蛇姫

Meg

第1話 蛇姫 前編

 むかしむかし、雪降る山に白蛇のお姫様がいました。

 心優しく、人の姿になっては人里へおり、癒しの力で人や動物の体を治していました。

 あるとき蛇のお姫様は、怪我をした人間の狩人を癒し、愛し合いました。

 ところが狩人の母の巫女は、蛇であるお姫様をよく思いません。そこで清めの矢で、お姫様を射殺そうとします。

 巫女の放った矢がお姫様を貫く寸前、狩人が前に飛び出ました。

 お姫様は嘆き悲しみましたが、虫の息の狩人は、何度でも生まれ変わり、この雪山を訪れ、お姫様に会いに行くと約束しました。

 お姫様も何度でも生まれ変わり、狩人を迎えると約束しました。

 

『年に一度鳴るあの山の鐘の音が、あたしが生まれ変わる合図よ』

 

 

 

 年の暮れに、息子を連れ、夫の実家へ行くことになった。

 後部座席の車窓から、山々に囲まれただだっ広い田畑と、点在した民家が見える。田舎というのは、排気ガスも少なく空気は澄んでいるが、さびれた停滞感が漂い、淀んでいる。

 真希まきはそう思いながら、長い髪を耳にかけ、太ももの上に乗せた4歳の息子に、絵本を読み聞かせていた。

 

「……と、お姫様は狩人かりうどに言いました。時代が変わっても、蛇のお姫様と狩人は、輪廻りんねの中でいくども再会を楽しんでいるのかもしれません。おしまい」

「つまんない。仮面ライダーの絵本がいい」

 

 息子はバッサリと断じた。

 確かに、男の子が読んでも面白くないだろう。言葉も難しいし。

 運転席の孝史たかしが、カラッとした笑い声をあげた。

 

「茂、その本はパパのママがよくパパに読みきかせしてくれた本で、パパは茂くらいの歳に何度も読み返して言葉を覚えたんだ」

「ママ、パパがマウント取った」

「真希、茂に変な言葉教えるなよ」

 

 車内は和やかな雰囲気に包まれる。今のうちに、自分のモヤモヤを話しておこうと思った。

 

「ねえ孝史たかし、お義母かあさんに会うの、今のタイミングでいいのかな」

 

 彼の実家の義母とは、結婚式以来会っていない。夫も自分も仕事が忙しく、お盆やお正月も会いに行けなかった。

 いまさら、と、嫌な気持ちにさせはしまいか。

 孝史は気楽に笑う。


「大丈夫だよ。電話や手紙のやりとりもしてたし、俺たちが忙しかったのは知ってる。毎月仕送りもしてたし」

「そっか……」

「それにお袋は優しいから気にしないさ。片親でも俺を立派に育ててくれたんだ」

「その優しいっていうのが心配なの」

 

 息子は溺愛、嫁はいびるみたいな、典型的な姑じゃないのか。

 

「どういう意味?」

 

 尋ね返してきた能天気男には、言ってもどうせわかりはしない。


「茂、今度は仮面ライダーの絵本読んであげる」

「やったぁ」

 

 元気な息子は体を前後に揺らした。車全体が揺れそうなほど。

 

 

 

 田舎の広すぎる道路を、車はまっすぐ進んでいく。地面に残ったタイヤの跡に、雪の粉がちらりと落ちた。

 

 

 

 雑木林の先の、木々に囲まれた平屋の前で、家族は車から降りた。

 古びた瓦屋根に、板張りの壁の家は、今にも崩れそうだ。

 

「パパ、ママ、帰ろう。ここやだ」

 

 茂は真希たちの手を引っ張った。

 

「なんで? いいところだよ」

「やだよ」

 

 理由は言わず、息子はとうとう泣きだした。困った孝史は、茂を抱っこする。

 真希は息子の柔らかい髪をなでた。都会生まれで都会育ち。補修され、整備され尽くした世界に慣れきっていたら。こういう寂れた、いかにも田舎な家へ、無意識からの拒絶反応が出るのだろうか。

 

「お正月が終わるまで我慢してね」

 

 真希が言うと、孝史は苦笑いしながら尋ねてきた。

 

「真希はこの家が嫌じゃないか?」

「ううん。むしろワクワクしてる」

 

 自分も都会生まれで都会育ち。こんな、いかにも田舎な家に滞在できるなんて、新鮮な体験だ。

 平屋の戸がガタガタっと不自由な音を立てて開いた。

 

「いらっしゃい。寒いでしょ。早く入って」

 

 出てきたのは、白髪をカールさせ、三毛猫を抱いた、小柄な優しそうなおばあさん。この人が孝史の母、つまり義母だ。

 

「お袋久しぶり。ミケ元気?」

 

 茂を抱っこした孝史は、家の中へ図々しく入っていく。

 かわいらしい義母はニッコリと、真希にも目を向けた。

 

「真希さんも久しぶり。あたしの名前覚えてる?」

「ええっと、あの……」

 

 名前まではきちんと思い出せない。

 気を悪くされただろう。が、義母はむしろ楽しそうに、フフっと笑った。

 

「久しぶりだものね。中原なかはら嗣子つぐこよ。この子はミケ。しばらく不自由かもしれないけど、よろしくね」

 

 嗣子は深々と頭を下げた。恐縮して、急いで頭を下げた。こっちは名前も忘れていたのに。

 

「すみません。こちらこそ。ミケちゃんもよろしくね」

 

 あいさつのつもりで、ミケのフワフワの頭を撫でようとした。三毛猫はブルっと首を振り、鋭い爪で真希の手を引っ掻いた。


「あいた」

 

 痛みに手を引っ込める。線状の傷痕がついた。

 嗣子は慌てて、

  

「ごめんなさい。この子、好き嫌いが激しいのよ」


 動物に嫌われるのは悲しい。

 

 


 夜になるまでに、息子は田舎の家に慣れたようだ。子供の順応力の高さを思い知らされる。

 居間のたたみの上であぐらをかいた息子は、ミケを太ももに乗せると、押し入れにつめられた古いおもちゃで、ひたすら遊んだ。

 真希は孝史と古びたこたつに入って、小さな息子と太った猫を眺めていた。

 孝史はブラウン管のテレビを眺めてくつろいでいるが、真希はソワソワとスマホを見ていた。やきもきする気持ちをやわらげるために。意味もなくSNSを遡る。

 

「ねぇ、お義母さん本当に手伝わなくていいの?」

 

 とうとう耐えきれず、尋ねた。義母は「炊事も洗濯も全部やるから、あなたたちはゆっくりしていて」と言ってくれた。申し訳なくていたたまれない。

 

「いいっていいって。お袋が全部やってくれるから」


 息子として長年甘やかされてきたのであろう夫は、お気楽な返事をした。

 真希は息を吐く。じつは、ソワソワしているのは、罪悪感ばかりからではない。

 

「……ねぇ、さっきから誰かに見られてる気がしない?」

 

 さっきから視線を感じ、落ち着かない。真希は昔から、人の視線を感じやすい。

 

「誰に? なんの目的で?」

「わかんないけど」

「ほら。見られる理由なんかない。だから見られてない。気のせい」

 

 このお気楽な性格を作ったのは誰?

 

「お待たせ」

 

 元凶であろう嗣子つぐこが、鍋を抱えて襖を開けた。

 茂が嬉しそうに、

 

「食べる!」

「茂、食べるときはミケをおろそうね。お行儀が悪いから」

 

 茂の太ももに乗っかったミケを、真希は両腕で抱えようとした。とたんに、フワフワの毛が逆立つ。大人しくてかわいい猫ちゃんから、シャアと威嚇された。

 怯んでのけぞると、かわいくて凶暴な四足歩行動物は、小さな脚いっぱいに内蔵された脚力で、サッと部屋から出て行った。

 

「ミケ、待ってよ」

「ははは。ミケは元気だな」

 

 茂と孝史がミケを追いかけ、部屋を出た。

 しんと沈黙が降りる。嗣子とふたりきり。話すことがなく、気まずい。

 

「私、嫌われてますね……」 

 

 そう言うのが精一杯。

 嗣子はそれに対しては返さず、一言、

 

「真希さん」

「は、はい!」

 

 真希は覚悟した。

 来る。嫁いびり。多分。

 だって、息子を甘やかす母親なんて、嫁が息子を奪ったんだと、恨みをつのらせているのが相場なんだもの。

 

「寒かったでしょう。先に鍋を食べましょうね。生姜しょうがをたっぷり入れたから、あったまるわよ」

 

 年季の入った骨ばった手が、おたまで鍋の中身を器につぎ、差し出してくれた。

 肩透かしを食らった。が、油断をせず、すかさず思い直す。

 嫁の器には肉を入れてくれないとか? 量が少ないとか? 虫が入ってるとか?

 事前に、思いつく限りの嫁いびりを想像し、覚悟を決めておく。

 しかし、受け取った熱々の器には、肉も野菜も、刻まれた生姜と一緒にたっぷり入っていた。透き通ったスープには、虫どころか、埃一粒さえ入っていない。

 なら、味は激マズにしてるとかだ。

 嗣子の人のよさそうな形の白い眉が、不安げに下がった。


「食欲ないの?」

「いえ。いただきます」

 

 嫁のプライドをかけ、立ち向かわなければ。

 真希は深呼吸し、肉を箸でつまみ、ぱくっと齧った。

 たっぷりの肉の旨みと、それをほどよく引き立てる生姜の辛味が、舌にジワジワと広がる。

 

「……おいしい」

 

 嗣子は笑う。 

 

「よかった。孝史くんが好きな味なのよ。孝史くんって辛いもの好きでしょ。男らしくてかっこいいと思わない?」

「あ、はい」

 

 孝史って。そこは少し引いた。

 

「ねえ、真希さんは猫好き?」

「猫ですか。かわいいとは思いますけど、どっちかというと犬派ですかね」

「へえ犬ね。……じゃあ、次は犬を飼おうかしらね」


 どういう意味?

 すると廊下から、ドタドタと足音が鳴り響いた。

 

「ミケ、勝手にどっかいっちゃダメだぞ」

「ママお腹すいた」

 

 孝史と茂、襖を通った。ムスッとした猫をしっかり捕獲し。

 

「孝史くん、茂ちゃん、たんとお食べ」

 

 嗣子は無邪気に笑う。若い女の子のようだ。

 その底抜けの無邪気さに、得体の知れない違和感を感じた。

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