藤田の過去 絶望の闇と希望の光

 翌日からの藤田は、お姉さんに会いに公園に通うのが習慣になっていた。お姉さんの練習に必死に食らいつき、ボクシングの型が様になってきた頃、事件が起きた。


 この日も藤田は公園に向かっていた。朝は相変わらず、親同士の喧嘩を目の当たりにし、母親と妹の涙を見て来た。兄は家を出てどこにいるのかが分からない。とっくに家庭は崩壊していたが、藤田の心は燃えていたのだ。


 走って公園に到着した藤田。だが、いつもいるはずの時間にお姉さんがいない。約一か月の間練習を共にしていた藤田は、お姉さんがいないことに違和感を覚えた。時間をキッチリ守る人であったし、昨日もしっかりと同じ時間に約束をしたのにだ。いつもよりしている空気を感じると、心音が早まった。嫌な予感がした藤田は、辺りを見渡す。いつも練習していた場所は、公園の中心にある時計の真下。すぐ近くにはベンチがあって、その裏には林がある。子どもの頃の藤田は、あまり感じたことはなかったが、この公園は人気ひとけがなく、夜になると薄暗い街灯が照らす不気味な公園に変わるのだ。


 ふとベンチの横を見ると、液体をこぼしたような跡があった。普段なら気にもならないが、この時は違ったのだ。藤田はそのに近付くと、鼻を刺す強い臭いに、手のひらで口を覆った。藤田が感じたのは、砂に鉄が混じった臭い。鼻血などという量ではなく、血液を腹から吐き出したように広がっている。血だまりだと確信した藤田は、それが林の奥まで続いていることに気付いてしまったのだ。この先にいったいなにがあるのか、子どもにも安易に予想できた。藤田の足は震えを止めることができず、立っていることも精一杯になる。


 時間は刻々と過ぎていき、闇が公園を包み始めた。ここで真実を知らなければ、一生の間後悔をすると感じた藤田は、重い足をゆっくりと持ち上げる。さらに暗い闇に足を踏み入れると、冷えた空気が全身に絡みついた。一歩ずつ絶望に近付いていく感覚だ。嫌な予感は勘違いかもしれなかったが、自身の中で勝手に暗示をかけてしまっていた。

 全く使い物にならない目を、順応するまで強く開いたままにし、未来の記憶を改竄かいざんしようと脳を働かす。生い茂る草木をかき分けながら、独り言のように「大丈夫...大丈夫...」と呟いていたが、努力も虚しく藤田の鼻腔には甘ったるいジェラートの香りがかすめた。


「おねえ...さん...」

 声にならない声を絞り出す藤田。


 暗闇で目が慣れ、まもなく想像したことが創造される。現実を受け止めなくてはいけない瞬間が訪れた。綺麗に纏まられていたはずの黒い艶やかな髪は、汚れた土の上で、黒い彼岸花のように広がっている。服は破れ、白い肌は露わになっていた。眼球は濁り、口角は裂けている。ここで行われたことは、幼い子どもの心では理解しきれないほどの悲劇だった。しばらくの間、それを見ていた藤田は唐突に口を開いた。


「もう見たくない。こんなもの...もう...見たくないんだ」


 現実を受け止め切れなくなった藤田は、両手を前に出した。手のひらを見ると、その中から人差し指と中指を選び、それをゆっくり瞼の上に乗せる。完全な暗闇を求め、指先に力を込めていくと、眼球が奥に押し込まれる感覚があった。このまま押し潰してしまおうと自暴していた時、どこからともなく声が聞こえた。


けいどこなの、けい


 林の外から聞こえる声は、紛れもなく母親のものだった。我に返った藤田は振り返ると、無我夢中で元来た道を走ったのだ。先ほどまで忘れていた『恐怖』や『不安』を背後に感じながら、母親の元へ戻ってゆく。振り返れば、いつでも引きずり込まれてしまいそうな闇の中を、僅かな光に向かって進んでゆく。


「お母さん」

 血だまりを踏み、林から飛び出すと母親の胸に飛び込んだ。


 潰してしまえそうなほど強く抱きしめると、自分が子どもだったことを思い出し、わんわんと涙を流した。一人で生きようと足掻いていた少年は、その無謀さに気付いたのだ。切れてしまいそうなほど細くなっていた糸を、太く紡ぎ合わせると、やっと母親の温もりを感じることができた。


 その後、警察や消防が到着すると、藤田の血だらけになった靴を見て驚き、血だまりを発見する。発見した時の話を詳しく聞くと、数名で林の中に入って行った。見るも無残な死体は、担架に乗せられ青いシートを被されていたが、シートの端からは黒い毛髪が垂れていたのだ。


 家に帰り、数日を過ごした藤田だったが、あの時の記憶が頭から離れない。この事件は、テレビで数回取り上げられたが、ほとんどの情報がないと報じられ、犯人の特徴や、死因などは一切報道されなかった。毎日のように、新聞や近所の井戸端会議などに注意を払っていた藤田だが、お姉さんが何者だったのかも分からず、なぜかこの事件は未解決事件扱いになったのだ。ネット上の噂によると、政治家の息子の仕業などと噂されていたが、真偽は定かではない。


 そして数年が経ち、藤田が中学二年生になったある日のこと。今度は、人が人を刺す瞬間を目の当たりにしてしまうのだ。その現場は、なんと自宅。長い間家を出ていたはずの兄が、父親の腹に深く包丁を刺していたのだ。


 いつものように、両親の喧嘩の声で目を覚ました藤田。「離婚すればいいのに」と感じながらも、そんなことですら伝えるのも無意味だと思っていた。制服のまま眠っていた藤田は、ベッドから足を降ろす。ローテーブルに置いてる灰皿から、長めの吸い殻に火をつけると、それを深く吸い込んだ。面倒に巻き込まれないように、静かに階段を下りた先に、その光景は広がっていた。


 突然感じた鼻を刺す臭いに、幼い頃の記憶が蘇る。いつものリビングは赤く染まり、あの時の鉄の臭いがする。なぜか分からないが、同時にジェラートの甘ったるい香りも思い出した。鼓動が早まるが、それよりも現状を理解しようと脳を働かせた。


 倒れた父親は、瞬き一つしない濁った眼でこちらを見つめ、その上に馬乗りになる兄は、真っ赤に染まった包丁を何度も何度も突き刺している。実際に耳に届くのは、映画やドラマのような音ではなく、するりと肉を裂く包丁が、骨に当たる鈍い音だけ。やけに現実味のある光景は、まるで背中に一筋の汗が垂れるような感覚と似ていた。


 妹を送り出した後の母親は、玄関で呆然とした顔をしていた。おそらく藤田と同じ気持ちなのだろう。兄の呼吸が乱れ始めた頃、母親の手が、兄の方へとゆっくり伸びた。力なく伸びた手からは、親として子を止めたい気持ちが、ひしひしと伝わってくる。無表情のまま涙を流す母は、今自分にできる最大のことを模索しているようにも見えた。


「あ...兄貴...もういいよ...」

 藤田は、縮み切った喉から声を出した。


「圭、久しぶりだな」

 こちらを向いた兄の顔は、返り血を浴びている。


「な...なにやってるんだよ...」


「なにって、助けに来てやったんだよ。俺ヤクザになったんだよ。ヤクザってのはさ、義理人情に厚いんだと」

 ニヤリとした笑顔の兄は、包丁を持ったまま立ち上がる。


「誰かがやらなきゃいけなかったんだ。誰かが終わらせなきゃいけないんだ」

 兄の横顔は、どこか遠くを見ていたような気がした。


 その間、藤田と母親は言葉を発することができなかった。


「母さん、ありがとう。母さんだけは、俺たちを守ってくれていたんだよな。子どもの頃は、気付けなかった。こんな家庭に生まれたことを恨んだ。でも俺は生きてる。今日まで生きてる。時間が掛かったけど、生きることが素晴らしいことだって気付けたんだ。そんな素晴らしい人生を、これからの母さんには送ってほしい。誰よりも幸せになってほしい」

 後ろにいる母親の方へは振り向かず、淡々と話しを続けた兄だったが、藤田の方を見た。


「後は頼んだぞ」

 真剣な眼差しでこちらを見る兄は、手に持った包丁で首を掻っ切った。

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