第3話 蛇姫 中中編

 翌る日、窓から見るかぎり、雪はやんでいた。これなら帰れる。

 胸を撫でおろし、お手洗いから廊下に出て、居間へ戻ろうとした。

 スッと、刺すような視線に射抜かれる気がした。

 ゾッとして背後を振り返く。寒々とした板張りの廊下には、誰もいない。

 

「まただ」

 

 フッと視線を感じる。今度は天井から。

 この土地は、白い蛇の姫が住んでいた野原で、姫を殺した巫女の子孫が中原家。一族には祟りがあったという。

 この視線も、呪いとか。祟りとか。

 考えると、背骨に冷たい汗がつたった。


「ありえない。映画の見過ぎ」

 

 真相は、泥棒でもいるんじゃないか。

 思いきって、確かめてみようと思った。近くに腰くらいの高さの、古い木の棚があったので、足を載せてのぼった。

 天井は木の板で構成されている。目玉のような木目が気持ち悪かったが、真実を確認するには触れるしかない。

 人差し指が木目に触れる寸前、

 

「どうしたの?」

「きゃあ!」

 

 びっくりしたら、体が宙に浮いた。ついで、鈍い痛みが全身に広がる。痛み以上に、古い廊下の床が抜けていないか心配だったが。

 目の前に、心配そうに見下ろしてくる嗣子が立っている。


「真希さん大丈夫? 天井に虫でもいた?」

「えっと。……痛」

 

 左の腕に激痛が走る。

 

「見せて」

 

 うながされ、左手袖を捲る。二の腕には、痛々しい青紫が広がっていた。


「痛。最悪……」

「大丈夫よ。このくらい唾つければ治るわ」

「はは。そうですよね」

 

 ちょっと気持ち悪い冗談だと思った。捲った袖をおろそうとする。

 すると、シワシワの小さな手にとどめられた。反応する前に、赤い舌がチロチロっと、腕のあざを舐めまわし始めた。

 びっくりしすぎて動けないのをいいことに、舌はベロベロベロベロ舐めまわしてくる。

 

 

   

 その日のお風呂では、ゴシゴシと二の腕をアカスリで擦った。不思議なことに、あざはきれいさっぱり消えている。

 ミケと一緒に湯船に浸かっている茂が、「ぎゃ」と悲鳴をあげた。

 

「白髪浮いてる」

 

 小さな指で、浮かぶ気色の悪い白の線を掬っている。

 真希は嘆息した。


「三番風呂だからねぇ」

 

 そうでなくとも、気持ち悪くて湯船に浸かれないが。お義母さんが浸かった湯船なんて。

 モヤモヤとする。お義母さんは距離感がおかしい。

 不意に、見えない矢に体を貫かれる感覚がし、振り返った。

 視線だ。


「ママ」

 

 茂が風呂からあがり、真希に抱きついた。不安がっているのか。怖がらせてしまい、申し訳ない。

 

「ごめん。そろそろあがろっか」

「うん」




 浴室のバスタオルで茂の体を拭いた。

 そわそわする。まだ見られている。手やタオルで、体をできるだけ隠そうとした。そうでなくとも、今日は生理なので、血が床に落ちないか気になる。

 茂はミケを小さなタオルで拭いている。


「ミケも寒い?」

 

 猫はニャアと鳴いた。ご機嫌な様子で、少しだけ和んだ。今なら触っても大丈夫だろうか。そぉっと手を伸ばす。すると、サッと逃げられた。

 気分がまた沈んだ。


「残念」

「ママ嫌われてる」

 

 笑う茂は、くしゅんとクシャミをした。

 

「寒いね。早く服着て」

 

 真希も服を着ようとし、はたと手を止める。

 見たことのない新品の白い下着と、ナプキンが置かれている。

 自分で用意したもの、ではない。

 

 

 居間のこたつに入った夫は、のんべんだらりとブラウン管のテレビを眺めていた。面白くもないお笑いに、時折笑いをあげて。

 バスタオルを体に巻いた真希は、居間へ飛びこんだ。

 

「孝史、お義母さんどこ?」

 

 孝史は不可解そうな目で起きあがり、

 

「部屋にいると思うけど。その格好で寒くない?」

 

 聞くだけ聞いたら夫を無視し、廊下の板を軋ませ、ズンズン歩いた。

 嗣子の部屋の前まで来ると、襖をノックするように叩く。


「お義母さん、聞きたいことがあります」


 返事はない。ブツブツとした声だけがする。


「……食品会社で研究職をしてます。そんなことないです」

 

 真希そっくりの言い方で、真希が前に言ったことを繰り返している。

 そこで、ある考えに思い至った。

 昔、実家の母にも似たような状態になった。その原因は……。

 

「わかった。認知症だ」

 

 肩の重荷が軽くなったようだ。

 自分の母親も、歳を取ってしばらくしたら、ブツブツひとりごとを言うようになった。それを皮切りに、物忘れもひどくなり、病院で軽度の認知症と診断された。

 ひとりごとの内容は、ほとんど過去の出来事の繰り返し。医者の見立てでは、記憶の中を漂っているのだろうと。

 認知症ならあれも仕方ないか。

 とはいえ、対処法は調べたい。孝史にも相談して。

 

 

 服を着てから居間へ戻ると、早速認知症について調べようとした。が、肝心のスマホがない。

 

「あれ? 私のスマホは?」

 

 夫はのんきに、

 

「お袋が持ってったよ」

「なんで渡しちゃったの?」

「珍しがってるみたいだったから」

「なんでよ!」

「何怒ってるんだよ」

 

 認知症の人に、命と家族の次に大事な機械を渡すなんて。

 仕方なく、再び義母の部屋の襖を叩いた。

 

「私のスマホ返してください」

 

 ブツブツ声だけがする。

 

「……両親が料理が好きだったので。違う。あのときの真希さんのしぐさはこうだった」

 

 認知症? いいや、多分しっかり認知して、わざとやっている。

 思いきって襖をあけた。

 同時に、古びたローテーブルの前に正座した嗣子は、机に置かれた古い機種のパソコンの電源を落とした。一瞬だけ見えたデスクトップ画面は、猫の画像。

 真希のスマホは、ケーブルでパソコンと繋がれている。

 ただただ気持ち悪かった。

 振り返った嗣子は、何事もないかのように、笑顔で言った。

 

「あら、真希さんあたしを呼んでた? 久しぶりにパソコンを使ったから、操作するのに夢中だったの」

 

 言い訳に構わず、座敷の畳を踏み、自分のスマホをケーブルから引っこ抜いた。


「……中、見たんですか?」

 

 この個人情報の塊を。

 嗣子は「ホホっ」と無邪気に笑い、

 

「見てないわよ。パスワードがかかってたもの。スマホの写真の真希さんの笑顔が素敵だったから、同じ表情が作れたらいいなと思って練習してたの」

 

 嗣子は皺だらけの口をニィッと横に広げ、歳の割に白い歯を剥き出しにした。目は笑っていない。

 真希はスマホのロック画面を確認した。

 満面の笑みの夫と、茂と、自分のアップの写真。休日に近所のママ友と会ったら、撮ってくれたんだ。


「さっきから私の真似してたんですか?」

「うん。真希さんは孝史くんが好きになった人だもの。あたしも真希さんになって、真希さんみたいに孝史くんに好かれたい」

「息子と恋愛したい……ということ?」

「うん。したい」

 

 ケラケラ笑いに唖然とした。

 認知症じゃない。おぞましい老婆は、すべてわかってやっている。

 

「真希、どうしたの?」

「ママ?」

 

 襖から、夫と息子が顔を覗かせる。

 嗣子はやはり無邪気に、

 

「せっかくの家族水入らずじゃない。孝史くんと茂くんの今年のお正月の思い出、壊してもいいの?」

 

 ウッと息をのんだ。

 痛いところを突いてくる。他人をタテにするなんて。

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