屍の階段

 暗闇の中に一人立っていた。耳の穴に冷たい空気が通る感覚。

 全身の毛穴にも、冷えた氷を当てられているような。


 身震いしそうなその空間には、なにもなかった。声を出そうと口を開いても、喉が震える感覚がない。


 耳は澄んでいるのに、物音一つ聴こえない。自分の存在が危うくなり、慌てて手のひらを顔の前に持っていく。


 すると、幼い頃から一緒のはずの手のひらは、なぜか私の目には写らなかった。


 うずくまろうにも、全身の感覚がない。心臓が暗闇の全体で鼓動している。

 

『暗闇が脈打っているんだ』


 魂で感じる鼓動は徐々に早くなり、力強い大太鼓の音に変わる。大太鼓の振動は響く間隔を短くし、一定の音を刻み始めた。


 すると暗闇の向こうに無数の光が集まる。蛍のような儚い灯火だ。


 その光が一つになり、次第に形成される『それ』は人の姿をしていた。髪を後ろで結び、私に背を向け光に向かって歩いていく。


 遣る瀬無い想いが胸に充満し、虚無感に似た感情が私を支配した。

 意識の中が白くかすみ、保つのに精一杯になる。少しでも集中を切らせば、この世とあの世を繋ぐ線が切れてしまうような気がしたんだ。


『だれか…助けて…』

 まもなく限界を迎える私の精神は悲鳴を上げていた。 


 するとたちまち、ほつれた線を紡ぐように光の糸が私を囲む。全身が暖かくなり、徐々に五感が戻ってくる。


 目の前から突風が吹き、激しい耳鳴りと同時に一瞬で舌が乾いた。そして私の意識は吹き飛ばされてしまうのだった。


______________________


 なにかに押し潰されているように体が重い。ゆっくりと鮮明になる意識が、自分の置かれた状態を理解する。

 

 目を見開くと、私は仰向けになり藍色の空を見つめていた。詰まった息を吸い込むと全身に血が通うのを感じる。


 ゆっくり腰を上げ辺りに目をやると、真横に空が続いていた。


 異変を感じながら慎重に立ち上がると、私の足は地面を踏みしめた。雲が膝下あたりまで絡んでいて、地面の表情は見えない。


 おぼつかない脚をふらふら進めていくと、大きなお城が見えた。真っ白で、ところどころにひび割れがある。


 圧を感じるたたずまいに、私は身構えた。一瞬恐怖を感じた時、大切なことを思い出す。


「さゆりお姉さん?」

 一緒に光に包まれたはずのさゆりお姉さんがいない。


 辺りを見渡したがお姉さんの姿がないのだ。確かに手を繋いだはず。私の手にはまだ、さゆりお姉さんの手の温もりがかすかに残っているのに。


 もしかしたら別の場所にいるのかもしれないと思い、すぐにでも合流しないとと考えた。


 私はお城のほうへと歩いていく。足元は雲に隠れて見えづらく、段差につまづいた。

 つまづいた箇所を足で器用に確かめると、階段のようだった。


 すると辺りに風が吹き、雲の絨毯が剥がされる。


「なにこれ…」

 私はその光景に驚愕する。


 なにかの骨で組み立てられた建造物を、階段と呼んでいいのかは分らないが、そこから発せられる邪悪な雰囲気からは、怨みのようなものを感じさせられた。


 この場所はおぞましい黒装束がいた城だ、なにがあってもおかしくはない。

 骨の階段を眺めると、頭部のような物、肋骨のような物が確認できる。それが人の物とは思いたくはないが、看過かんかすることもできない。


 私は目を瞑りその場で手を合わす。どんな生き物だったのかも分からないが、城に入るためにはこの屍を乗り越えるしかなかった。


 昨日のように黒装束が現れるのを警戒しながら、城へと続く屍の階段に足を乗せた。

 『パキパキ』と音を鳴らしながら、一段づつ骨を踏み締めていく。


 不思議と罪悪感はなく、どちらかといえば、私自身鼓舞されるような感覚。この感覚は以前にも感じたことがあるような気がする。


 階段を上り切ると、目の前には硬い鉄の門が現れた。

 どこか邪悪な雰囲気を醸し出していて、私が城に入るのを拒むようだった。


 見上げる程の城の門は固く閉ざされていて、私一人では開くはずがない。


 「別の入口を探さないと」


 私は門の前で腕を組むと、左右どちらに進むかを考えた。

 相当大きな城のため、どこかに別の入口があるだろうと考えたのだ。


 すると、妙な音が私の右耳に入って来た。

 ガレキが崩れるようなそんな音。


 私は音のする方へ進んで行った。


 壁つたいに歩いていたが、この城は相当大きい城だと感じる。

 物音がそこまで遠くなかったため、すぐにでも異変が見つかると思っていたが、曲がり角はまだまだ見えない。


 さらに歩くと、雲が濃くなってきた。

 視界が悪くなり、歩くのが少し難しくなってきたのだ。

 それでも速度を変えずに歩き続ける。


 厚い雲と早歩きのせいで息が切れてきたその時、なにかを踏んだ音がした。


 足元を見ると、細かい石。

 所々に白いレンガのようなものがたくさん落ちていたのだ。


「なんだろうこれ」

 私は不思議に思い、それを拾ってみた。


 なにかが壊れたような破片だった。

 ふと壁に目をやると、そこには人一人が入れそうな穴が空いていたのだ。


「ここ、通れそう」

 私は、なんとかお城への入口を見つけることができた。


 なぜこんなところに穴があるのだろうと疑問を持ちながらも、警戒しながら壁の向こう側を覗き込む。

 中は、フライパンやトングなどが壁に掛けてある広い厨房だった。

 恐る恐る中に入り様子を見る。


 湿っぽくかび臭い厨房で物音などは一切しない。

 台所にはまな板があり、包丁が刺さっていた。


 最近まで誰かが料理をしていたような形跡はないのだが、血のような黒ずみがそこらに散っていた。魚でも捌いていたのだろうかと思ったが、よく見るとその跡は床にもある。

 もっと大きいなにかを捌いていた可能性も否めなかった。


 他にもなにかないかと見て回るとドアを見つけた。ドアノブは外れていて、押しただけで開く。


「廊下だ」

 私は城の廊下に出たが、空気は澱んでいて耳鳴りがする。


 しばらく薄暗い廊下を歩くと、視界がはっきりしてきた。少し歩いてみると左手に窓がある。窓の外からは明かりが入り、光に照らされた絨毯は赤く、暖色な壁紙は安心感を漂わせていた。

 歩き続けると右手に深い緑色のドアが見えた。ドアの目の前に立つと金色のドアノブに手をかける。


 ひんやりとしたドアノブの感触に胸がざわつく。妙な感覚がした私は一度手を離した。なぜかこのドアに見覚えがあったのだ。私はドアから一歩離れて深い緑色を眺めた。


「私、ここを知っている」

 警戒心は、すでになくなっていた。


 私はドアノブに手をかけ勢いよく開けると、その部屋からは懐かしい匂いがした。うまく言葉に出来ないが、昔嗅いだことのある匂いだった。


 なぜか心が落ち着いて目頭が熱くなる。部屋の中にはベッドやドレッサーなどの家具があり、ピンクのドレスを着たお姫様の人形もあった。


 私はベッドの横にある倒れた写真立てを手に取る。その写真には、綺麗な大人の女性と頬をつけ、嬉しそうにしている少女が写っていた。


「なんだかこの人、見たことがある」


 写真を戻しドレッサーの前で顔を上げると、鏡に映った自分の顔を見て驚く。私は戻したばかりの写真を急いで鏡の前に持ってきた。


「この子、私だ」

 写真に写った女の子は私だった。


 なぜか私の体は成長していて、顔つきも変わっていた。自分の顔を触ってみるが違和感はない。まったくの別人という気はせず、不思議と私は私だと納得が出来たのだ。鏡と写真を見比べながら驚いていると、ドレッサーの裏に白い紙のような物が見えること気付いた。それを覗くとそこには一枚の手紙が落ちている。埃を被っていてシワシワだ。破れないように気を付けながら読んでみることにした。

 


 『リーナへ


 リーナ、あなたにだけ秘密の話を伝える。

 実は大臣のモズは、このお城を乗っ取るつもりなの。

 去年あなたのお父さんが亡くなった後、モズが私たち親子の殺害を命じているのを偶然聞いてしまったの。殺害を命じた相手はモズ直属の黒装束部隊よ。


 殺害の日時は、お父さんが亡くなってから次の満月の夜。そう、今夜私たちはあの男に殺される。黒装束の人数からして私は逃げ切ることは出来ない。


 けれどあなただけは逃してあげられる。夜になったら部屋を抜け出し、厨房に向かいなさい。厨房にコックのスベンがいるはず。彼が作ってくれた脱出口から外に出なさい。


 まっすぐ空に向かって飛ぶのよ。リーナの首飾りが必ずあなたを救ってくれる。

 

 あなたのことをいつも大切に思っているわ。


 ママより』


 私に宛てられた母からの手紙だった。


「この人が私の本当のお母さん。だとしたら地上で見たあのお母さんは一体...」

 

 母からの手紙には、厨房に私を逃がすための穴があると書いてあった。母とスベンが作ってくれたそうだ。彼は父の親友で仕事に真面目、二週間に一回は新作のデザートを開発していて、私はよく厨房に忍び込みスベンの作る試作を食べさせてもらっていた。


「ママによく怒られたっけ」

 私は泣いた。


 パパとママの大切な壺を割ってしまい叱られた時、スベンが必死に庇ってくれた。あの時泣きながら食べたイチゴのタルトは、ほっぺたが落ちるくらい美味しかった。

 

 私の中で眠っていた記憶が蘇る。


 ママにパパ、そしてスベン。なぜか今まで忘れていた記憶、その記憶たちが一気に脳に押し寄せてくる感覚。情報が全方向から無理矢理ねじ込まれるようで、私は目を閉じ頭を抱えてその場にうずくまった。


 辺り一面に草原が広がり、黒い毛並をした馬の大軍が一直線に走っていた。嵐のような突風と氷のような雨。暖かく淡いピンク色の空間に投げ出されたかと思うと、全身がお湯のような液体に包まれる。小さな耳には赤子の泣き声、その泣き声が自分から発せられていると気付いた時に真っ白な光に包まれた...

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