1-2.この世の怪奇を追い詰めろ

 乾由貴は、同僚としてはともかく、友人としては決して悪い男ではない。むしろ樹里とは馬が合うタイプであり、近場の温泉地や、ネットで急に話題になった観光地へ一緒に足を運んだことも何度かある。もちろん部屋は別。車両も別。旅が好きであることは、由貴との数少ない共通点だった。

 今日の夕食の献立を考えていた夕刻に告げられた突然の出張命令に毒づきながら、まずデスクに戻ってPC等の機材一式をまとめる。続いて実験室からサンプルケースや器具、工具、出先でも扱える試薬や機器を集める。そして直近のスケジューラを確認し、同僚に声をかけた。

「まゆみさん。あたし急に出張になっちゃって、とりあえず明日明後日の重金属試験お願いしていいですか?」

「聞いた聞いた。今日移動なんでしょ?」

「所長の鶴の一声。もしかしたらこっちにサンプル送るかも」

「それも聞いた。最優先だって」

 と、応じた女はひっつめ髪に白衣。ウェリントンの眼鏡を上から覆う安全眼鏡を外してくたびれた笑顔を見せる。SARCでは樹里と同じく分析化学分野を担当する、柿野かきのまゆみである。

 残業だなあ、と凝った肩を回す彼女は今年で四十二歳。国立の薬学部で博士号を取得後、大学で見通しの立たないポスドク暮らしを続け、待遇に耐えかねて民間の受託分析会社に転職。そして優秀さを買われてSARCに転職して現在に至る。博士時代に一度結婚したが、今は離婚し独身。高校生になる息子を抱えて忙しい日々を送っている。

「すみません。お子さん夏休みなのに」

「いいのいいの。うぜえうぜえしか言わないし、ここらでひとつ、母のありがたみってのを知ってもらわなきゃ」呵々と笑い飛ばし、まゆみは声を潜めた。「この件、他言無用なんでしょ? 現場に出るふたりと、こっちは私と、桃山くんとタロちんだけで対応だって。今日子さんが何企んでるのか知らないけど……」

 SARCの職員数は、事務系も合わせて三〇名ほど。普段の業務は、企業や大学、研究機関から持ち込まれるサンプルの依頼分析や、各種公定書に沿った規格試験の実施と証明書の発行である。これを、大きく分けて生物系、物理系、化学系の三部門にそれぞれ五名強の研究員で捌く。

「一応、各部門から一名ですね」

「刑事事件だからかな。情報規制するの」

「だったらそもそも警察がうちらに捜査資料なんか流します?」

 オフィスフロアを見渡すと、乾由貴が、DNA鑑定等の生化学分野を担当する分析一課の桃山ももやましゅうと何言か話し合っているのが見えた。由貴の言葉に、修は眼鏡に触れつつ露骨に顔を顰める。本人は冷静沈着な仕事人間のつもりなのだ。だが周りの評価は『めちゃくちゃわかりやすい男』で固まっていた。何もかも顔に出すからだ。

「車取りに帰るんでしょ」と促され、樹里は通勤鞄のストラップを掴んだ。

「現場で使えそうな試薬、見繕って梱包しといてもらえると助かります」

 人使いが荒いな、とまゆみは肩を竦めた。

 一旦職場を後にし、試薬や培地の特異臭が始終漂う研究室とは別世界の商業施設群を抜け、ラッシュアワーの混雑とは反対向きの電車に飛び乗った。

 小暮樹里の自宅は、玉野川駅から数駅のところにある。駅徒歩一〇分。駐車場つき。予算が折り合ったのは、バストイレが一体型でコンロがひと口しかなく、築三十五年のおんぼろだからだ。

 使い倒してあちこち傷だらけのスーツケースに着替えを詰め込み、なかなか色気のあるシチュエーションで活躍させてあげられないトラベルセットのポーチを放り込む。それから数秒考え込む。一応一式だけ、一軍には入らないが二軍の中ではトップクラスの下着と、安価だが新品のストッキングをタンスから取り出してこれもスーツケースに詰める。万が一があった時に、油断していると思われるのも癪だった。そして仕事着からデニムに薄手のジャケット、フラットシューズに着替えて自宅の鍵を締めた。

 外階段の二階から、走り出す時を待つ愛車の屋根が見えた。

 オレンジ色のホンダ・エレメント。これも初年度登録から二〇年近く経つおんぼろだった。塗装は日焼けで色褪せ、道具らしさを強調する無塗装の樹脂パーツは白化と細かい傷が目立つ。ヘッドライトは黄ばんでいて、車検の通過もぎりぎりになる程度に光量が落ちている。SUVブームの今ならそれなりのヒットになるかもしれないが、当時は尖りすぎたコンセプトのために二年程度で生産終了になってしまった不遇の車だった。そういうところが気に入っていた。

 後部ハッチから荷物を入れ、運転席に座ってエンジンをかける。身長一八〇センチと女性にしては大柄な樹里に、米国生まれの逆輸入車であるエレメントはしっくりくる。

 行くか、と呟き、カラスの鳴き声に背を押されるように走り出した。


 SARCに一度寄って荷物を積み込み、所長・園田今日子の運転する白いフィアット500に乗せられて来た園田実宇を助手席に乗せる。その間、乾由貴は眼鏡の巨漢と押し問答をしていた。

「だからね太郎さん、詰める荷物も限られてるし、その……なんとかメーターとか、どうみても不要なものを積むのはちょっと」

 すると作業着の巨漢、栗田くりた太郎たろうは、怪しげな計測機器を片手に、由貴に覆い被さるようににじり寄って応じた。

「トリフィールドメーター。5GHz帯のWi‐Fiも測定できる優れもの」

「いや電磁波測ってどうするんです」

「わかるよ。盗聴とか」

「それわかってどうするんですか」

「楽しいのに。電磁波……」

 体重一〇〇キロと噂される巨体が少し萎んで見える。機械、電気電子、材料分野を担当する分析二課の栗田太郎は、口数がそう多い方ではないが、押しが強い。駐輪場には、彼が通勤に使っている、カスタムにカスタムを重ねたミニバイクのホンダ・モンキーが停まっている。サイズ差が大きすぎて、走らせている姿はひと昔前のカートゥーンのように見えると評判だった。

「絶対役に立つと思うんだけどなあ……」

「太郎さんの楽しさは否定しませんが、僕にはちょっとわかりかねます」

「ここ。これ捻ってね、交流磁界、交流電界、ラジオ波・マイクロ波に切り替えるの」

「要りません」

「ここ入れとくから。嵩張らないし」

 由貴の抗弁虚しく、太郎は大型バイクのサイドケースに問答無用でトリフィールドメーターを突っ込む。

 新型のホンダ・アフリカツイン。シートバッグと両サイドケースを装備した、旅仕様のアドベンチャースポーツバイクが乾由貴の愛車だった。白い車体に金色のサスペンションが映える。ゴーグルのような二眼のヘッドライトと大径のブロックタイヤは、どんな道なき道でも走破せんとする威圧感に満ちている。慇懃なタイプの由貴とは少しキャラクターが異なるが、週末になるとこれを乗り回して峠や林道を突っ走っているのだとか。

 その由貴が、樹里の車の運転席まで近づいてきて言った。

「遅いから妙なもの押しつけられたじゃないですか。何してたんです?」

 人の思い悩みも知らないで好き勝手なことを言う育ちすぎたバイク小僧に心中で悪態をつきつつ、樹里は「色々あんだよ」とだけ応じた。

「先行ナビお願いしていいですか?」

「おう。知らない土地だしバイクじゃな。……ってか行き先って」

「静岡県公木浜市です。東名をぶっ飛ばして、三時間くらいですね。海老名抜ければ早いと思います」

「あのちょっと横からすいません!」助手席から実宇が身を乗り出した。制服はキュロットスカートと五分丈のシャツに着替えていた。「トリフィールドメーターって、心霊スポットで反応するやつですよね!」

 由貴は目線を逸らす。「そんな話もあるよね。まあ電磁波って疑似科学に近すぎるから、実は本当に心霊現象と相関があるとしても、取得されたデータをエビデンスとみなすことにまず抵抗を覚えるのが普通の態度……ですよね、樹里さん」

「それはそうだけどさ。ユッキーお前ちゃんと人の目を見て話せな。女子高生に照れるのはわかるけどさ」

「いや別に照れてないですよ」

「照れんなって。しゃあないしゃあない、JKだもん」

「だから僕は別に……」急にライディングジャケットの襟元を直す由貴。

 樹里は助手席に向き直った。「ごめん。自己紹介してなかったね。あたしが小暮樹里で、そっちのカスが乾由貴。どっちもここの職員で、実宇ちゃんのお祖母様のパシりね。ってかなんて呼べばいい?」

「こっちこそすみません。園田実宇です。友達とかは……ミューちゃんが多いです。私、これ、運命だと思うんです」

 応じる言葉がわからない樹里に、実宇はまた、オカルト雑誌のウェブサイトをスマホで見せた。こう書かれていた。

 この世の怪奇を追い詰めろ――〈月刊ミュー〉。

「ね、運命ですよね!」

 樹里は実宇の満面の笑顔を数秒見つめ、それから硬直していた由貴と顔を見合わせた。声にせずとも言いたいことは伝わっていた。急に殺人事件の現場入りを命じ、ついでに孫娘の同行まで命じてきた所長への悪態である。

 すると、まるでそれを聞き咎めたかのように、由貴の背後にその園田今日子が現れた。

「うちの実宇をよろしくね。樹里ちゃん、由貴ちゃん」揃って曖昧に応じていると、今日子は続けて言った。「あたくしだと思って大事にするのよ」

「ええ、それはもう」と由貴。

「現地警察には話を通してあるから。今夜からでも捜査に加わって頂戴。それと」今日子の声が急に冷え、夕日の暑さを一瞬、忘れた。「捜査の過程で石黒という男が現れたら、問答無用で拘束すること。いいわね?」

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