月鏡~gekkyou~

SpaceyGoblin

月鏡

 僕になにかが落ちてきた。


 後頭部と背中に感じる強烈な衝撃とともに僕の視界は消えかけた。

 目一杯、足に力を入れ、倒れまいと踏ん張る。目が血走り、どこかの血管は切れてしまうのではと思うほどだ。


 耐え続ける。

 潰されてしまうと思ったからだ。体感で言うと三分ほどだった。


 僕の体は重圧から解放され、全身の筋肉が緩み始める。


 その場に座り込み夕日に染まる空を見上げた。


「はあ、はあ、なんだったんだ今の」

 僕は汗だくになりながら首の後ろをさする。


 辺りを見渡すが、落ちてきたようなものは確認出来ない。


 その代わりに、堅苦しいスーツが大量に生息しているこのオフィス街で、好奇の目に晒されることになってしまった。僕は、スーツについた汚れを払い、家路へと急いだ。



 家につくなり冷蔵庫を開け、ビールを一缶飲み干す。

 スーツを雑に壁に掛け、シャワーを浴びた。


 浴室を出て、部屋着に着替えるとさっそく二缶目のビールを開ける。


 明日は休みだから母親の見舞いに行こう。


 母は重い病気を患っていて、もう先は見えないらしい。休日の午前中だけでも母と過ごすようにしている。

 父は幼い頃に亡くなっていて、僕に肉親といえば母親しか残されていない。

 僕は極度のいたずらっ子で子どもの頃はよく母に叱られたものだ。

 今となっては弱りきってしまい、声を出すこともできない。つい先日の見舞いでは、僕のことを忘れてしまっていたほどだ。


 毎日が緊張との戦いで、いつ病院からの電話が来てしまうのかと、どきまぎしていた。

 今日も落ち着きがない中ビールを呑みながら大好きな映画を流す。


「この映画は何度観てもおもしろいな」僕は気に入った映画であれば何度も観てしまう質である。


 ただ、こんな気分の時は新しい映画は観れない。思考能力が停止してしまっているからだ。

 ビールを呑みながら、映画をだらだらと観て眠りについた。




 翌朝、見舞いの準備を終わらせタクシーで病院へと向かっている最中だった、ポケットからの振動を感じスマートフォンを取り出す。



 病院からの電話だ。



「すいません運転手さん、出来る限りで良いので急いでいただけますか。母が、母が危篤なんです」




 病院についた僕は、いつも以上に重い足を一歩ずつ動かし、なんとか受付に辿り着いた。


「こちらへ」

 顔見知りの女性看護師が一言だけ発する。


 その冷静な言葉で僕は戸惑うのをやめた。


 病室まで足を進め、扉を開くと病床には静かに瞼を落とす母の姿があった。


 母の病床を囲う担当医達は、気を利かせ一度この部屋から退室する。

 近くの椅子に腰掛け、部屋にはふたりきりになった。


「母さん、遅くなってしまってごめん。もう少し早く来ることが出来れば独りで逝かせてしまうこともなかったよね。話したいことはまだまだ沢山あったけど、ずっと先まで話さないでおくよ。おいしいご飯を作って待ってて」

 不思議と僕の目からは涙はこぼれなかった。


 ただ一つだけ、後悔していることがあるとすれば、愛していると伝え抱きしめることが出来なかったこと。



 少しだけで良い。


 少しだけでも、目を開けてくれないかな。




 その時、頭の中で全宇宙に響き渡るほどの大きな鐘の音が鳴った。




「頭が、割れる」

 僕は両手で頭を押さえ目を閉じる。


 鐘の音が響いている中で僕は草原に立っていた。辺りには鮮やかな緑色が広がり、空の青には白い雲が散りばめられている。


 髪がなびくほどの風が吹いており、なんとも心地良い世界だ。

 ずっとここにいたい、そう思わされてしまう。




「たかし、たかし」




 僕はハッと我に返る。


 顔をあげると母さんの目が開いていた。


「お母さん。お母さん、。お母さんお母さん」

 僕は立ち上がり、母さんに抱きつく。


 泣きじゃくり、母さんに愛していると何度も伝えた。


「お母さんも愛していますよ。何度も病院に来てくれて、大変だったね。たかしには大変な思いばかりさせてしまったね。ごめんね。」

 母さんは哀しげな表情をしている。


「そんなことないよ。お母さんのおかげで今の僕がいるんだもん。ずっと幸せだよ」

 僕はあふれる涙を止められなかった。


「そう、それならよかったわ。こら、男の子なんだからそんなに泣くんじゃないの」

 母さんは笑顔で言う。


 僕は涙を拭き、笑顔で母さんを見た。


「わたしは先に逝くけれど、おいしいご飯を作るのには時間がかかってしまうと思う、お母さん料理上手ではなかったでしょう。ゆっくりでいいから、たかしも大切な人に見送られて来なさい、約束」

 母さんは小指をこちらに向ける。


 僕も母さんの小指に自分の小指を重ねた。


 すると、眩い光が二人を包んだ。


 僕の目は完全に閉じられてしまった。




 一度に沢山のことが起きた。


 忙しく、ほとんどの記憶はないが、なんとか母さんを無事に送り届けることができた。


 今日から新たな人生が始まるのか。


 この世に一人となったこの血を、僕が後世まで残さなければならない。

 最後の最後で母さんから活を入れられた僕は足取りが早くなっていた。


 オフィス街を歩いているとビルに掛かっている大型ビジョンに戦争の映像が流れていた。


「戦争なんてなくなればいいのにな」

 心の底から思った。


 戦争などではなく、話し合いで解決できないものか。




 すると、また頭の中で大きな鐘の音が響いた。




「あの時と同じだ、頭が割れそうだ」

 僕は頭を抱える。


 目を開けていられない。ものすごい音だ。


 目を強く瞑るとまたあの景色が見える。



 緑に囲まれ、青い空白い雲、気持ちの良い風が吹いている。


 だめだ。


 ここにいてはいけない。


 僕の心が叫んでいる。


 ここにいては戻れなくなる。


 目を開かなくては。




 重い瞼を開くと辺りは歓声に満ち溢れていた。


「なんだ?」

 僕は周りを見渡す。


 大型ビジョンに映し出される"速報"の文字。


 なんと全世界の終戦を知らせる速報が流れたのだ。


「嘘、だろ」

 僕は動揺を隠せなかった。


 まさか、そんなわけない。


 辺りの興奮冷めやらぬ間、僕は一人の中年サラリーマンに向かってこう唱えた。




「転べ」






 転ばない。


 そんなわけないか。


 そんなはずないよな。




 いや、実際にありえないことが起こっている。


 そんなはずないわけない。


 必ず僕が願えば叶うはずだ。


 絶対だ。


 僕は渾身の思いを込めて叫んだ。




「転べ」




 頭の中で大きな鐘の音が鳴り響く。


 目を閉じるな。


 受け止めるんだ。


 強烈な鐘の音は僕の脳みそを揺らした。


 すると、少しだが中年サラリーマンの足が地面から離れはじめる。


 僕は、中年サラリーマンがこのまま空に向かって飛んでいってしまうような気がした。


 一体その後はどうなるのだろう。


 宇宙まで行くのか。


 それとも途中で落ちるのか。


「まずい」

 徐々に浮き始める中年サラリーマンを、虚ろ虚ろに見ていた僕は我に返る。


 その途端、宙に浮いていた中年サラリーマンは地面に落ち、盛大に転ぶことになった。


「できた。本当に叶ってしまった」

 自分の両の手を見た。


 僕はなにか特別な力を手に入れてしまったようだ。




 戦争が終わったというのに、僕の世界はとくに変わった様子はない。


 今日もオフィス街でスーツを着ている。


 記憶に残る時間はだいたいこの夕暮れ時、家路へと向かっているこの時間だ。


 さあ、今日もやるか。


 僕は辺りを見渡す。

 目標を探しているのだ。


 どんなことでもやってみよう。まずは、あの青年の帽子を飛ばそう。


 これから遊びに行くであろう青年は、ヘッドホンで音楽を聴いているのか、体でリズムを刻んでいた。


「飛べ」

 僕は渾身の思いを込めて願った。


 すると帽子は空に向かって軽々と飛んでいく。


 コツを掴んだ。心の底から願うのだ、すれば叶う。


 そこからは沢山の人や物にこの力を使った。


 小石を動かしてみたり、ゴミ箱にゴミを飛ばし入れてみたり、喧嘩を止めてみたり、スカートをめくってみたり。


 この力はどこまでの物なのだろう。




 そして、とうとう転機の日が訪れた。




 僕は時間に対してこの力を使ってしまったのだ。




 ある日自宅でビールを飲んでいたところ、それをこぼしてしまった。


 いつもなら慌てて拭くのだが、その時は自然と"戻れ"と唱えていたのだ。


 するとみるみるうちに、こぼれたビールは缶の中に戻り、溢れる前の状態になった。


 この時の僕は、とくに感じるものはなく、ごく当たり前のように力を使っていた。


 そしてさらに僕の暴走は加速してゆく。


 またある日、包丁で切り傷を作った日のこと。


 戻れとも唱えず、嫌なものだと認識したその時に、自然と傷が塞がっていった。


 なんでも出来てしまう。


 食べなくても、腹を満たせるのでは。


 眠らなくてもよいのでは。

 僕はいったい何者なのだ。


 黒い渦を巻く心を抱え、外に出た。


 雨がしとしと降っていて、アスファルトには世界が映し出されている。


 雨傘が渋滞し、僕の進路を妨げる。


 なにやら人だかりが出来ているようだ。


 雨傘をかき分け進んでゆくと、そこには横たわる女性に鋭利なものを何度も振り下ろし血溜まりを作っている男がいた。

 辺りの人等は傍観し、硬直していた。


 僕は男の方へと歩いてゆく。

 男は僕をゆっくりと見上げる。


 無言のまま、二人は見つめ合った。二秒ほどだ。


 そして僕は男の頭を鷲掴みにすると、耳を劈く雷鳴とともに、鐘の音が雨粒を揺らした。


 スイカを落とした時のような鈍い音の後、男の眼球は潰れ、口や耳、鼻からは大量の血が噴き出す。


 辺りの人等は悲鳴を上げ逃げ惑った。

 いくつもの雨傘だけが僕の周りを囲む。


 その場に膝をつき、女性の傷に手をかざした。


 女性の傷はみるみるうちにふさがっていく。


「よかった」

 僕は安堵し、血に染まった自分の手を見つめる。


 目線を少しはずすと、黒い革靴が見えた。




「ちょっとやりすぎだねえ」




 低くドスの利いた声に僕は視線を上げた。


 そこにはこの時代に似使わないスーツに、ステッキをつき、シルクハットを被った貴族のような男が見下ろしていた。


「自分を神かなにかと勘違いしているのかい」

 男は問う。


「そんなつもりは」

 僕は俯く。


「駄目だよ、君。人の生死まで関与しちゃ」

 男は僕の手を掴んだ。


「どこに行くんですか」

 僕は問う。


「月に行こうか。君はもうここにはいられないから」

 男は哀しげな表情だった。




 立ち上がった僕は、淡く青いベールに包まれた美しく大きな星を月から眺めていた。


 なぜか子どもの姿で、シルクハットの男の手を握っている。


 男を見上げたが顔は陰り、表情は読み取れなかった。


 僕は淡く青い星を見つめ泣きじゃくる。


 悲しみ、恐怖、安堵、寂しさ、胸が張り裂けそうだ。


 こうして僕は月の光になった。


end.

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