第2話 蛇姫 前中編

 夜も更けたので、畳にフカフカの布団を敷き、親子三人で並んで眠った。

 茂はスヤスヤと寝息を立てているが、真希はちっとも眠れない。やはり見られている感覚があるから。

 

「真希」

 

 仰向けの真希の胸部に、熱い手が這う。義母から借りたパジャマの下に入り込もうとしたので、掴んで止めた。

 

「茂いるよ」

「静かにすれば起きないよ」

 

 大きな塊が乗っかってくる。まあ、嫌ではないけれど。

 カタッと音がした。目を大きく開ければ、隣の部屋の襖の奥の奥に、丸く小さな、白い球が浮いていた。暗くてハッキリとは見えないが、孝史がモゾモゾと身を動かすのに合わせ、球体は上下する。

 球体の中心には、黒い丸の模様が描かれている。いや、描かれているというか、埋め込まれている。いいや、そもそもあれは、ただの球体ではなく……。

 

「ひっ」

 

 飛び起きた。スタンドライトをつけ、掲げる。夫は唖然としている。

 

「真希?」

 

 暗闇の奥には、何もいない。けれどあそこに、確かに、目玉が浮いていた。

 しかもあの目とそっくりな瞳を、真希は知っている。息子を溺愛しつつも、真希に生姜スープをついでくれた、優しいおばあさんそっくりな……。

 

「真希さん、どうかした?」

 

 廊下から、しゃがれた嗣子つぐこの声がする。

 茂を起こさないよう、孝史が喉を絞ったような声で、

 

「お袋? 起きてたの?」

「お手洗いに行ってたの。真希さんは大丈夫?」

 

 真希は隣の部屋を仕切る襖を開けた。

 間接照明がぼんやり照らす座敷だ。畳の上の低いテーブル。その上の、画面の分厚い古パソコン。ミケがくるまって寝ている布団。そのほかには衣装棚や姿見などがあるだけ。人は誰もいない。お化けのたぐいもない。

 真希は息を吐き、襖を閉じた。

 

「大丈夫です。ごめんなさい」

「そう?」

 

 床を滑るような足音が聞こえたきり、廊下には静けさが降りた。

 

「どういうこと?」

「なんでもない。ごめん。茂、起きちゃったかな」

 

 布団に包まる茂は、スーッと寝息を立てたまま。

 外では雪が積もっているのだろうか。床につく前より、空気の冷たさが増している気がした。

 

「真希、寒いね」

 

 孝史が身を寄せてくる。わかりやすい熱を帯びて。

 

「もう」

 

 孝史の背中に腕を回しながらも、真希はまだ、嫌な感じがしていた。

 また誰かに見られている気がする。

 

 

 

 翌朝、降り注ぐ雪の粉により、地面には白い絨毯が敷かれていた。豪雪というわけではないが、深いところだと足首くらいまで。

 防寒着を着た茂は、外に出て、大小いくつかの雪だるまを作っている。冷たい球体に仮面ライダーの顔を描いて、猫の耳をつけ。子供は元気だ。

 父親は寒さに耐えられず、玄関から声をかけるので精一杯なのに。


「茂、寒くないの?」

 

 真希は傘を差し、白い息を吐いて外へ出た。

 

「茂」

 

 茂は手を真っ赤にさせても、雪をこねるのをやめない。


「ママも一緒に作ろう」

「ダメだよ。早く入るの」


 玄関の孝史は、寒さで震えながらも笑っている。


「真希、いいじゃん。子どもは元気が一番だよ」


 本当にのんきな旦那だ。呆れて振り返ると、駐車場の車がないことに気づく。

 

「あれ? お義母かあさんの車ないよ?」

「え? あ? ほんとだ」

「そういえばお義母さんどこ?」

 

 今朝は姿を見ていない。

 

「お袋? いるの?」

 

 首を後ろに向けた孝史が、家の中に呼びかけた。

 すると雪を踏みしだき、車がゆっくりと近づいてきた。家の前でピタリと停車する。前のドアから、汗だくの嗣子が、フゥッと息を吐きながら滑り出た。

 

「スリップして大変だったわ。孝史くん、真希さん、荷物下ろすのを手伝って」

「お義母さん、どこに行ってたんですか?」

「ちょっと買い物。雪が積もると行けなくなるからね」


 車に駆け寄る真希は、嗣子の姿に仰天し、立ち止まった。

 雪のなかの小柄な老婆の服装は、真希と全く一緒。髪型も、白い髪をカールさせていたのに、今は真希と同じストレートロング、しかも染めたのか、黒髪になっている。

 孝史は茂と一緒に、目をまん丸くしている。


「お袋、その髪どうしたの?」

「うん? ちょっとね」

 

 クスッと笑った嗣子は、後部座席から、物がパンパンに入ったレジ袋を引っ張り出した。

 

 

 

 家族総出で嗣子の荷物を家中へ運びきる頃には、ヘトヘトに疲れて、眠りたくてたまらなかった。

 茂はミケとこたつに入り、クレヨンを夢中で画用紙にこすりつけている。孝史も一緒にうつ伏せで寝る。

 真希はぬくもりながら、居間の窓を眺める。雪の降り方が、明らかに強くなっていた。


「お正月終わりに帰れるかなぁ。新幹線停まるんじゃない?」

「大丈夫大丈夫。なんとかなるって」

 

 適当な返事に、今更苛立ちはしない。そもそもそういう人を選んだのは自分だ。

 

「そういえばなんでこの家には仏壇がないの?」

「仏壇?」

「お義父とうさんは亡くなってるんでしょ。ご先祖さまも」

 

 昨晩嗣子の部屋を開けたが、そこにすら仏壇がなかった。

 夫は「うーん」と唸るような声をあげ、


「お袋は嫁いできた身で、中原の一族とは縁が薄そうだったな」

「そうなの?」

「この家や土地も相続で継いでるし。親父についても俺はよく知らない」

「え?」

「親父が死んだのは俺生まれてすぐだったし、お袋は親父の話はしたがらないし」

「あー。もしかして、これ?」

 

 真希は軽く拳を握り、前に突き出す仕草をした。要は殴るマネだ。

 孝史は唇をひんまげ、


「まあそうじゃない? 昔だから。DVしてきた憎い相手やその一家の仏壇なんて、家に置いときたくないだろうね」

「でも孝史には歳の離れたお兄さんがいたよね。お兄さんからは何か聞いてない?」

「兄貴とは俺もお袋も疎遠になってる。お袋、兄貴にはすんげぇ冷たかったから」

 

 驚きだ。あの優しい義母が。孝史のことは溺愛しているのに。

 ふすまが開き、大量の洗濯物を抱えた嗣子が入った。洗濯物の大半は、我らが息子一家のもの。

 嗣子はニッコリと正座をし、洗濯物を畳み始めた。

 

「洗濯しておいたから。乾燥機で乾かしたけど大丈夫よね」

「あ、私畳みます」

 

 一緒に服を畳む。自分たちの服なのに、申し訳ない。じつの息子はのんべんだらりとしたままだが。

 それにしても、似合わない若い服にも、老いた小さな頭から垂れる、長い黒髪にも、落ち着かなかった。

 なぜ自分の真似をしているの?

 

「たまの休みなんだから、真希さんはゆっくり休んで」

「そんな。買い出しまで行ってもらって。お金は後で払います」

 

 あとで話を聞いたら、雪が降り積もる前に、食糧を買いに行ったそうだ。

 嗣子はコロコロと笑った。

 

「いいのいいの。あたしたち家族でしょう」

「はあ」

 

 こんな優しすぎるお母さんがいたら、のんきな性格になるのも無理はない。

 洗濯物を畳みながら、嗣子は茂の絵に視線を向ける。

 

「茂くん、何描いてるの?」

「仮面ライダーとミケだよ」

「じょうず。白い蛇のお姫様は描かないの?」

 

 茂はピンときていないようだ。

 

「あの絵本の? つまんないよ」

「あら。この地方の有名な伝説なのに。お姫様のいた原っぱはね、この家の敷地なのよ」

 

 意外な話に、真希は顔をあげた。


「中原の先祖は、お姫様を生き埋めにして無理やりここに家を作ったそうでね。祟りがあったんだって」

 

 サラリと語られた逸話の残酷さに、息を呑んだ。

 

「ま、その中原の先祖ってのが、巫女と狩人の一族と言われてるけど」

 

 初耳だ。このかわいらしいおばあさんと、のんき者の夫が、特別な伝説を持った家の人たちだったなんて。

 嗣子もクレヨンを手にすると、仮面ライダーの横にサッ、サッと絵を描いていく。

 白い着物の美女と、弓矢を持った狩衣の狩人の絵。

 

「勝手に描かないでよ」

 

 不機嫌な茂は、黒いクレヨンでゴシゴシと、仮面ライダーごと絵を塗りつぶした。

 

「あらまあ、ごめんね」

 

 嗣子はフフフと笑っている。

 まずは息子の失礼な態度を謝るべきなのだろう。が、真希は、さっきの話に引っ掛かりを覚え、尋ねずにはいられなかった。


「お義母さん、祟りって……」

 

 感じる誰かの視線や、昨晩の目玉も、祟りが関わっているのか。

 訊ききる前に、嗣子は外の雪を眺め、

  

「ひどい雪。帰れなかったら何日でもうちに滞在してね。心配は無用よ」

「ありがとうございます。でも年明け仕事に行けるか心配で……」

 

 仕事があるから、無理をしてでも帰りたい。

 

「真希さんは東京でどんな仕事をしてるの?」

「食品会社で研究職をしてます」

「すごい。どおりでしっかりしてるのね。どうして食品会社に入ったの?」

「大学の教授の紹介で。食品研だったので」

「どうして食品を研究しようと思ったの?」

「……? 食品って身近なものだし面白いなって」

「どうして面白いと思ったの?」

「両親が料理が好きだったので」

「あなたは料理するのが好きなの?」

「私は食べるほうが好きですけど……」

 

 何気ない会話は、就活の面接みたいになった。

 

「お袋は東京もんが珍しいんだな」

 

 寝そべる夫はどこまでものんきだ。

 

「真希さんの好きな食べ物は? 好きな色はある? 好きな服の素材は? 好きな場所は?」


 次々尋ねられ、戸惑う。

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