許す心

「いらっしゃい。よく来たな」

 珍しく営業中の「Bar Spray」では、髭さんがカウンターの中で、せわしなくシェイカーを振っていた。


 意外にも、夜は客が多いようだ。


「遅くなってごめん」

 健人は謝り、入口のドアを閉める。


「正面の席、空いてるぞ」

 髭さんが健人に言う。


「ありがとう」

 健人は両手を前にし、慎重にカウンター前のハイチェアに腰かけた。


「この酒だけ出しちゃうな」

 髭さんはそうゆうと、振り切ったシェイカーの蓋を開け、カクテルグラスへと注いだ。


 健人はその様子をじっと感じている。


「お待たせしました。『ギムレット』です」


 髭さんはカクテルを出し終えると、健人の方へ振り向く。


「『ギムレットには早すぎる』でしょ」

 健人がぼそりと言う。


「よく知ってるな。レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』お母さんから教わったのか」

 髭さんは顎ヒゲを触る。


「そう。よくお母さんが話してくれた。カクテルにも意味があるのって素敵だよね」


「やっぱりな、健人もなにか飲むか。奢ってやる」


「それなら、髭さんのおすすめのカクテルを作ってほしいな」


「俺のおすすめか...」

 髭さんは少し考えてから、手を動かし始める。


 薄い鉄がテーブルに置かれる、シェイカーだろう。カラカラと氷がシェイカーに入れられる。シュルシュルとボトルの蓋が開く音がすると、芳醇なテキーラの香りが広がった。そして次に、柑橘系の香り、ライムの香り。


 髭さんは、ストレーナーと呼ばれるシェイカーの中間の蓋を締め、次にトップの蓋を締めると、コンコンと優しくカウンターに打ち付け振り始めた。

 シェイカーの中では、酒と氷が混ざり合い、キツいアルコールの度数を柔らかくしてくれる。健人の耳には、氷が溶ける音、シェイカーの内側に液体が打ち付けられる音が届く。音が変わると同時に髭さんの手は止まり、カクテルグラスに注いでゆく。


「マルガリータだ」

 髭さんはそうゆうと、健人の手にカクテルグラスを持たせる。


「ありがとう。いただきます」

 健人はグラスを持ち上げた。


 縁に口を付けると塩味えんみを感じる。塩の味とテキーラの芳醇な香り、柑橘系のさっぱりとした味が見事に混ざり、舌にまとわりつく。


「これ岩塩だよね。美味しい」


「ああ、それは『スノースタイル』って言うんだ。カクテルグラスの縁にライムを滑らせ、こだわりのピンク岩塩をコーティングしてあるんだよ」


「髭さん、お酒作るのうまいんだね」


「下手だと思ってたのかよ」


「こんなにボロいところだからね、それは仕方ないよ」

 健人はザラついたカウンターを撫で、椅子に空いた穴を指でほじくる。


「確かにボロいよな。ところで健人、お母さんの件決まったのか」


 健人は少しの間を置いたが、答えは決まっていた。


「髭さん、俺許すことにするよ」

 マルガリータの香りを嗅ぎながら健人は言う。


「やっぱりな。おまえならそう言うと思っていたよ」

 髭さんは腕を組み、頭を上下させる。


「藤田さんと一緒にいるうちに、俺の中のなにかが変わったのかもしれない。もちろん初めは殺してやりたいと思っていたよ。でも藤田さんが外に連れ出してくれたおかげで、許す心が芽生えた」

 健人はマルガリータを飲む。


「安心したよ。健人は優しい子だとお母さんから聞いていたけど、その通りだった」

 安堵の溜息を吐く髭さんは、カウンターに両手を付いた。


「髭さん、俺世界を旅してみようと思って」

 健人は突然言う。


「世界って、藤田と一緒にか」


「いや、一人で」


「一人でか。どこに行くかは決まっているのか」


「カナダに行ってみようかと」


「カナダか、良いところを選んだな。藤田にも言ってあるんだろう」


「詳しくは話していないけど、藤田さんもやりたいことがあるみたいだし、ここでお別れかもしれない」

 健人は寂しそうだ。


「そうか、まあでも一度離れても必ずどこかで再会出来るさ。それが日本かもしれないし、海外のどこかかもしれない。また再会できた日には、お互いの話をじっくりとしてみろよ」


「そうだね、藤田さんにも伝えに行くよ」

 健人がカクテルを飲み終え、立ち上がろうとした時。



「だとよ、藤田。おまえはどう思う」

 髭さんは笑みを含めた声で言う。



「健人がそう決めたのならもちろん応援するよ」

 すぐ隣の席から、藤田の声がする。


「なんだよ、藤田さんそこにいたのかよ」

 健人は驚き顔を左に向けた。


「ずっといたよ、おまえ全然気付かないのな」

 藤田はギムレットを傾ける。


「仕方ないだろ、見えないんだからさ」

 健人は笑う。


「それで、いつ頃行くんだ」

 藤田は健人に聞いた。


「一ヶ月後には行こうと思ってる」


「そうか、それなら最後派手に稼ぐか。髭さん、お願いがあるんだけど」

 藤田は申し訳無さそうに髭さんに言う。


「なんだ」


「今月の家賃、タダにしてください」

 髭さんに向かって手を合わせる。


「なんだそんなことか。藤田のとこも、健人のとこも、今月は俺が持ってやる。俺から健人への旅立ち祝いだ」

 髭さんは腕を組む。


「髭さん、ありがとう」

 健人はカウンターに前のめりになり大喜びした。


「よかったな、健人。俺の家賃分も旅費にあてろよな」

 藤田は健人の肩を掴む。


「落ち着いたら帰ってこい、いつでも待ってるからな」

 髭さんはそう言うと他のお客に呼ばれ、二人の前からいなくなった。

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