藤田の過去

 藤田は、埼玉にある汚れた川の近くで育った。大きな事件も小さな事件も日常茶飯事、そんな場所で生まれたのだ。生まれたことを後悔したことはなかった。常に一人で生きていたからだ。幼少期に家族とどこかに出かけた記憶はない、家族で食卓を囲んだことも。家族での記憶が唯一あるとすれば、母親と父親が喧嘩をしている光景だった。幼い頃から毎朝のように繰り返される大人の争いに、藤田は子ども心を失ったのだ。


 ”家族とは一体どんなものだろう”と考えていた藤田だが、幼少期には答えが出なかった。母親は朝から泣いていて、父親は怒りに震えながら仕事に向かう。それを真似た兄は父親のようになり、妹はそれを見て泣いていた。間に挟まれた藤田は「自分一人でも、生きていけるようにしなければいけない」と感じたのだ。その日から米の炊き方を覚え、パスタの茹で方も学んだ。これさえ覚えれば、家に居る限り食べ物には困らないと思ったからだった。


「お母さん、俺ボクシングやりたい」

 小学校に入学し三年が経つと、藤田は強さについて考えるようになった。


「ボクシングなんて痛いだけよ。やめなさい」

 テレビに釘付けの母親は、藤田の言葉に興味を一切示してなかった。


「痛くていいんだ。俺強くなりたい」


「なんで強くなる必要があるの」


「自分ひとりでも生きていけるようにしたいんだ」


「子どもが一人でなんて生きていけるわけないでしょ」

 母親は、やっと藤田の方を向いた。


「そんなのやってみないとわからないじゃん」


「確かにそうかもしれないけどね、誰かに頼まないとできないようなら、一人でなにかを成し遂げるなんて無理な事なのよ」


「どういう意味だよそれ」


「だからね、やりたいことをやってる人は、誰かに教えを乞う前に手を動かしてるもんなのよ」

 母親はそう言うと、テレビを消し立ち上がった。


「じゃあ、お母さんパートに行ってくるからね。けいは適当にご飯食べておいて」


 藤田は、母に言われた言葉を子どもなりに解釈した。つまり子どもであろうと、大人であろうと、やれることには変わらないのだと。その日から藤田は、学校帰りにランドセルを背負ったままの姿で、近所のジムを探し始めた。「ボクシングをやりたい」と言っても、どこに行けばボクシングを教えてもらえるのかが分からなかった藤田は、『ジム』と書かれた場所に片っ端から声をかけたのだ。時にはスポーツジム、老人のフィットネスクラブやプール教室なんかにも行ったことがあった。


 だが、いくら探してもボクシングを教えてくれそうなジムはなかったのだ。内心諦めかけていた藤田だが、ジムを探し始めて三日が経った頃、ある公園で運命的な出逢いをした。ブランコに座って空を眺めていると、どこからともなく物音が聞こえてきたのだ。それはまるで、風を切るような鋭い音だった。

 顔を上げると、公園のベンチの前で拳を構える女性の姿があったのだ。足は華麗なステップを踏み、拳で風を切っていた。口から洩れる音もどこか美しく、綺麗に伸びた黒いポニーテールは、しっかりと纏まっていた。汗が滴る白い肌は、どこか艶っぽく、少年である藤田の心を強く惹いたのだ。


「お、お姉さん」

 藤田は思わず声をかけた。


 練習中の彼女は藤田に気付かず、シャドーを続けている。


「あの、お姉さん」

 諦めずに声を掛け続けた。


 すると、集中していた彼女は、藤田の気配にとうとう気付いたのだ。


「どうしたのキミ」

 彼女の声は、夏の縁側で鳴る風鈴のようになんとも美しく、振り向いた時の香りは、甘ったるいジェラートのようだった。


「ボクシングを教えて下さい」

 唐突に言葉をぶつける藤田。


「え、突然どうしたの。お母さんは一緒じゃないの」

 お姉さんは、公園内を見渡した。


「一人です。ボクシングを教えてくれるジムを探していたんです」


「キミがボクシングジムに...なるほど。でもね、私だってジムに通ってるわけじゃないのよ。これは自己流」

 お姉さんは拳を握って見せた。


「ボクシングって、ジムに行かなくてもできるのか...」

 藤田は首を傾げた。


「独学は大変だけどね。まあ私の場合、仕事が忙しくて、ジムに通ってる時間がないのよ。だからこうして自主練してるの」


「そうなんだ」


「教えてもらうのが一番いいんだけどね」


「俺もお姉さんみたいに、一人で生きていけるようになりたい」

 藤田の言葉にお姉さんは目を丸くしたが、落ち着いた表情で話し始めた。


「私も子どもの頃同じように思ってた。子どもの頃は、一人で生きて来たつもりでいたけど、大人になるにつれてそれが違うってことに気付くのよ」


「違うってどういうこと」

 藤田は首を傾げる。


「そうだな...人に生かされてるっていう感覚かな...」

 お姉さんは、言葉を選ぶのに苦戦しているようだ。


「俺はそんなの感じたことないよ」

 俯いた藤田を見たお姉さんは、頭に優しく手を乗せた。


「ランドセルを背負った少年が、なにを言ってるんだい。これからゆっくり感じていけばいいさ」

 納得のいってなさそうな藤田を見て、目線を合わせるために膝を抱え込み、しゃがむ。


「こんなこと伝えるのは早いかもしれないけど、私には子どもがいないからさ、キミには教えてあげる。この世の中は、キミが思っている以上に残酷なの。大切なものから先になくなっていくんだよ」


「大切なものから...」


「そう。だからもし、キミに大切な人や大切な物が見つかったら、命の限り守り通すの。それはつらいことかもしれない、恐ろしいことかもしれない。けど自分の足で前に進むの。自分の拳で守り抜くの」

 お姉さんは藤田の手を強く握り、話を続けた。


「でもね、今を悲観してはいけないよ、未来はきっと輝いてるから。こんなにも素晴らしい人生を生きられて、私は凄く幸せ。さあ、そろそろ暗くなるから帰りな」

 ニコッと笑ったお姉さんは、立ち上がった。


「お姉さんは、明日もここにいるの」

 藤田のお姉さんを見上げる顔は、悲しそうだった。


「なんでそんな顔するのよ。私は毎日同じ時間にいるよ、30分くらいだけどね。寂しくなったらまた会いに来な」


「うん、またね」

 藤田は、夕暮れのチャイムが鳴ると走り出した。


 公園の入口で振り返り、お姉さんに手を振ると家路へと急いだ。ジムの場所を聞きそびれたが、藤田は大切なを見つけた気がしたのだった。

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