藤田の過去 林檎の木

「目の前に血の海が広がった時の記憶からは、ほとんど覚えていない。あの後は、警察が来て、それで...」


「藤田くん、大丈夫かい。今日はもうやめておこうか」

 年配の警察官が言った。


 藤田は、警察署に来ていたのだ。意識がハッキリとしない中、聴取を受けていた。母親はどこにいるのか、妹はどうしているのか。これからどうなってしまうのか。藤田の成熟したばかりの脳は疲弊していた。


「よく...分かりません」

 無表情な藤田。


「それなら、またにしよう。お母さんの方は、今さっき終わったようだから、ここで待ってて」


 年配の警官が部屋を出ていくと、藤田は背もたれに寄りかかった。天井を見上げると、深いため息を吐く。落ち着いてきたかと思うと、何かが起きる。ただ普通に生きていたいだけなのに。


「あの時お姉さんが言った通りだった。人生は残酷だ」


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 警察署を出たが、家は帰れる状態ではなく、その日は祖母の家に泊まることになった。タイルが敷かれた広い風呂に浸かると、これからの人生について考えた。自分が生きていると、みんなが死んでしまう気がする。普通でない人生を歩む自分のせいで。お姉さんにも会わなければ、あんな悲劇は起きなかったかもしれない。自分が生まれなければ、母親と父親が仲良く過ごしていたかもしれない。兄が父親を刺すこともなかったかもしれない。妹が悲しむこともなかったはず。


 自分を肯定する理由が見当たらない。いっそのこと、この世から消えてしまったほうが楽になれる。そんな気がするんだ。


 この感情が、どこに消えるのかが分からない。このまま、この感情のまま生きていくのは辛すぎる。これ以上は耐えられる自信がない。もう嫌だ、もう生きていたくない...もう...


 藤田の心に宿る灯火ともしびは、今まさに消えようとしていた。短い人生に、悔いしか残せていない。何年も前に亡くなった祖父のカミソリを手に取ると、手首にあてがう。唇を強く噛み、カミソリを横に動かすと、細く赤い線が入った。薄皮が剥がれ、血が滴る。幼い頃から人の死と向き合ってきた藤田だったが、やっとお姉さんの所へ行ける。もう頑張らなくていい、もう生きなくていい、もう諦めていい。藤田は、ゆっくり目を瞑ると、お姉さんの言葉を思い出した。


「そう。だからもし、キミに大切な人や大切な物が見つかったら、命の限りに守り通すの。それはつらいことかもしれない、恐ろしいことかもしれない。けど自分の足で前に進むの。自分の拳で守り抜くの」


「でもね、今を悲観してはいけないよ、未来はきっと輝いてるから。こんなにも素晴らしい人生を生きられて、私は凄く幸せ」


 あんなにも昔のことを、なぜ鮮明に思い出すのだろう。


"

「こんな家庭に生まれたことを恨んだ。でも俺は生きてる。今日まで生きてる。時間が掛かったけど、生きることが素晴らしいことだって気付けたんだ。そんな素晴らしい人生を、これからの母さんには送ってほしい。誰よりも幸せになってほしい」


「後は頼んだぞ」

"


 死の間際の兄の言葉までも、脳裏に浮かぶ。


 二人とも、こんなにも残酷な人生を『素晴らしい』と言って死んでいった。なぜなのだろう。藤田は、自分から滴る真っ赤な血に、なぜかせいの感覚を抱いた。赤を見ていたはずの視界はぼやけ、熱い涙が涙腺から溢れ出す。死を覚悟した途端、生きる事への執着が芽生えたのだ。涙は傷口へと落ち、傷を癒してゆく。血はやがて止まり、二人の言葉が心に焼き付いたように感じた。

 

 浴室を出た藤田は、リビングへと向かう。毛布を肩にかけテーブルで眠っている母も、涙を流していた。


「圭、お風呂出たのかい」

 祖母が妹を寝かしつけ、リビングに来た。


「お婆ちゃん、色々ありがとう」


「なに言ってんのよ。あんたのお婆ちゃんなんだから、当然でしょ」

 そう言った祖母は、台所に立つと林檎を切り始めた。


「この子はね、いつもあんたたちの話をしてるのよ。旦那が、仕事もしないろくでもない人だから、私が子どもたちを守るんだって。子どもたちには、いつも我慢させてしまってるって、泣いて電話が来ることもあったの」


「そうだったんだ。全然知らなかったよ」


「母親はね、子どもたちに弱い所を見せたくないものなの。母親失格だなんて思わないであげてね。これはお婆ちゃんの勝手だけど、お婆ちゃんからしたら大切な愛娘なのよ。もちろん、あんたたちもね」


「俺は駄目な奴だな。母親の苦悩にさえ気付けなかったなんて...」


「お婆ちゃんの孫が、駄目なわけないでしょう。お爺ちゃんも言ってたのよ。「圭は他の子どもとは違う、きっと立派な大人になる」って。ほら、お爺ちゃんも戦争で家族を亡くしているでしょ。あの人もずっと一人で生きて来た人だからね、圭の一人になりたいって気持ちが分かったのかも」


「どうして俺が、そう思ってるって知ってるの」


「そんなの見てれば分かるわよ。人を大切に思う気持ちっていうのは、そういうものなの」


「そうだったんだ...」


「林檎食べなさい。これからは、お婆ちゃんも、もっと協力するからね。困ったらうちに林檎食べに来なさい」

 祖母は、そう言って藤田の頭を優しく撫でた。


 気持ちが落ち着き、照れた顔で林檎を口に運ぶ藤田。母の寝顔を見て、大切な人たちのために強く生きる事を誓ったのだ。


「お婆ちゃん、林檎うまいよ...」


「美味しいわよね。お爺ちゃんが生前、大切に育ててきた林檎の木だからね。こうやって、いつまでも愛が続いていくのよ。圭、寝る前にお爺ちゃんのところに林檎持って行って。ついでに手を合わせてらっしゃい」


「うん、分かった。おやすみお婆ちゃん」


 その後、仏壇で手を合わせた藤田は、大切な人たちを守り抜くことを祖父に誓い、眠りについたのだった。


 翌日からの聴取や葬儀は、淡々と過ぎていき、グラついた環境をなんとか支えることができた藤田は、前に進むべく心機一転。元々関りのあった桜庭と協力し、ビジネスの勉強を始めたのだった。

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