AN-BALANCE:日本非科学紀行

下村智恵理

第1話 白血人間殺人事件

於 静岡県公木浜市

1-1.旅はお好き?

 浜からのべとついた潮風が、熱帯夜の向日葵畑を気怠げに揺らす。遠くのバイパスを猛スピードで走る車の音が、波の音に溶けていく。風にそよぐ背の高い緑の葉。その先端で眠ることを忘れたような大輪の花だけが、暗闇の中でひとつの狂気を見下ろしていた。

 何本かの向日葵を押し倒し、女が仰向けに倒れていた。虚ろに濁った眼。半開きの口の中に侵入する数匹の蟻。蝿の羽音が、静かな花畑の夜を乱す。長い黒髪は地面に広がり、湿った土や雑草に絡まる。ノースリーブの白いワンピースは、首筋のあたりから流れ出た赤い汚れに染まっている。

 手首、大腿部、二の腕には刃物で突き刺した傷があり、流れ出た血を受けようとしたのだろう、血に汚れたガラス瓶が倒れていた。そして今、一番新しい首筋の傷に、別の女が口を寄せた。

 同じく白い服に黒い髪。最初は、湧き出る泉から受けた水で乾きを癒すように、やがて獣が獲物の肉を食らうように、女は死体の血を啜る。手も、服も、身体も髪も、顔中が血塗れになるのも厭わない。草の騒ぐ音に、水音が反響する。

 やがて女は立ち上がり、ガラス瓶を拾う。地面に倒れた死体から無理に受けようとしたためか、その中身は半分も満たされていない。

 まるで向日葵の一輪であるかのように、女の身体がゆらり、と傾いた。そして手にした瓶の中身を飲み下す。喉が上下する。汚れた口の端から、さらに血が伝って胸元に落ちる。そして瓶が空になると、女は力なく両腕を垂らした。

 薄雲が流れ、月光が差した。

 女の頬を、白く濁った涙が伝った。指先から滑り落ちた瓶が、石に衝突してふたつに割れた。一方の切片が、裸足の女の踝を切った。

 肩を震わせる女の顔を、月が照らした。

 白かった。命を失った足元の女よりもなお、その女の肌は白かった。皮膚、というよりむしろ、生肉に張りついて少し腐敗した脂肪のような色をしていた。

 そして女は足を踏み出す。死体に背を向け、向日葵畑の中を進む。死体に集まる蝿の一羽が、血塗れの女を追いかけようとし、そして死体の方へと引き返す。



 東京と神奈川の狭間に流れる大河のほとり。その昔は川縁に料亭街が栄え、高度経済成長の時代には田園都市の最先端だった。現在はタワーマンションと再開発された商業施設が人工的な賑わいを演出するその街にも、地べたに広がる人の暮らしがある。川の氾濫に備える大堤防の計画が立ち上がっては消え、少し進み、また停滞する。馴染み深い景色の保全を求める古くからの住民と、安全で健康な街を求める新しい住民の間に生じる軋轢は、時間とともに訪れる人の死が世代をひとつ刻むまで収まることはない。ベッドタウンから都心部へ夥しい数の人々を輸送する鉄道は、まるで川の流れのように淡々と走り続ける。最近は大手IT企業の本社が移転してきて、街の景色はまた変わった。

 東京都世田谷区玉野川。直進し続ければ皇居に繋がる東京の大動脈のひとつである国道の高架に隠れるように、三階建の薄汚れた事業所ビルがある。駐車場は五台分。自転車置き場は、自転車と原付バイクでほぼ満車。表のまだ新しい表札にはこう書かれている。

 〈公益財団法人 園田分析科学研究センター〉。

 略して〈SARC〉。その四文字が丸を十字に切った中に時計回りに配されたエンブレムが表札にも添えられている。

 その夕日を浴びる三階。応接セットを備えた所長室で、やけに長身で金髪の女が、不満を隠そうともせずに言い放った。

「なんでうちらが殺人事件の現場に行かにゃならんのですか」

 金髪は項に少しかかるウルフカット。耳からぶら下がるピアスはカフェインの化学構造式の形。仕事にしては刺々しく、プライベートにしては堅すぎるモノトーンの上下の上に、ここに呼び出される直前までは白衣を羽織っていた。

 すると、所長の机の横で腕組みしていた男が即座に応じた。

「口を慎みたまえ、小暮こぐれ樹里じゅりくん」

「いや、キッシーに話してないんだけど」

「小暮くん」ポマードで七三に固めた髪。その眉間に寄った皺を親指で揉む四十男、もり木志雄きしおの着こなすダブルのスーツの胸元には、法曹人の証たる天秤のバッジが輝いている。「森先生と呼べ」

「えー。あたしキッシーになんも教わってないし」

「今教えているつもりなんだがね、私は」

「何を」

「礼儀だ」

 ぱちん、と金属音が鳴る。さらに抗弁しようとした樹里は、目線をその音の主に向けた。

 窓際のアンティークデスクで、シガリロにジッポライターで火をつける喪服のような黒ずくめの老女は、御年六十五歳。SARC創設者にして所長、園田そのだ今日子きょうこである。

 園田今日子、の名を検索エンジンに入力すれば、かつては気鋭の女性ジャーナリストだった彼女の過去が表示される。二十八歳の頃に著した国電同時多発ゲリラ事件のルポはベストセラーになり、映像化もされた。薬害訴訟の取材では、彼女の掴んだ証拠が国家賠償請求における原告の勝訴に大きく貢献した。だがそのキャリアは、政界への進出も取り沙汰されていた九十年代半ばに突然途絶えている。そして元ジャーナリストである彼女が半官半民の公益財団法人のトップに収まるに至る経緯を知る者は、SARC内でも限られている。

 白髪と、歳にしてはパーフェクトな化粧に覆われた皺の深い顔が、紫煙に霞む。煙の隙間をこじ開けるように、今日子は言った。

「あなたの知見、あなたの経験、あなたの勇気が必要だからよ、樹里ちゃん」

「殺人事件の捜査に?」

「意外な反応ですこと。樹里ちゃんなら喜んで飛びつくと思ったのに」今日子はデスクに置いたガラスの灰皿に灰を落とす。「学生時代の武勇伝は聞いてるのよ。他の大学の法医学教室に忍び込んであわや退学の騒ぎになったんでしょう? 理由を訊かれて第一声は『新鮮な死体が見たかった』だったとか」

「やだなー。昔の話ですよ。今のあたし、超真面目なんで」

 キッシーこと森木志雄の頬がぴくりと震える。

 それに気づかないふりをして樹里は言った。

「不満がひとつと、疑問がひとつあります」どうぞ、と促され、樹里はまず応接椅子にお客様気分で腰掛ける男を指差した。「なんでこいつがいるんですか」

「樹里さん。僕からも質問をひとつ」足を組んだまま肩越しに振り返って、その男は言った。「それは不満ですか、疑問ですか」

「不満に決まってんだろカス」

「カスは酷いなあ。僕ほどの秀才、なかなかいませんよ。何が不満なんです?」

「そういうところだよ……」樹里は肩を落とす。

 いぬい由貴ゆたか。彼の入所時、漢字だけ見て同性だと思いこんでいたらユタカと読む男だった時から、樹里はこの男に不穏な気配を感じていたし、言葉を交わしてその予感は的中しているとわかった。

 実際に秀才は秀才である。米国メリーランド大学を飛び級で卒業後、元FBI捜査官の教授の元で知見を蓄えて帰国。その後警察庁科学警察研究所の一員となるも、現在はなぜかSARCに身を置いている。園田今日子による引き抜きとも、組織と反りが合わなかったとも、対人トラブルがあったとも語られるが、本人が語るには転職の理由は『実家が近い』からなのだとか。現在二十六歳。経歴の真偽の程はともかく、実力の伴う自信過剰、そして年下の男は樹里の苦手とするタイプだった。

 その由貴は、漂ってきた煙に眉をひそめつつ、組んでいた脚を解いた。

「そんな嫌そうな顔しないでくださいよ。連れないな」

 それには応じず、樹里は部屋の主の方を見た。「あのー、もしかして、現場にはこのカスとあたしが?」

「ええ。あなたたち以上の適任はいない。私有車の使用許可申請だけ出しておいてね」

 一体どこまで行かせるのか。地元警察がSARCを受け入れるに至る事情は。そもそもどこからの要請で動くのか。浮かぶ疑問に一旦蓋をして、樹里は不満ではなく疑問の方に話を向けた。

「じゃあ、その子は?」

 場に似つかわしくない少女がひとり、由貴の向かいに腰を下ろしていた。周りが大人でもあまり緊張する様子もなく、壁に張られた日本地図をしげしげと眺めては、手元のスマホと照らし合わせている。制服の上から派手な青いパーカーを羽織っているところを見ると、女子高生だがあまり真面目ではないタイプ。おまけに髪には派手なシアンのインナーカラーが入っていた。そして、惚れ惚れするほど通った鼻筋や、何を考えているのかわからない眼が、部屋の主たる園田今日子の面影を感じさせた。

 果たして今日子が言った。

「あたくしの不肖の孫。この子も同行させるから、よろしくね、樹里ちゃん」

「同行って……現場に?」

 由貴が声を上げて笑う。「僕と同じこと言ってら。でも駄目ですよ。所長命令だから同行は絶対みたいです。ね、園田そのだ実宇みうさん」

 実宇は慌てた様子で立ち上がった。「はい。よろしくお願い……しまっす!」

「怖がらなくていいからね。この荒んだ現代社会には珍しい、いい人だから。金髪ギャルだけど」

「ギャルじゃねえから」と応じつつ、樹里は堅い笑顔の女子高生をしげしげと眺めた。

 あ、いい子かも、と樹里は直感した。いけすかない自称秀才。何を考えているのかわからないヘビースモーカーおばあちゃん。権威主義が服を着て歩いているような雇われ弁護士。この部屋にはろくでもない人間しかいないが、この女子高生だけは例外だ。どうせ気の毒にも、園田今日子の理不尽な気まぐれに巻き込まれたに違いないのだ。

 何より、品行方正が強く求められる時代に髪を染めていることが樹里の琴線に触れた。他でもない樹里自身が、高校生の頃に初めて髪を金に染めたのだ。その頃のやり場のない自意識、向ける場所のない怒り、変わった自分への不思議な満足感を思い出し、胸に甘酸っぱい感傷が押し寄せた。インナーカラーは現代的な反抗の証。外面は大人たちに合わせてやるが、内面は決して靡かないのだという力強い宣言を髪型に宿している。最近の女子高生にも、形は変われどかつての自分と同じ魂が受け継がれている。仕事が終わったらディズニーくらい連れて行ってあげよう――と、思い立ったその時。

「あの! それで!」実宇が応接セットを回り込んで部屋の中心へ出て、両手を広げて言った。「犯人は吸血鬼って本当ですか!?」

「……は?」

「おばあちゃんが吸血鬼だって! 日本にも吸血鬼伝説ってあるんですよ。磯女とか飛縁魔とか、みんな女性で黒髪なのが日本の特徴で、血や精気を吸い取っちゃう怖いやつなんですけど。あ、でもそれは九州の方なんで今回とは場所が違って、あのこれ! 今度のに絶対関係あるって私思うんです!」

 半歩退いた樹里に半歩詰め寄る実宇。スマホの画面にはオカルト雑誌のネット記事が表示されている。

 由貴は明後日の方を向いて知らんぷり。森木志雄は彫像のように動かない。二本目のシガリロを咥えた今日子に助けを求めると、その今日子は煙を吐いて言った。

「死因は後頭部の強打。でも死亡直後に血液を抜かれているの。特に首筋には、刃物でつけた傷の上から人間の歯による咬傷。そして現場では、およそ人間のものではない体液らしきものが採取されている」

「ほら吸血鬼の正体は宇宙人だった! 樹里さんもそう思いますよね!」

「どうかな……」

 輝く実宇の瞳を正視できない。つい先刻、呑気な感傷に浸っていた自分を殴り飛ばしたくなった樹里は、深くため息をつく。宇宙人がどこから湧いて出たのかさっぱりわからない。

「それが僕らが出張る理由ですよね?」すると、由貴が立ち上がった。「SARCは来る刑事訴訟法改正に備えた刑事事件捜査の民間委託のテストケース。そして米国製キットに依存するDNA鑑定や他国に後れを取る法医昆虫学、物理的限界から廃棄される証拠サンプル、解剖医・薬毒物検査職員の絶対的不足等、現在の我が国の科学捜査が抱える課題を民間のリソース活用で解決する第一歩でもある。地元警察の科捜研が音を上げる怪奇事件、望むところじゃないですか」

「吸血鬼……宇宙人が?」

「何事も否定から入るのはいただけないな。吸血鬼の関与が疑われるのなら、吸血鬼よりも確からしい回答を提示するのが科学の責務です。それに、樹里さんも興味あるんじゃないですか? 血を吸われたような死体と、およそ人間のものではない体液らしきもの」

「遺体の発見現場は。その体液らしきものが環境由来である可能性は。噛み跡とやらが野生生物由来である可能性は」

「現場は向日葵畑のど真ん中。野生動物が侵入した形跡はないそうです」由貴は片手のスマホを示す。「資料、共有されてますよ。静岡県警からです」

「静岡って……」

「一〇分以内に概要に目を通して。今夜中に移動してもらえるかしら」シガリロを灰皿に押し当て、今日子は怪しげに微笑む。「樹里ちゃん、旅は好きでしょう?」

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