健人の気持ち
健人が、藤田の記憶に訴えかけるように話していると、バーで過去の話をした事実を思い出した。誰にも言わず、胸の中に閉まっていた思い出を、あの時健人には話したのだ。
「藤田さん、思い出したか。藤田さんが、どれだけ辛い人生を歩んできたか俺は知ってる。桜庭は、藤田さんの過去を知ろうとすらしなかったんだぞ。その上、親友をハメるような糞野郎だ。こんなやつを許すなよ」
健人は熱くなっていた。それも藤田を守るためだろう。藤田には言わないが、過去の話をしていた時に、嗚咽するほど泣いていた彼の声を、健人は忘れることができなかったのだ。
「健人が俺を庇ってくれるのは、凄く嬉しい。ただ、同じように辛い思いをした桜庭を放ってはおけないんだ」
健人は返事に困り、しばらく沈黙が訪れる。三人の頭の中では、過去の辛い記憶が蘇り、今日までの自分自身の行いを振り返っていた。
「なぁ桜庭、おまえも大切な人を守りたかっただけなんだよな」
「藤田さん...」
健人は、尚も納得がいっていないようだ。
「いいんだ健人。桜庭、俺たちまた一緒にやろうぜ。次こそは間違ったことしないように、しっかり話し合いながらさ。ちゃんと金稼いで、弟のところにでっかい花束でも持っていこうぜ」
藤田は桜庭の肩を優しく擦った。
「そんな過去があったなんて知らなかった。俺はおまえに許されないことをしたんだな...」
桜庭は言う。
「正直、おまえのことを恨んでる。弟の事を話してくれなければ、一生許せなかったと思う。けど、結局俺もおまえも同じなんだよ。過去の事を話せなかったってところがな」
藤田は遠くを見つめる。
長過ぎた時間の不一致は、二人の中でやっと収束しようとしている。
「今まで本当にすまなかった」
桜庭はそう言うと、藤田の目を見た。
藤田が笑顔で振り向き、ポケットから突然『GreenCrack』のジョイントを取り出す。慣れた手つきで口に咥え、火を灯した。
「すげぇ久しぶりだけどさ、とりあえず吸おうぜ」
藤田は深く吸うと、それを桜庭に渡す。
無言のまま受け取る桜庭は、ジョイントの先端から立ち昇る煙を見つめる。
「おまえには敵わないよ」
桜庭は藤田に向けそうゆうと、GreenCrackを口に咥え、藤田よりも深く吸い込む。
しばらく息を止め、肺の毛細血管からGreenCrackを吸収してゆく。脳全体に広がる多幸感、鼻に感じる芳醇な香り。
「このガンジャすげえな」
桜庭も他の人間同様に、健人の作ったGreenCrackに心の底から感動しているようだ。
「すげえだろ。健人の自信作だ」
藤田は自慢げに鼻の下を掻いた。
「凄いな健人」
桜庭が健人の方を向く。
「気安く名前を呼ぶなよ。藤田さん、まだ隠し持ってたのか」
「悪い物は、上手に隠しておくもんだ」
藤田は、健人の説教を聞きながらリラックスしている。
「まったく藤田さんは...」
健人は呆れながら、桜庭の声のする方に向いた。
「そんなことより桜庭、勝手にいい雰囲気になってるけど、おまえを許したわけじゃないからな」
健人が桜庭に抱く不信感は、拭いきれていない。
「すまない。そうだよな」
桜庭はそう言うと、藤田にジョイントを渡す。
「ゆっくり改心していけよ、健人も麻衣も本当に良い奴らだから、いずれ分かってくれるさ」
「麻衣だって、桜庭を許すか分からないだろ。後でしっかり説明してもらうからね」
健人は藤田に向かって言っているようだ。
「ああ」
藤田は、問題が解決した安心感からか、いつもより極上なものに感じるGreenCrackを、深呼吸するかのように吸い込んだ。
「藤田さん、警察が」
突然麻衣がドアを開け入ってきた。
「わかった。桜庭、立てるか。逃げるぞ」
藤田はそういって桜庭の腕を肩に回す。
「すまない。下に降りなくても外に出れる裏口がある。そこに案内する」
桜庭は言う。
藤田と桜庭が協力しあっている様子に疑問を抱きながらも、麻衣は健人を連れ二人の後を追う。VIPルームから出て一番奥の部屋のドアを開けると、さらに奥まった場所に非常口があった。
「藤田、あそこだ」
桜庭は指をさす。
「あそこか、あと少し...」
非常口のドアに手をかけようとした時だった。
「止まれ」
一人の警官の、野太い声が部屋に木霊する。
四人の体は一瞬硬直してしまった。声は背後から聞こえたはずなのに、蛇に睨まれた蛙のようになる。誰もが諦めようとしたその時、「行くぞ」と言う桜庭の声で、四人全員の体が再度動き出し、非常口に飛び込んだ。その間も警官はこちらに走ってくる。警官の手が健人の服を掴もうと手を伸ばし、後指一本分で掴まれそうになったその瞬間。
「桜庭さん、逃げて下さい」
なんと桜庭の部下たち五人ほどが、警官の上に乗しかかり動きを封じたのだ。
「お前たち、なにやってんだ」
桜庭は後ろを振り向きながら手を伸ばす。
「この野郎、どきやがれ」
警官は必死に部下たちを引きはがそうとするが、部下たちの懸命な働きにより警官は、完全に床に伸びてしまった。
「桜庭しっかりしろ。行くぞ」
藤田は、部下を失った桜庭に喝を入れ、三人を連れて裏口から飛び出した。
外階段を下りる四人。辺りは月に照らされ、生暖かい風が強く吹いていた。
「もう少し離れよう」
健人が言う。
「うん」
麻衣は、健人を支えながら必死に足を動かした。
そして四人は、とうとう人気のない公園までたどり着いたのだ。
「ここまで来れば大丈夫だろう」
息を切らした藤田が言う。
「そうだな」
桜庭も息を整えながら答える。
「そういえば、なんで桜庭先輩がいるの」
麻衣が藤田に疑問をぶつけた。
「藤田さん説明しなよ」
健人は言う。
困り顔の藤田は、一呼吸置くとこう答えた。
「こいつの間違ってきた道は、俺が責任を持って正す。人は誰しも間違いを犯すんだ。こいつにも守りたい人がいて、そのために必要なことをしただけなんだよ」
「守りたい人のためなら、誰かが犠牲になってもいいっていうの」
「もちろんそういうわけじゃない。私利私欲のために他人を犠牲にしてはいけない。ただ、どうしようもないときがあるだろう」
「どうしようもないときってなによ。藤田さん、私はあと少しで...」
「本当に申し訳なかった」
話を割るように桜庭の声がした。
皆が桜庭の方を向くと、地面におでこをつけ土下座している姿があった。
「こんなことで許されるなんて思っていないが、今はこれ以上の事ができない。俺はクズで、どうしようもない。償えることがあるのなら、なんだってする」
「頭を上げてよ。あなたに謝られても、あなたにされたことが消えるわけじゃない。格好だけなら誰にでもできるの」
麻衣の桜庭に対する恐怖は、怒りに変わり、目の前で土下座をする桜庭を蔑んでいた。
「麻衣、健人、こいつのやったことをどうか許してほしい」
藤田は深々と頭を下げる。
「藤田さん、俺と麻衣は桜庭を許すことはできないよ。桜庭との関係性は、藤田さんより薄いし、同情の余地がない。許せないならどうするんだって話なんだけどさ、俺はそれでもいいと思うんだ」
健人は落ち着いた声で話した。
「そうか、そうだよな。確かに、おまえたちに強要することではなかったかもしれない。桜庭のやったことは、事実、人を不幸にした。それは俺も目の当たりにしたんだ」
「うん」
健人が相槌を打つ。
「ゆっくりと何事も一歩ずつ。一歩ずつ問題を解決していけばいいんだな」
健人の言葉が腑に落ちた藤田は、少し緊張の糸がほぐれた。
「二人とも、本当にもうしわけなか...」
顔を上げた桜庭だったが、不意に声がしなくなる。
妙な音とともに、桜庭が藤田の横に倒れこんだ。異変に気付いた藤田が桜庭に目をやると、赤黒い血が土を湿らせてゆく。
「あ...暗かったから間違えた」
暗闇から突然現れた男は、思わず声を出す。
桜庭を見ると、背中にテーブルナイフが深く突き刺さっていたのだ。
何者かの出現に驚いたが、藤田がすかさず男の腹を力いっぱい蹴り飛ばした。地面に倒れ込んだ男の顔が街灯に照らされ、顔がハッキリと見える。なんとその男は、鈴木だったのだ。
「おまえ、鈴木か。なんでこんなことを...」
藤田は驚いて目を丸くしている。
「おまえをやれって、桜庭に言われてたんだ。ちっ、暗いから間違えたじゃんかよ、クソ」
地面に倒れ込んだ鈴木は急いで立ち上がると、一目散にその場から立ち去り暗闇の中へと消えていった。
突然の展開に脳の処理が追い付かないでいた藤田だが、横になり口をパクつかせている桜庭をなんとかしようと、焦り始める。麻衣は大きな悲鳴を上げ、耳を塞ぐとその場に座り込んでしまった。
「な、なにかあったのか」
健人は母の時のような、濃厚な鉄の臭いを鼻に感じ、嫌な予感がした。同時に藤田がいるであろう方へと飛び出す。
その勢いもあってか、健人は血に足を滑らせ頬から首元にかけ血を被ってしまった。
「嘘だろ。藤田さん、藤田さん。大丈夫だよね」
地面に這いつくばりながら、健人の恐怖は心の器に収まりきらなくなりそうだったその時。
「健人落ち着け、刺されたのは俺じゃない」
「え、じゃあ誰が...」
「桜庭が、突然鈴木に刺された。傷口を押さえているんだが、血が止まらない」
震えた藤田の声がした。
「桜庭が...とにかく救急車。麻衣、電話」
健人は麻衣にそう伝える。
「わ、分かった」
麻衣はそう言うとスマホを取り出し、電話を掛けた。
「大丈夫だ。今救急車を呼んでるからな」
藤田は、顔が白くなってゆく桜庭に向かって懸命に叫ぶ。
「もう...俺は...だめだと思う。悪かったな藤田、おまえのように生きられたら、どれだけ幸せだったか。俺は、俺はおまえになりたかったのかもしれない。おまえがいてくれたから...」
桜庭は黙り込む。
「なに言ってんだよ、今は話さなくていいから、とにかく安静にしてないと」
「はぁ、はぁ、藤田...おまえは俺の傍にいてくれたのか」
「ああ、いるよずっと」
「そうか、よかった。俺も弟のところに行けるかな。死んだら会えるんだよな。天国ってあるんだよな。死ぬってなんなんだろうな。藤田、俺...怖い...よ...」
桜庭は最後に、恐怖に支配され苦しんだ顔をしていた。
桜庭は昔、何をするにも怯え、常に藤田の一歩後ろに立っていた。自分の事を強く見せようとしていた桜庭だったが、彼の本当の姿を藤田だけが知っていたのだ。小心者で逃げ癖のあった桜庭は、皮肉にも最後の最後に本当の自分に戻ることができたのだった。自分を偽り続けた結果、最悪の最後を迎えるなんて、誰も予想することができなかっただろう。この光景を目の当たりにした藤田の心には、ぽっかりと穴が空くのだった。
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