健人の過去

 健人が生まれ育ったのは、都内のマンションだった。母が言うには、昔は車のディーラーをしていた父と三人で暮らしていたらしい。不景気で父の会社が倒産してからも、三人で支え合いながらなんとか生活をしていたそうだ。


 父はコンビニなどのアルバイトなどを掛け持ち、就職活動をしていた。ディーラーをしていた頃程の給料ではもちろんなかったが、それでも幸せだった。そんなある日、父が嬉しそうな顔をしてうちに帰ってきた。


「おまえたち、これからは旅行にも沢山行けるようになるかもしれない」

 まだ赤子だった健人を抱きかかえると、父は言う。


「なにかあったの」

 母はエプロンを着け、カレーを作りながら言った。


「今日偶然知り合った人が車屋を経営しているみたいで、その会社で働かせてもらえる事になったんだ」

 父は喜び、健人の頬にキスをした。


「おめでとう、よかったじゃない。それなら今日はカレーにチーズ入れちゃおうか」

 母も父と同様喜んでいた。


 翌日になり、スーツを着て出勤した父。安堵した表情で見送る母の顔を健人は明確に覚えていた。一度過ぎ去った安定が戻ってくる感覚に未来への希望を見出したのだ。


 その日の母は、鼻歌をよく歌った。家事もはかどり機嫌が良いのが見なくても分かったのだ。太陽がてっぺんまで登ると、母と健人は買い出しに出た。家から近いスーパーで昼食と晩御飯の材料を揃え、帰り道を歩いていると物凄い勢いの車が母と健人に近付いてきた。母は咄嗟に車道に背を向け健人を庇うが、二人は跳ね飛ばされてしまったのだ。


 母が目を覚ましたのは日が暮れた頃。意識が朦朧とする中で、必死に健人を探していた。抱きかかえていたはずの健人が近くにいない事に気付いた母は、勢いよくベッドから起き上がる。


「健人は」

 母が叫んだそこに、連絡を受けた父がいた。


 病院に到着した父のスーツは泥だらけになっている。父の顔は暗く、今にも顔面の皮膚が床に落ちてしまいそうだった。


「なんでこんなことに...」

 力のないかすれ声を発する父は、絶望しているようだ。


「健人は、健人は無事なの」

 母は父の肩を掴む。


「健人は...健人は...」

 父が今にも崩れそうに肩を揺らす。


 明らかになにかあったであろう雰囲気に呑まれてしまった母も、言葉を無くしてしまう。すると医者が病室に来た。


「目覚めましたか。お母さんの方は軽い打撲のみでした。一日安静にして頂ければ、明日にも退院できると思います。息子さんですが...」

 医者が言葉を詰まらせる。


「息子がどうかしたんですか」

 母は前のめりになり、今にも医者に掴みかかろうとする勢いだ。


「息子さんは事故の衝撃で吹き飛ばされてしまったようで、顔に重い怪我を負いました。全力を尽くしますが、後遺症が残る可能性が高いことは理解しておいて下さい」


「後遺症ってなんですか。どんな後遺症が残るんですか」


「それはまだ確定していません。現在は集中治療室で手術を行っていますので、お母さんは安静にしてお待ちください」

 医者はそう言うと、病室を後にしようとする。


「安静になんてできるわけないでしょう。自分の息子が生きようと頑張っているのに、母親の私がなにもしないでいられるわけないじゃない」

 母は掛布団を剥がし起き上がろうと足をベッドの下に降ろす。


「落ち着いて下さい、今は安静にしていないと」

 医者は振り向くと、起き上がろうとする母を必死に止めた。


「どいて、健人が...健人が...」

 泣きじゃくる母を父と医者でベッドに戻すが、尚も母は抵抗を続ける。


「落ち着いて下さい。今のあなたにできることは自分の体調を万全な状態に戻す事なんです。母親が子を想う気持ちは痛いほど分かります。ですが共倒れしてしまっては、元も子もないでしょう」

 医者が強い口調で母をなだめたが、母の抵抗は強くなるばかり。


 仕方なく看護師を呼び、点滴でなんとか眠りにつかせた。病室には息の切れる音が響き、圧迫されていた空気が解放される。

 

「お父さん、ご協力ありがとうございます。今は私達を信じて待っていて下さい」

 最後に父に言葉を掛けた医者は、病室を後にした。


 看護師から今後の説明を受けた後、病室が静かになる。悲壮感にさいなまれた父は、母の瞼から流れる涙を一人見つめていた。


 健人の手術は幼い子どもだったということもあり、三時間にも及んだ。命に別状はなかったが、その代わりに健人の世界からは光が奪われ、闇に包まれてしまったのだ。

 入院期間は三週間。回復までの期間と、合併症の有無を確認したため。退院が確定する前に、新たな生活に適応するためのリハビリや、退院後の支援のために、父は病院側と話をしていた。


 健人と母が退院し、無事に家に家族が集まったが、元通りの生活には戻れない。失ったものがあまりにも大きかったからだ。健人と母を轢き、逃げた犯人の消息は不明。轢き逃げをした車が「黒いセダン」ということだけは後から分かった。すぐに解決すると思われた事件だったが、なぜか犯人の手掛かりになる物は一切見つからなかったという。警察の捜査は続くそうだが、家族三人での生活は不器用に安定し始めるのだった。


 健人が入院中の三週間、生活のため無心で働いていた父だったが、新しい会社での給料は低かった。入社する前に交渉した金額とはまるで違っていたため、意を決して社長に交渉しに行った。


「社長、少しお話が」


「どうした」

 社長は忙しそうにキーボードを叩いている。


「給与の件なのですが」

 父の一言に社長の手が止まった。


「それがどうした」


 二人だけの社長室に沈黙が流れる。


「入社当時に話していた金額と合わなくて...今後昇給していくのでしょうか」


「社長に対して交渉とは、いい御身分だな」

 社長は腕を組みソファに寄りかかる。


「いえ、そんなつもりは。ただ...」


「ただ、なんだ」

 社長は威圧的だ。


「ただ、息子が事故の後遺症で苦しんでいる今、父親としてなにかできることがないかと思いまして」

 父はひるまなかった。


「父親としてできることか。それが俺への交渉か」

 社長はため息を吐くと、話を続けた。


「俺が今までどれだけの交渉をしてきたと思う。おまえに声をかけたのも交渉の一つだな。お前意外にも大手の会社の社長や、石油王と呼ばれる奴にさえ交渉してきた。そいつらと比べるのは可哀想だが、おまえの交渉はノミ以下だ。話を聞かずとも分かる」

 初めて飲み屋で会った時とは、別人のようだった。


「いったいなにが言いたいのですか」

 父は聞く。


「いいか山崎。父親としての責任を果たしたいならな、まずは死ぬ気で働け。寝ずに働け。やれることを探して、しらみつぶしにこなしていくんだよ。給与が低いだの文句を言う前にやれることがあるだろう。おまえの糞虫以下の交渉に使う時間なんて俺にはない。もちろんお前にもないはずだ」


 父は生唾を飲む。社長の言葉に圧倒されているのだ。


「事故の後遺症が問題か、後遺症があると可哀想なのか。後遺症があったら普通に暮らしちゃいけないのか。そんなの誰が決めたんだ。お前が弱気になってどうするんだ。父親として、子どもの手を命がけで引くんだろうが」


 父は言葉が出なくなっていた。


「自分の評価は自分で決めるんじゃない、他人様に決めてもらうものだ。今が糞みたいな状況なら、とにかく働け。金を稼げ。金がないなら時間を使え」

 真っ直ぐに父の目を見つめ放たれる社長のげきに、空間は震えていた。


「私が間違っていました。自分だけがつらいとおもっていたんです。本当につらいのは健人なのに、自分だけが楽をしようと、逃げてしまおうと思っていました」

 社長からの檄に涙を流す父。


 精神的にも肉体的にも限界を迎えていた父に、飛躍を授けてくれたのだ。社長室を後にしようとすると、背後から突然声がかかった。


「おい、山崎。少ないけど持ってけよ」

 引き出しを開けた音と一緒に札束が飛んできた。


「え...いいんですか」

 父の手に納まったのは札束。


 軽く数えても500はある。


「持ってけよ、だが必ず返せよな」

 社長はそう言った。


 掴みどころのない社長に困惑した父だったが、先ほどの社長からの言葉に肝が据わったのか、さっそく行動に移そうと決心する。


「ありがとうございます、ありがとうございます」

 父は何度も頭を下げた。


「いいからもう帰れよ」

 社長は冷たくあしらうと、再度パソコンに向かう。


「社長、最後に聞いても良いですか」


「なんだよ」

 社長は苛立ちを隠せていなかった。


「最近黒いセダンを見ませんでしたか」

 社長の手が一瞬止まる。


「し、知らねぇよ。ほら仕事に戻れ」


「そうでしたか。ありがとうございます」

 そう言うと、今度こそ社長室を後にした。


 焦燥しきっていた父だったが、改まった社長の態度を見てヤル気を出し始めた。それもそのはず...家に到着するなり、父は母に話しかけた。


「君と健人を轢き逃げした犯人が分かりそうなんだ」

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