渡辺ジョー

 田中との取引を済ませた藤田は、再び電車に揺られていた。


 次の客は、当時30代だった山田という独り身の女性だ。彼女は以前から薬物依存に苦しんでいて、唯一藤田と桜庭から買う大麻が、心の拠り所だと言っていた。


 駅を出た藤田は、田中の時と同じようにアパートの部屋の前に到着するが、目の前の光景に驚いてしまう。山田の部屋の玄関前にはゴミ袋が散乱し、鼻を刺すツンとした腐敗臭がする。ドアの郵便受けはパンパンで、この場所に人が住んでいるとは到底思えなかった。

 インターホンを押すとチャイムの音が響くが、人が出てくる気配はない。諦めて帰ろうと山田の部屋に背を向けた時、背後で薄っすらとドアが開くような気配がした。藤田はゆっくりと後ろを振り返ると、ドアの隙間から濁った瞳が、こちらを見ていることに気付く。


 その目に生気はなく、視点も合っていない。藤田は全身の毛が逆立つのを感じた。


「山田さんですか」

 藤田は恐る恐る声をかけるが、声を発した瞬間、山田と思われるその女性は勢いよくドアを閉めた。


「...桜庭はなんてことをしてしまったんだ」

 その光景を見た藤田は、桜庭への怒りがこみ上げ拳を強く握りしめる。


 ここまでになってしまった人はもう手遅れだ。俺らにはどうすることもできない。名簿が紙屑になったというのは、まさか本当にこういう事だったなんて。


「もしかしたら桜庭は変わったのではなく、元から俺が思っていたような人ではなかったのかもしれない」

 藤田は自分の過去を振り返る。


 中学から仲が良くほとんどを桜庭と過ごしていた。ただ、今思い返すと毎日会っていたわけではないし、会わない日に桜庭が誰と、どんなことをしていたかなんて、もちろん知らない。俺にも桜庭以外の友達がいたように、桜庭にも俺以外の友達がいるのは当然の事だ。

 

 今の桜庭が正気でないと思いたい。学生の頃のあの笑顔が、どうしても脳の片隅にちらつくからだ。桜庭は目の前にいるお年寄りを助けたこともあったし、公園ではサッカーをしていた小学生に交じり走り回っていたこともある。中学では友達も多く、後輩にも慕われ先輩にも可愛がられるような奴だった。


「なにがあいつを変えたんだ」

 藤田は考え込みながらも次の顧客の元へと向かう。


 次の顧客は、隣駅から10分ほど歩いたところに住んでいる。昔は若かったからか、ほぼ毎日のように長距離を歩いていても、疲労はさほど感じなかった。が、今現在、藤田の足は棒のようにガチガチだ。固まりかける足を叩きながら、藤田は歩みを進めると、高層マンションが見えてきた。


 タワーマンションという程でもないが、この周辺ではなかなか階数が多いほうだろう。その高層マンションの最上階に彼はいた。彼とは、テレビドラマにも主演として出演している『渡辺ジョー』だ。刑務所に入る前、偶然クラブで出会ったジョーに、桜庭が大麻を売りつけたことがきっかけで藤田らの顧客になった。


 マンションの前に着くと、エントランスにいる管理人にジョーへの偽の要件を伝える。


「犬の散歩に行かせてくれ」

 変な言葉だが、ジョーが藤田と桜庭のみに使わせた秘密の合言葉だ。


「少々お待ちください」

 管理人はそうゆうとカウンターにある受話器に耳を当て、ボタンを押す。


 呼び出し音がエントランスに鳴り響くと、管理人は話し始めた。


「犬の散歩のかたが...はい。ではお通しします」

 管理人がカウンターにあるボタンを押すと、エレベーターへと続くガラス張りの自動ドアが開く。


 藤田は管理人に会釈し、エレベーターに乗り込む。最上階のボタンを押すと、エレベーターは勢いよく上昇した。


 古いトースターと同じ音が響くと、エレベーターの扉が開く。目の前には豪華な玄関があり、インターホンを押そうとした時だった。


 大きな音を立てドアが開く。


「君は藤田君だね、久しぶり」

 中からは当然ながら、あの『渡辺ジョー』が出てきた。


 当時より少し痩せこけているような感じがする。


「お久しぶりです。ジョーさん」


「とりあえず入ってよ」

 ジョーはそうゆうと、藤田を家に招き入れた。


「お邪魔します」

 この家に入ると、毎度の事だが緊張する。


 なぜなら家中に高級な壺や絵画が飾られていたりするからだ。割ってしまったらどうすることもできない。


 辺りを警戒しながら歩く藤田に、さっそくジョーが質問をしてきた。


届けに来てくれたのか。早いね」

 ジョーは腕を掻きながら言った。


ってなんのことですか」


「とぼけないでよ。三日前に注文したじゃん。ハーブだよハーブ」

 ジョーは煙草を吸う素振りをした。


「ああ、ハーブですよね。あいにく今は別のとこで売ってまして、脱法ハーブではなくて、今日は大麻の直販売で提案をしにきたんです」

 藤田はさっそく、リュックからGreen Crackを取り出す。


「そうだったのか。なんだ、楽しみだったのに。でも、もう大麻は買わないと思うよ。普通の大麻はドラッグじゃないでしょ。最近の大麻は安全過ぎて俺は全然ハイにならないの」

 ジョーはそう言いながらも、藤田の手元の大麻を受け取る。


「脱法ハーブは桜庭から買ったんですよね」

 大麻を眺めるジョーの顔を、覗き込むように聞いた。


「初めは桜庭くんだったけど、今は誰か分からないな。郵送で送ってもらっているからね」

 ジョーは落ち着きがなく、家中をうろうろとしながら話している。


「そうですよね、確かに。そっか、それなら久しぶりに直接売買しているってことですか」


「だから突然来たことに驚いたよ。余程良い物を持ってきたんだろうなって。この大麻はなにか特別なのかな」

 そう言うジョーの内側から、ほんの少しだけだが苛立ちを感じた。


「極上です」

 ジョーの苛立ちに屈せず自信満々に言い放つ藤田には、そう言えるだけの自信がある。


 なにも躊躇なく答えた藤田にジョーは驚いたが、サンプルとして試させてもらうと言い、奥の部屋に入ってしまった。藤田は突然一人になり唖然としていたが、ジョーのいない間に部屋を見させてもらおうと歩きはじめる。


「久しぶりに来てもやっぱり広いなあ。当時からあまり配置は変わってないような気がする」

 藤田は、桜庭と初めてこの部屋に来た時の事を思い出していた。


 あの時は桜庭との溝もなく、まだお互いに子どもで、お金持ちになったら二人ともジョーの住むマンションのような家に住もうと誓っていた。夕焼けに染まる部屋を眺め、純粋に二人で楽しんでいた時のことを懐かしむ。ノスタルジックな気分になりながら、しばらくリビングをうろちょろしていると、奥のドアが開く。


「藤田君、これはすごいね。なんか混ぜたのかい」

 目を真っ赤にさせるジョーは驚きを隠せなかった。


「混ぜるなんてそんなことは絶対にしません。うちは作り手の人間が特別なんです、どうですか。1グラム五千円です」

 藤田は鼻を高くして言う。


「買わせてもらうよ。1グラムしかないのかな」

 ジョーは必死だ、なにかから逃げ出すチャンスを掴んだように、もがいているようにも見える。


「今日は後2グラムだったらあります」


「それも売ってくれるかい」


「もちろんです」

 藤田は部屋の窓から差す夕焼けを見ると、今日は引き上げ時だと考え、ジョーに残りの大麻を売ることにした。


「次買うときは藤田君に電話したらいいのかな」


「はい、電話を下さい。ですが次からはSNSでの販売になると思います。うちも郵送での扱いにしようと考えていまして、今日中には専用のページが完成します」

 藤田はそう言うと電話番号をジョーに教える。


 確実な手応えを感じた藤田は、ジョーのマンションのエレベーターに乗ると小さくガッツポーズをするのだった。

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