蛇姫
Meg
第1話 蛇姫 前編
むかしむかし、雪降る山に白蛇のお姫様がいました。
心優しく、人の姿になっては人里へおり、癒しの力で人や動物の体を治していました。
あるとき蛇のお姫様は、怪我をした人間の狩人を癒し、愛し合いました。
ところが狩人の母の巫女は、蛇であるお姫様をよく思いません。そこで清めの矢で、お姫様を射殺そうとします。
巫女の放った矢がお姫様を貫く寸前、狩人が前に飛び出ました。
お姫様は嘆き悲しみましたが、虫の息の狩人は、何度でも生まれ変わり、この雪山を訪れ、お姫様に会いに行くと約束しました。
お姫様も何度でも生まれ変わり、狩人を迎えると約束しました。
『年に一度鳴るあの山の鐘の音が、あたしが生まれ変わる合図よ』
年の暮れに、息子を連れ、夫の実家へ行くことになった。
後部座席の車窓から、山々に囲まれただだっ広い田畑と、点在した民家が見える。田舎というのは、排気ガスも少なく空気は澄んでいるが、さびれた停滞感が漂い、淀んでいる。
「……と、お姫様は
「つまんない。仮面ライダーの絵本がいい」
息子はバッサリと断じた。
確かに、男の子が読んでも面白くないだろう。言葉も難しいし。
運転席の
「茂、その本はパパのママがよくパパに読みきかせしてくれた本で、パパは茂くらいの歳に何度も読み返して言葉を覚えたんだ」
「ママ、パパがマウント取った」
「真希、茂に変な言葉教えるなよ」
車内は和やかな雰囲気に包まれる。今のうちに、自分のモヤモヤを話しておこうと思った。
「ねえ
彼の実家の義母とは、結婚式以来会っていない。夫も自分も仕事が忙しく、お盆やお正月も会いに行けなかった。
いまさら、と、嫌な気持ちにさせはしまいか。
孝史は気楽に笑う。
「大丈夫だよ。電話や手紙のやりとりもしてたし、俺たちが忙しかったのは知ってる。毎月仕送りもしてたし」
「そっか……」
「それにお袋は優しいから気にしないさ。片親でも俺を立派に育ててくれたんだ」
「その優しいっていうのが心配なの」
息子は溺愛、嫁はいびるみたいな、典型的な姑じゃないのか。
「どういう意味?」
尋ね返してきた能天気男には、言ってもどうせわかりはしない。
「茂、今度は仮面ライダーの絵本読んであげる」
「やったぁ」
元気な息子は体を前後に揺らした。車全体が揺れそうなほど。
田舎の広すぎる道路を、車はまっすぐ進んでいく。地面に残ったタイヤの跡に、雪の粉がちらりと落ちた。
雑木林の先の、木々に囲まれた平屋の前で、家族は車から降りた。
古びた瓦屋根に、板張りの壁の家は、今にも崩れそうだ。
「パパ、ママ、帰ろう。ここやだ」
茂は真希たちの手を引っ張った。
「なんで? いいところだよ」
「やだよ」
理由は言わず、息子はとうとう泣きだした。困った孝史は、茂を抱っこする。
真希は息子の柔らかい髪をなでた。都会生まれで都会育ち。補修され、整備され尽くした世界に慣れきっていたら。こういう寂れた、いかにも田舎な家へ、無意識からの拒絶反応が出るのだろうか。
「お正月が終わるまで我慢してね」
真希が言うと、孝史は苦笑いしながら尋ねてきた。
「真希はこの家が嫌じゃないか?」
「ううん。むしろワクワクしてる」
自分も都会生まれで都会育ち。こんな、いかにも田舎な家に滞在できるなんて、新鮮な体験だ。
平屋の戸がガタガタっと不自由な音を立てて開いた。
「いらっしゃい。寒いでしょ。早く入って」
出てきたのは、白髪をカールさせ、三毛猫を抱いた、小柄な優しそうなおばあさん。この人が孝史の母、つまり義母だ。
「お袋久しぶり。ミケ元気?」
茂を抱っこした孝史は、家の中へ図々しく入っていく。
かわいらしい義母はニッコリと、真希にも目を向けた。
「真希さんも久しぶり。あたしの名前覚えてる?」
「ええっと、あの……」
名前まではきちんと思い出せない。
気を悪くされただろう。が、義母はむしろ楽しそうに、フフっと笑った。
「久しぶりだものね。
嗣子は深々と頭を下げた。恐縮して、急いで頭を下げた。こっちは名前も忘れていたのに。
「すみません。こちらこそ。ミケちゃんもよろしくね」
あいさつのつもりで、ミケのフワフワの頭を撫でようとした。三毛猫はブルっと首を振り、鋭い爪で真希の手を引っ掻いた。
「あいた」
痛みに手を引っ込める。線状の傷痕がついた。
嗣子は慌てて、
「ごめんなさい。この子、好き嫌いが激しいのよ」
動物に嫌われるのは悲しい。
夜になるまでに、息子は田舎の家に慣れたようだ。子供の順応力の高さを思い知らされる。
居間の
真希は孝史と古びたこたつに入って、小さな息子と太った猫を眺めていた。
孝史はブラウン管のテレビを眺めてくつろいでいるが、真希はソワソワとスマホを見ていた。やきもきする気持ちをやわらげるために。意味もなくSNSを遡る。
「ねぇ、お義母さん本当に手伝わなくていいの?」
とうとう耐えきれず、尋ねた。義母は「炊事も洗濯も全部やるから、あなたたちはゆっくりしていて」と言ってくれた。申し訳なくていたたまれない。
「いいっていいって。お袋が全部やってくれるから」
息子として長年甘やかされてきたのであろう夫は、お気楽な返事をした。
真希は息を吐く。じつは、ソワソワしているのは、罪悪感ばかりからではない。
「……ねぇ、さっきから誰かに見られてる気がしない?」
さっきから視線を感じ、落ち着かない。真希は昔から、人の視線を感じやすい。
「誰に? なんの目的で?」
「わかんないけど」
「ほら。見られる理由なんかない。だから見られてない。気のせい」
このお気楽な性格を作ったのは誰?
「お待たせ」
元凶であろう
茂が嬉しそうに、
「食べる!」
「茂、食べるときはミケをおろそうね。お行儀が悪いから」
茂の太ももに乗っかったミケを、真希は両腕で抱えようとした。とたんに、フワフワの毛が逆立つ。大人しくてかわいい猫ちゃんから、シャアと威嚇された。
怯んでのけぞると、かわいくて凶暴な四足歩行動物は、小さな脚いっぱいに内蔵された脚力で、サッと部屋から出て行った。
「ミケ、待ってよ」
「ははは。ミケは元気だな」
茂と孝史がミケを追いかけ、部屋を出た。
しんと沈黙が降りる。嗣子とふたりきり。話すことがなく、気まずい。
「私、嫌われてますね……」
そう言うのが精一杯。
嗣子はそれに対しては返さず、一言、
「真希さん」
「は、はい!」
真希は覚悟した。
来る。嫁いびり。多分。
だって、息子を甘やかす母親なんて、嫁が息子を奪ったんだと、恨みをつのらせているのが相場なんだもの。
「寒かったでしょう。先に鍋を食べましょうね。
年季の入った骨ばった手が、おたまで鍋の中身を器につぎ、差し出してくれた。
肩透かしを食らった。が、油断をせず、すかさず思い直す。
嫁の器には肉を入れてくれないとか? 量が少ないとか? 虫が入ってるとか?
事前に、思いつく限りの嫁いびりを想像し、覚悟を決めておく。
しかし、受け取った熱々の器には、肉も野菜も、刻まれた生姜と一緒にたっぷり入っていた。透き通ったスープには、虫どころか、埃一粒さえ入っていない。
なら、味は激マズにしてるとかだ。
嗣子の人のよさそうな形の白い眉が、不安げに下がった。
「食欲ないの?」
「いえ。いただきます」
嫁のプライドをかけ、立ち向かわなければ。
真希は深呼吸し、肉を箸でつまみ、ぱくっと齧った。
たっぷりの肉の旨みと、それをほどよく引き立てる生姜の辛味が、舌にジワジワと広がる。
「……おいしい」
嗣子は笑う。
「よかった。孝史くんが好きな味なのよ。孝史くんって辛いもの好きでしょ。男らしくてかっこいいと思わない?」
「あ、はい」
孝史くんって。そこは少し引いた。
「ねえ、真希さんは猫好き?」
「猫ですか。かわいいとは思いますけど、どっちかというと犬派ですかね」
「へえ犬ね。……じゃあ、次は犬を飼おうかしらね」
どういう意味?
すると廊下から、ドタドタと足音が鳴り響いた。
「ミケ、勝手にどっかいっちゃダメだぞ」
「ママお腹すいた」
孝史と茂、襖を通った。ムスッとした猫をしっかり捕獲し。
「孝史くん、茂ちゃん、たんとお食べ」
嗣子は無邪気に笑う。若い女の子のようだ。
その底抜けの無邪気さに、得体の知れない違和感を感じた。
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