退去

家についた俺は目を疑った。


『退去願い』


玄関の手紙の山から顔を出していたのを見つけてしまったのだ。


確かにこのボロアパートは近いうちに取り壊されるだろうと思っていたが。


封筒を開き中を確認すると、俺は何も言わずに大家の部屋へと走っていった。


「ちょっと大家さん!本日中に退去って、これはおかしいんじゃないか?」俺は戸惑いと怒りを隠せずにいた。


困惑した大家は落ち着いてこう話した。


「申し訳ございませんが、通知は半年前にしていたはずですが。」


「いや、でも」退去願いの紙をよく見ると日付は確かに半年前になっていた。


自分の確認不足だった。


完全に見落とした。


今から新しい住居を探すのは無理だ。


荷物は少ししかないが、アパートが取り壊されるまでは置いておいて良いということになった。


家から傘と貴重品だけをリュックにいれ、アパートを出るのだった。


よりによって雨の日に家を失うことになるなんて。


俺は途方にくれ歩き続けたが結局さっきの公園に来ていた。


「やっぱりここが一番落ち着くんだよな」


滑り台とトイレ、そしてベンチが横並びに三つあるその公園は普段は人がそこまで多くなく奥まった場所に存在しているのだった。


ベンチにはとくにこだわりがなく、いつも空いている場所に座るような感じだ。


今日はトイレの横のベンチに座る。


青々とした葉をつけた木の枝がベンチを覆っていて、丁度傘代わりになっているのだ。


「またさっきと同じか。」ボソッと言った。


しばらく止まない雨を眺めていると、土手沿いの真っ赤な傘が目に写った。


派手な傘だな。


真っ赤な傘の足元を這うように、赤い布のようなものがひらひらと動いていた。


なんだあれ。


俺は目を凝らす、その正体は犬だった。


真っ赤な雨合羽を着ている犬。


横には酸素ボンベ。


ということはあの真っ赤な傘は。


予想通りさっきのおばあさんだった。


この雨の中、酸素ボンベと犬を引きずり散歩のつもりなのだろうか。


散歩の途中に雨に降られたか。


俺はしばらく赤色を眺めていた。


深い赤色だ。


薔薇のような色で、深みがある。


高そうな傘だ。


あのおばあさん、、、。


「あ!!!」俺は息が止まりそうになった。


川沿いから突然赤い傘が消えたのだ。


ぐるぐると地面を時計周りに回る赤い布が大きな声をあげた。


俺はとっさに走り出し、公園の入口を抜け、一方通行の道路を横断し、土手を駆け上がる。


向かい側の川沿いまで下り、途中で倒れていたおばあさんの救出を急いだ。


「おばあさん大丈夫?今助けるからね!」俺は息を切らしながらおばあさんの様子を伺った。


「うぅ、」おばあさんの意識はあるようだ。


おばあさんを担ぎ上げ坂を登る。


細く折れそうで、想像以上に軽かった。


土手の上につくと、すぐさま救急に電話をした。


雨で濡れないよう真っ赤な傘でおばあさんを守る。


赤い布は隣でうろちょろし落ち着かないようだったが、このおばあさんにできる限りのことをしてあげたかったのだ。


しばらくして、救急車のサイレンが聞こえた。


5分もしないうちに現場に到着した隊員は担架におばあさんを乗せ救急車で走り去ってしまった。


残った隊員に状況説明をし、なんとかその場を収めることができた。


ただ、その時の俺の両の手には真っ赤な傘に繋がれた真っ赤な雨合羽を着たそれと酸素ボンベがあった。


「あ、」思わず声が漏れてしまった。


俺自身も内心焦っていたのだろう。


おばあさんのものだと伝えるのを忘れてしまっていた。


赤い布はこちらを見上げ、寂しそうな顔をする。


「そんな顔するな。すぐに帰ってくるさ。俺とあの公園で待っていよう。」赤い布はとぼとぼと俺についてきた。


家も仕事もない俺は、公園に戻り赤い布と酸素ボンベとともにおばあさんの帰りを待つ。


こんな格好じゃ俺があのおばあさんみたいじゃないか。


とりあえずベンチに赤い布と酸素ボンベをくくりつけた。


逃げてしまわないようにだ。


赤い布は相変わらずぐるぐると回っている。


俺は騒がしい景色が目に映らないよう雨の降る空を眺めた。


雨を一粒一粒数えていると、公園の前にタクシーが停まる。


タクシーの中からさっきのおばあさんが現れ、こちらに駆け寄ってきた。


もうそんなに時間が経ったのか。


おばあさんが近付くにつれて、赤い布の回転も早くなり、興奮を抑えられなくなってきている。


「あなたは命の恩人です。ぜひうちにご招待させて下さい。」腕に包帯を巻いたおばあさんが俺に向かって言った。


人の家などに招待されたことのない俺は一瞬躊躇したが、雨が降ってきていたし甘えることにした。








「こちらです。どうぞお上がり下さい。」おばあさんに案内された家は豪邸も豪邸、やはりこのあたりでは有名な地主の家だった。


豪邸に足を踏み入れた俺はまずお風呂を勧められた。


「雨でずぶ濡れでしょうしお風呂をお上がり下さいな。」おばあさんはそういうと奥の部屋へと消えてしまった。


「あ、ありがとうございます」俺は頭を下げ浴室で服を脱ぎ始めた。


今日初めて会った人の家で俺は一体なにをやってるんだ。


そこはまるで大浴場のようで、一人で使うにはもったいない広さだったが、お風呂を全身で堪能した。


優雅なその見た目は、自分自身がお金持ちだと錯覚させたのだった。


お風呂を上がるとそこにはサイズ感のちょうど良さそうな服が準備されていた。


まるで旅館にでも来てるようなサービスだ。


「あれ、おばあさんいないな」浴室を出た俺はおばあさんを探す。


広い豪邸の中おばあさんを探すのは至難の業だ。


豪邸の中をうろちょろしていると酸素ボンベを引いた犬が寄ってきて俺の足に絡みついた。


「おまえは大変そうだな。必死に生きているんだな」こころなしか犬は笑っているように見えた。


犬の歩く方へと付いていくと、おばあさんのいる応接間に辿り着いた。


「お待ちしていました。お茶でもお飲みになりますか?」おばあさんが俺に聞いてきた。


「お願いします。」椅子に腰掛けた俺は応接間を見渡した。


部屋の中は珍しい物で溢れていた。


例えば、虎の剥製だったり、珍しい化石のようなものだったり、見たこともない絵画だったり。


まだまだ珍しい物があり、冒険しがいのある家だと思った。


少しするとお茶がテーブルに置かれ、おばあさんが話し始めた。


「この通り私は歳です。跡継ぎはいません。そこであなたにこの豪邸の全てをお譲りしようと思うのです。」


このおばあさんは突然なにを言っているんだ。


「まさか、冗談は辞めてください。」俺は鼻で笑った。


「冗談ではありません。心優しき青年にお譲りすればこの豪邸も生きると思うのです。」


俺はとんでもないものを突然手に入れてしまった。

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