いってやつですね」

「噛むほど嫌な相手と噛むしかないシチュエーションにならなければいいのに」

 意外なほど真っ当に応じる実宇に、「それは正解」とだけ樹里は言った。

 東名高速の混雑は覚悟したほどではなかった。大和トンネルを抜け、海老名に差し掛かるころには、追越車線を非常識なスピードで飛ばす外車がちらほらと現れる。

 海老名のサービスエリアは避け、大井松田の先で左ルートに入って鮎沢PAに車を停めた。

 車から降りると、実宇が声を上げた。

「富士山!」

 足柄のような観光客の多いサービスエリアと違い、鮎沢は上りも下りも日本の物流を支えるトラックドライバーの憩いの場になっている。並ぶ大型トラックの荷台の向こうに聳えるのが、夕日のグラデーションに沈む霊峰富士だ。

 同じく車を降り、日本一の頂を見上げて樹里は言った。「いい時間帯に来れたね」

「いやデカっ、富士山デカっ」

「山梨とか静岡とか行くの初めて?」

「初めてです」実宇は富士山から目を逸らさずに応じた。「自分の目で見るって、全然違うんですね」

「富士山くらいになると違うよね。あたしも初めて近くで見た時感激したもん。もう身体が山信仰になったから」

「ま、実際見ると大したことなかったり、写真の方が一〇〇倍映えてるような観光地もありますけどね」バイクを置いてきた由貴だった。メッシュジャケットもバイクに引っ掛けていて、無地のTシャツ姿だった。

「ユッキーさあ、せっかくあたしがさ、こう、誰かのカメラ越しじゃないものの価値をさ、若人に説いてる時にさ」

「異なるものをひとつの価値観で剪断することの功罪なら僕にもわかりますよ。何食べます? 僕らふたりならともかく、ここでよかったんですか?」

「お前女子高生はフラペチーノとパンケーキだけ食って生きてると思ってるだろ」

「そんなことないですよ」

「じゃあお前ミューちゃんの好きな食べ物当ててみろよ、ほら」

 由貴は腕組みし、しばし富士山を眺めた。それから目線を戻して言った。

「唐揚げ」

「えっ、なんでわかるんですか。怖っ」

「冷凍食品メーカーが調査してる好きなおかずランキングの不動の一位は唐揚げ。で、実宇さん、あなたご両親は共働きでしょ。どっちも正社員で、それもそこそこの大企業。家事の時短のために、食卓には冷凍食品が上ることが多い。だったら、唐揚げ好きになる可能性が高い。ポーカーではフラッシュが事実上最強の手なのと同じ理屈だね。当たってよかった」

 実宇は唖然としていた。「読心術って実在したんだ。やば……」

「確かにコールド・リーディングにありがちなテクをちょっとだけ使ったけど……」

「話噛み合ってねえぞ」

「まあいいや。行きましょう」由貴は建物の方にさっさと歩いていってしまう。

 鮎沢パーキングエリアの食堂は、ショッピングモール的なフードコートでもなければ、観光地的に地元の名物を取り扱ってもいない。券売機に並ぶメニュー名は、利用する客層を反映し、どこにでもある普通の定食屋のそれだ。そしてご飯味噌汁がおかわり無料。旅行で移動する時の休憩も、つい飾り気のない方を選んでしまうのが樹里の癖だった。そして、その趣味はなぜか乾由貴と一致する。会話しているといちいち癇に障って言い争いのようになってしまうのに、休憩に選ぶサービスエリア、パーキングエリアの傾向は同じなのだから不思議だった。

 そして樹里は豚汁定食唐揚げつき、由貴は唐揚げ丼豚汁セット、実宇は唐揚げ定食を選んだ。

 黙々と食事、とはならない。周りのトラックドライバーらから向けられる注目を感じ、声は控えめになる。

「コスプレサークルなんですよね、被害者の村上綾」と由貴が口火を切った。

「サークルメンバーと一緒に撮影旅行って書いてあります」テーブルの中心に置いたタブレットを操作し、実宇は空の茶碗を手に立ち上がる。「お代わり行ってきます」

 行ってらっしゃい、と手を振り、樹里は文面を拡大する。「メンバーのひとりの地元が公木浜らしい。で、地元の緑地公園がコスプレ撮影歓迎なことに気づいて、帰省がてら仲間を招待、と」

「なるほど。最近の公園ってそういう需要もあるんですね。被害者が殺害時に着てた白いワンピースって、何かのコスプレなんですか?」

「まあなんか、そういうアニメとかゲームだろ」突貫で作られたらしい誤字脱字の多い報告書にある作品名を、樹里は自分のスマホで検索した。「ゲームっぽい。そういう感じの絵だな」

「キービジュアルっていうんですよ、それ」

 向日葵畑の中で、白いワンピースの美少女が振り返っている綺麗なイラストが表示されていた。ジャンル名には『ノスタルジック青春ホラー』と書かれていた。PCと据え置きゲーム機向けに発売されている、独立系スタジオの制作によるゲームのようだった。だが、並ぶ関連企業のロゴの中には大手エンターテイメント会社のものもある。

 〈ヴァナディースの向日葵〉というタイトルだった。

「今だけガチャ一〇〇連無料! みたいなやつではないんですね。著名なクリエイターによるカルト的な人気作とかなのかな」

「大手の出資も受けてるっぽいぞ。なんか受賞歴とか書いてあるし」

「夏、田園風景、無人駅、向日葵畑の中に佇む白いワンピースの美少女。定番ですね。そこからの派生でどんな作風にもなる。病弱ものでも、心霊現象でも、都会・田舎ものでも、ファンタジーでも」

「そういうの、コスプレのロケーションと言われればなるほどって感じだけど、最初の元ネタってなんなんだろうな。定番ってことは、こう、影響を与えたやつがあるはずだろ」

「……樹里さん、こういうの忌避しないんですね。金髪ギャルなのに」

「ギャルじゃねえよ。あたし体型だけならパリコレモデルだから」

「それ自分で言ってて悲しくなりません?」

「泣かすぞコラ」

 由貴はこれ見よがしに首を竦めて豚汁に口をつける。「共通幻想ってのがありますよね。幽霊みたいな不気味なものは白い服を着てる、とか。『シャイニング』の双子も白いドレスじゃないですか」

「確かに、言われてみれば」

「ちなみにこれは嘘です。あの双子のドレスは青なので、白と言われて確かにと思ったなら、それは樹里さんの頭が共通幻想に取り込まれている証拠です」

「やっぱ泣かすぞてめえ」

 そこへ実宇が戻ってきて、樹里と由貴は揃ってタブレットの捜査資料に目を戻した。

 そして、しばし食事に専念し、全員の皿が綺麗になったのを見計らって樹里は言った。「……村上綾は、どうして夜の公浜ガーデンパークに忍び込んだ?」

「そのへん含めて、現地で当事者たちに聴取すべきでしょうね。警察を信用しないわけではないですけど、この報告の内容だけではまだまだ疑問が多い。今朝のことですから、仕方ないですけど」

「じゃあ行きますか」という実宇の号令で席を立った。

 再び東名高速に乗ってのドライブが始まる。夜の帳が下りる。車窓に見えていた富士山が小さくなり、やがて見えなくなる。ナビに表示された到着までの時間が次第に短くなる。

 捜査資料にあった遺体の写真を思い出す。否が応でも緊張が増すが、実宇と由貴は特に変わらないどころか饒舌になっていった。

「さっきのやつは、制服を見ての推測だよ。朋友学園でしょ? 世田谷線が最寄りの。樹里さんの最寄りで乗り換える生徒も多いんじゃないですか?」

「言われてみれば……なんか覚えがあると思ったわ」

「確かにうちの学校、共働きの子が多いですね。あ、でも友達にひとりだけマジのお嬢様いますよ。お父さんが社長だとかで」

「でも見かける子はみんな真面目そうだけどな」

「そう! 樹里さんそこ! そこなんですよ。なんかみんな、半端にお嬢さんていうか。別にマジにいいとこってわけでもないのに、なんか内心で公立を見下してる感じっていうか、そういうのマジ無理で」

「髪染めてて校則とか引っかかんないの?」

「ブラック校則とかが話題になったじゃないですか。それで三年くらい前に染めちゃ駄目系の校則全部なくなったんですよ。昔は地毛証明書とかもあったみたいで、私が入学した時に卒業した三年生の、そのまた先輩の時代はあったとか、でもそういうのなくなっても誰も染めないし、じゃあ私がみたいな。私これで生徒指導の先生に呼ばれたんですよ」実宇は自分の髪を持ち上げる。シアンの部分が窓から差し込む照明に映える。「意味わかんなくないですか? お前が初めてだーとか、知るかって話じゃないですか? 駄目ってどこにも書いてないのに」

「樹里さん、思うところあるんじゃないですか」と由貴。「高校の時から金髪ギャルなんですよね」

「だからギャルじゃねえっつてんだろ」樹里は車のアクセルを踏み込む。通信の接続が切れそうになった由貴のバイクが慌てて加速する。「なんか、あたしのよりミューちゃんの方が偏差値が高いわ」

「偏差値?」

「いや、あたし高校の頃からタッパがあったからさ、クソどうでもいいことでしょっちゅう因縁つけられたのよ。で、ウザいから髪染めたらそういうのピタッと止んだ。それがなんか気持ちよくてさ、それでずっと金髪。田舎だったからさあ」

「どちらでしたっけ? 出身」

「群馬。大学から東京に出てきた田舎者のひとりってわけ、あたしも」

「進学かー。やっぱり奨学金とか借りたんですか?」

「借りたし、給付ももらって、やっとだったな」

「この人のはあんまり参考にならないよ」由貴が口を挟む。「入試の成績が一番で特待生の学費免除だから」

「え、ヤバ、すごっ、偏差値すごっ」

「一〇年前のこと誇ってもしょうがねえだろ。大体ロス帰りがガタガタ言うんじゃねえよ」

「いやロサンゼルスじゃなくてワシントンDCですけど、僕の留学先」

「大して変わんねえだろ」

「いや変わりますよ。ロサンゼルスってカリフォルニア州ですよ。DCから日本列島二つ分くらい離れてますから」

「東京と福岡くらいの差か?」

「僕の話聞いてます?」

「つーかロサンゼルスってカリフォルニアだったのか。なんか繋がんねえ」

「そうですよ。なんかー、ユッキーさんアメリカの地理でわかってる感出してくるの、普通そういうのウザがられると思いますけど」

「いやそもそも僕は致命的な間違いを指摘しただけで……」

「諦めろって。JKは最強だからJKに何言ってもお前の負け。終わり。事件の話に戻るぞ」

「理不尽だ。科学的じゃない。僕は間違ってない」

 揺れる車内。ロードノイズとエンジン音が響く中、交通標識が後方へ流れていく。公木浜市。目的地が近づいていた。

 東名高速を西へと走ると、南側には時折海沿いの街の灯が開ける。一方の北側は山、田畑、時々住宅地。それが両側とも、古来から暴れ川と恐れられた大河・天竜川の黒々とした流れに変わったのが、市の境界線を越える合図だ。

「調べたところによると……」由貴は川の方を余所見していた。「昔はこの川で、上流の山から杉の木材を運んできたんですよ。だから木を使う楽器産業が栄えた」

「ちゃんと前見ろ。お前にオカマ掘られんのだけは御免だよ、あたしは」

「嫌だなあ、樹里さんのと違ってこっちは納車半年のピッカピカの新車ですよ」

 樹里は舌打ちで応じる。年式や走行距離ではなく、この車が気に入っているのだ。

 だが、腹を立てるだけ無駄なのが乾由貴。相手をするのも馬鹿馬鹿しい。出口の表示を見逃すまいと目を凝らしつつ、樹里は助手席に向け言った。「そういえばミューちゃん、さっきのやつ何だったん?」

「さっきの?」

「ほら、オカルト雑誌の……」

「月刊ミュー伝説の連載、上村うえむら阿呆人あほうじん先生の『日本怪奇紀行 山中に隠れ住む不死の一族――S県H郡にて』ですか!? これ絶対今回の事件に関係あると思うんですよ。一九九八年六月号なんですけど!」

「いやH郡ってどこよ」

「S県は静岡ですよね? 公木浜市は平成の大合併で昔よりめちゃくちゃ面積が広くなってて、北の方は旧引馬郡、つまりHです」

「埼玉県比企郡じゃね?」

「島根県かもしれませんね」由貴は左手で道路標示を指差した。「出口まで二〇〇メートルです」

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