夜明け
救急車のサイレンが徐々に近付いてくる。
藤田は尚も、桜庭の出血を止めようと背中の下部辺りを手で強く押さえていた。小さなテーブルナイフだが、抜いてしまえばさらに出血が増えるだろう。両手で力を入れ圧迫するが、藤田の手は血に染まってゆくだけだった。
救急隊員が担架を担ぎこちらに走ってくる。藤田は桜庭から離れ立ち上がると、全ての光景がスローモーションに見えた。流れる赤い光が木に反射し不気味な雰囲気に囲まれ、その光景を眺めることしかできなかった。
その場で救急隊員によって応急処置が行われるが、桜庭の反応はない。その姿はまるで、人形に心肺蘇生を施しているかのようだ。桜庭への心肺蘇生が続けられる中、水中にいる感覚に陥った藤田は、その場に座り込んでしまった。
この光景は、幼い頃から何度も見てきた。大切な人が目の前で死んでいく現実。世界は残酷なんだと思い知らされる。何度も経験して慣れたはずだった。これ以上は、なんとも思わないはずだった。だが違う。これは何度経験しても心臓が持たないらしい。幼い頃のお姉さんの記憶、兄の記憶が脳内で混ざり合い、過呼吸になった藤田の視界は真っ暗になった。
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その後の事はよく覚えていないが、桜庭が救急車で搬送された後、藤田と健人、麻衣は警察署で事情聴取を受けていた。
今回起こった事は、無差別殺人事件として扱われた。元々殺人未遂で服役していた鈴木は、前回も同じようにナイフで通行人を襲ったそうだ。人を傷つけることに抵抗のない鈴木は、要注意人物として目をつけられており、今回出所して間もなく事件を起こしてしまった。警察の捜査では、元々藤田を狙った犯行だったようだが、暗闇による視界不良から、間違えて桜庭を刺してしまったそうだ。
警察からすると、鈴木が事件を起こすというのは、予想通りというところだが、事件を未然に防ぐことには失敗。犯人である鈴木には逃げられたが、この後すぐに指名手配犯として報道するようだ。藤田、健人、麻衣に関しては、今回の事件での関係性は低いとみなされ、一度その日は帰宅することになった。
夜が明けた早朝、麻衣をタクシーで送り、アパートに着いた藤田と健人は、鉄骨階段の上に髭さんを見つける。
「あれ、髭さんがおまえの部屋の前にいる」
藤田が健人に言う。
「え、こんな早い時間から。うちの前で、なにかあったのかな」
健人が首を傾げる。
「さっきの事、もう知ってるとか」
「さすがに早いって」
健人はそうゆうと、階段を一段一段上がってゆく。
その姿を発見したのか、髭さん自らが藤田と健人のいる階段の方へと歩いてきた。
「帰ってきた帰ってきた。昨日の夜も来たんだけど、おまえら二人ともいないからよ」
髭さんは眠い目を擦りながら言う。
「そんなに大事なことなの」
健人が聞く。
「大事だ。実は、おまえのお母さんを殺した犯人が見つかった」
髭さんは深刻そうに言う。
「もう見つかったんだ。早かったね」
なぜか健人は、あまり驚いてはいないようだった。
「なんだよ、おまえもうちょい驚けよ」
藤田が言う。
「十分驚いてるさ。ただ感情がぐちゃぐちゃで、なにから反応していいか分からないだけ」
健人は頭を掻く。
「健人、どうする。場所は突き止めたからいつでも会いに行くことは出来るぞ。どうするかはお前次第になってしまうが」
髭さんは言う。
「とにかく今日は休ませて。起きたら髭さんのバーに寄るからさ」
健人はそう言うと、大きな欠伸をしながら部屋へと入って行った。
「なんかあったのか」
不思議そうに髭さんが聞いてきた。
「実は...」
藤田は、今日あった出来事を一通り髭さんに話す。
髭さんは時々、藤田の肩を擦りながら真剣に話を聞いてくれた。
「そ、そんなことがあったのか。俺が鈴木をお前のとこに向かわせたばかりに。本当にすまない。今日はおまえもぐっすりと寝たほうが良い」
髭さんは気を使い背中越しに右手を上げると、鉄骨階段をコツコツと下って行った。
藤田は、部屋に入るとそのまま窓を開け外の空気を感じ、目を瞑る。今日起きたことは、夢だったのではないか、初めから何かが違っていたのではないか。自分を責めるにも感情がついてこない。
藤田は、ベランダに転がるジョイントを偶然見つけ、それを拾い上げた。ベランダには、ローテーブルとソファが二つ置かれている。たまにここでも吸うことがあったのだ。ジョイントを見つめながら、最後の桜庭の顔を思い出す。弔いのつもりで灯した火は、ゆっくりとGreenCrackを香りだたせる。口元に持ってゆき、一吸い、また一吸いと吹かす。
"
(桜庭のピンチに気付いてあげられなかった。あいつは俺の知らないところで戦っていたのか。なんで言ってくれなかった。俺は自分だけが楽しかったんだ)
(天狗になっていた。後悔ばかりだ。最後、俺が刺されていれば、異変に気付いていれば。いや、俺はなにも分かっていなかっただけだ...頭が重い)
"
ベランダから揺れる雑草を見ていた藤田だが、突然体が重くなってきた。ソファに座り込み、強烈な吐き気、体の硬直を感じ、思ったように考えられない。考えようとすると、同時に別の事を考えてしまい、思考が停止。ジョイントを持つ手に自然と力が入り、人差し指と中指でそれを潰してしまった。
火種が床に落ちるが、どうすることもできない。落ちた火種を見ている目は、動かすことが出来ず、徐々に吐き気が強まり、呼吸が荒くなった藤田は、落ち着いて深呼吸を始める。
この時自分が『バッド(大麻の副反応で気分が悪くなること)』に入ったのだとゆうことに気付く。水を飲み落ち着かなければと立ち上がると、その反動で嘔吐してしまった。こんな状態になったのは久しぶりだ、桜庭の死、それは藤田にとって相当応えたのだろう。
重い頭を支えながら、一歩ずつ台所の方へと歩き、蛇口を捻ると、浴びるように水を飲んだ。頭の中では、何度も何度も桜庭の最後の光景が繰り返され、藤田の頭は混乱し、パニックに陥っていた。限界を感じた藤田は、その場で寝転がり目を瞑ると、気絶するように意識が途切れるのだった。
台所で寝ていた藤田は、しばらくして目を覚ました。
「もう昼過ぎか...」
藤田は固い床で寝た結果、痛めた腕を擦りながら起き上がると、洗面所に向かい顔を冷水で流す。歯ブラシに歯磨き粉をつけ、入念にゴシゴシと磨く。
鏡の中の自分を見ていると、公園での光景がフラッシュバックされる。桜庭はもういない。しっかりと逝けるのだろうか。藤田は起きた後も、桜庭のそんなことばかりを心配していた。
コンコンコンッ
誰かがドアを叩いている。
「藤田さん」
健人だ。
「おう、ちょっと待ってろ」
藤田は大きな声で返事をし、吐しゃ物を急いで片付け玄関のドアを開ける。
「お邪魔します。あれ、藤田さん今起きたばかりじゃん」
「そうなんだよ、まだ寝たりないよ。どうした」
藤田は首を押さえながら聞く。
「実は昨日の髭さんの話、前にボスに聞いていたんだ。その時は確実に分かっていた訳じゃなかったんだけど、今回の髭さんの話で確実になった」
健人も昨日からの疲れが抜けていないようだ。
「まあ入れよ。それで復讐するか、許すかで悩んでるのか」
藤田はズバリ言う。
「簡単に言うとそういうこと。実は俺の母さんを殺した犯人は、盲学校の教師をしているんだって。その界隈じゃ有名らしく、嫌われるような先生でもないらしい。あの日は、生徒の卒業式の日で、嬉しくて飲み過ぎてしまったんだって」
健人は、なにかを考えているようだ。
「でも、おまえのお母さんを階段から落としておいて、走って逃げたのは事実だぞ」
「まぁそうなんだけどさ。もちろん初めボスから聞いたときは怒りで震えたよ。やっと見つけたってね。でもそれも、昨日の出来事を経験するまでなんだけど」
健人は、昨日の出来事を思い出すように顎に手をあてた。
「昨日のことが、考えるきっかけになったってことか」
藤田は考え込み、続けて言う。
「俺は実際、なにができたのか。何年も前からずっと桜庭を追ってきたが、結果がこんな形に終わって。なんだか心の一部に穴が空いたようだよ。恨みや復讐とゆう気持ちがいかに空虚で、不必要なものかとゆうことを思い知らされた」
「復讐はなにも生まないってことを、藤田さんと桜庭は教えてくれたよ。母さんを殺した犯人も、昼の顔は盲学校の先生なんだもんな。俺が復讐を果たしたとして、先生を失った子どもたちはどうするのだろう。俺はいったいどうしたらいいのか、分からないよ」
健人は眉間をつまむ。
少しの沈黙の後、藤田が口を開く。
「許す心が少しでもあるのなら、考える余地はありそうだな」
藤田は遠くを見つめる。
「藤田さん、俺GrennCrackを持ってきたんだ。今はこいつの力を借りてみようと思って」
健人は、ポケットからGreenCrackのジョイントを取り出すと藤田に渡す。
「健人も隠し持ってたのか。こっちにこいよ」
藤田はそうゆうと健人の手を引き、ベランダへとやってきた。
「ソファだ。テーブルもある。なにこの空間」
健人はソファに触り、腰かけながらそう呟いた。
「簡易的な場所だけどさ、こうゆうところでガンジャを吸うのも大切なことなんだぜ」
藤田は鼻の下を人差し指の背で擦る。
「ガンジャって、マリファナの隠語だよね」
健人が聞く。
「そうだな、ガンジャってのは、マリファナと同じ意味だ。まぁ厳密に言うと、ガンジャは『銃でもあり、神でもある』みたいな語源があるらしいんだけど、難しいことは考えなくても良いよ」
藤田はそう言ってガンジャを口に咥える。
そして健人も、ガンジャを口に咥えるとほぼ同時に火をつけた。
二人はソファにもたれ、肺の奥深くまでゆっくりとGreenCrackを入れ、十秒ほど溜め込むと、さらにゆっくり煙を吐いてゆく。全面が緑で沢山の雑草たちが風に揺られ踊っている。当時予定されていた工場開発は、突然の中止。柵の外に見える景色は元通りになっていたのだ。
「藤田さん、俺こうやってベランダでくつろいだことがなかったから、気付かなかったんだけどさ、ここってすごく良い音がするね」
健人は耳を澄ました。
「そうか、健人は音から入るんだもんな。どんな風に聴こえるんだ」
「さらさらとしていて、草同士が優しくぶつかり合ってる感じ。音の加減で今日はどのくらいの風が吹いているのかとかが分かるんだ、心地良いよ。藤田さんは、どう感じるのか教えてよ」
「俺か。俺の場合は、草が揺れている様子を見て風を感じているな。それ以外って言ったら表現するのは、ちょっと難しいな」
「情報がありすぎると大変そうだね。俺らみたいな人はさ、周りの勝手な想像で、不幸だとか、不便だとか、可哀想だとか言われたりするけどさ、他にないものを感じることが出来るし、特別だと思っているんだよね」
健人は鼻から息を吸い、心地よさそうな顔をしながら続けた。
「例えば、今柵の外で揺れている雑草。これは雑草なんかじゃなくて全部大麻かもしれないだろ」
「あ...」
藤田はゆっくりと目を閉じた。
耳に神経を集中させ、深呼吸する。葉の揺れる音を、葉のぶつかる音を一つ一つじっくりと聴いていると、鼻にはGreenCrackの香りがし、頭の中で『大麻畑』をイメージさせた。見えているものだけが全てじゃない。たまには目を瞑って、深く考え整理することが大切なのだ。
「健人、俺もなにか分かった気がするよ」
今朝の思考停止状態から、問題解決の術を探していた藤田は言う。
「こっちの世界も悪くないだろ」
健人は笑顔でそう言った。
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