警察官さゆり

 私は不安になり、泣いた。

 大声で泣いた。

 いったい自分の身に何が起きているのか、幼い私には分からなかった。


 近くを通りかかった大人が声をかけてくれたが、その言葉は耳に入らない。

 自分の半分がなくなったような感覚になり、胸が苦しくなった。


 息が出来ない。

 私の呼吸は乱れ始め、とうとう自我を失ってしまった。


 今いる場所が、何処なのか。

 私という存在は一体…


 私は、自身の存在を忘れてしまったのだ。


 真っ暗な意識の中で自分という存在にしがみつく感覚。

 自分という存在の足にしがみつき、目を瞑り意識が剥がされないように保っていた。


 人間とは、地球とは、宇宙とは、世界とは。

 意識が飛ばされないように、考える事を止めないでいると、突然全身に風を感じた。

 強く閉じていた瞼を勢いよく持ち上げると、目の前に空が広がる。


 真っ青な空だ。


 体は浮いていて、地上は見えない。

 不思議と落下はせず、空を見渡す事ができた。


 そして呼吸を整え体の向きを変えたその時。


「お城…」

 私の瞳に、地上で見た城が見えた。


 見上げる程に大きな城は、私の居る場所から少し離れているようだ。


 近付こうと手を伸ばしたが、体はその場から動かない。

 足をバタつかせても、白い壁の城は、私から離れていくように感じた。


 なぜか焦りに似た感情を抱いた私は、両腕を力いっぱい前に伸ばしたのだが、その瞬間に城の一部から強烈な光が放たれた。


 地上にいたときと同じように、私の体は光に包まれ、気を失ってしまったのだ。

 

______________________

 

 どのくらいの時間が経っただろう。

 気がつくと私は警察署にいた。

 

 警察の話だと母は失踪したらしい。近くに母の私物などはなく、完全に姿を消していたのだ。


「大変だったね。もう大丈夫だよ」

 女性警官が私に言う。


「大丈夫じゃないよ。お母さんいないもん」

 女性警官は困惑した表情だったが、続けてこう言った。


「私が必ずお母さんを探し出してあげるからね。私はさゆり。坂東さゆりよ。あなたの名前も教えてもらえるかな」

 

「私もさゆり」

 私はもじもじしながら答えた。


 驚いた顔で目をまんまるにしたお姉さんは、嬉しそうに左手の人さし指で鼻の頭を掻いた。


「同じ名前だね、さゆりちゃん」

 その嬉しそうな表情には、子どもっぽさが残っていた。


 この人はどこか安心出来る雰囲気がある。なぜかそんな気がしたのだ。

 

「さゆりちゃん。ちょっとお話聞かせてくれるかな」

 お姉さんは私を別の部屋に連れていき、事情聴取をした。


「さゆりちゃんは、朝何時に起きたか覚えてるかな」

 優しい口調でお姉さんが聞く。


「七時くらい」

 私は俯きながらボソッと言った。


「お母さんはいつも何時くらいに起きてるか分かるかな」


「わからない」

 なぜか朝からのことが思い出せない。


 どれだけ思い出そうとしても、脳の一部が消えてしまったような、そんな感じになる。


「それじゃあ、朝ごはんはなにを食べたか、教えてほしいな」

  私は黙り込んでしまった。


「今は思い出すの難しいかな」

 お姉さんが、不思議そうな顔で聞いてきた質問に対し、私は首を縦に振った。


「よし、一回休憩しよう。飲み物を取ってくるから待っててね」

 そう言ってお姉さんは部屋から出て行った。


 なぜ、なにも思い出すことが出来ないのだろう。

 

 「空のお城」

 私の口から突然漏れた言葉。私が発した言葉は、これで最後だった。


 その後、お姉さんが林檎ジュースを持って戻ってきたが、私は一言も話さずに事情聴取は終わった。


 お姉さんの話では、身寄りのない私は一時的に施設に預けられることになったそう。


 お姉さんに連れられて警察署を出ると、太陽が徐々に沈み始めた。


「さゆりちゃん。今から施設の人が迎えにくるよ。子どももたくさんいて、良いところみたいだから大丈夫。なにか分かったら私が知らせに行くからね」

 お姉さんは私の手を握り、真剣な眼差しで言った。


 この人の言葉は信用出来る。

 私は信じて待つことにした。

 

「お姉…」

 声を出そうと思ったその時、一台の車が警察署に入ってきた。


 車には大きく『ひまわり教室』と書いてあり、その車は私たちの目の前で止まった。

 ドアが開き、口髭を蓄えた男の人が降りてきた。

 

 男は、私とお姉さんの前まで来ると、私のほうへと手を差し出す。


「やあ、君がさゆりちゃんだね」

 男は握手を求めてきた。熊のような男の人だ。


 私が怖じ気づき、返事ができずにいると、お姉さんが代わりに返事をしてくれた。


「島袋さん、お久しぶりです。さゆりちゃんをよろしくお願いします」

 お姉さんは親のように言った。


「久しぶり。もちろん大切にお預かりしますよ。さゆりちゃん、僕の名前は島袋大地と言います。よろしくね」

 私が不安そうに頷くと、咄嗟にお姉さんが声をかけてくれた。


「心配しないで、島袋さんは私の元上司だったのよ」


「上司…」

 私は首を傾げた。


「仕事のやり方を教えてくれる、お兄ちゃんみたいなものよ」

「明日も様子を見に行くし心配しないで」

 お姉さんがそう言うならと、ほんの少しだけ安堵した私だった。


「それじゃあ、また明日ね。さゆりちゃん」

 お姉さんが私に向かって手を振り、島袋さんに深くお辞儀をする。

 車に乗り込むと、後部座席に男の子が一人座っていた。


「僕だけじゃさゆりちゃんが不安かと思ってね。ひまわり教室の子を一人連れてきたんだ。ほら、カケル挨拶しなさい」

 カケルと呼ばれたその少年は、窓から空を眺めながら「よろしく」と一言だけ発する。


 黒髪で肌は白く、顔立ちはとても整っていた。

 車内での会話は、施設の説明や、軽い自己紹介などだったが、カケルという男の子は酷く人見知りで、顔を合わせようとはしなかった。


 警察署から車で約20分ほどの場所に『ひまわり教室』があった。

 周りに建物は少なく、空がとても広く感じたのを覚えている。

 お母さんが見つかるまでの辛抱だ。

 今日から少しの間ここで暮らすんだ。

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