クロノスタシス
指先に音の振動を感じる。
心臓が飛び出してしまいそうな空気の揺れ、鼻の奥を刺す甘ったるい香水の匂い。時折頬に当たる、長い髪の感触。耳から伝わるはずの音は、不思議と耳の穴を通り道にはせず、直接脳へと音を運んでいるようだ。健人は踊り狂う人の中に、別の世界を築いていた。
「おまたせ」
お酒の入ったグラスを持つ藤田が、健人の元へ戻ってきた。
「藤田さん。ここ最高だね」
健人は笑顔で藤田からグラスを受け取る。
「だろ。ちょっと来いよ」
藤田はそう言うと、健人の手を引き屋外へと連れてきた。
生暖かい潮風が吹く喫煙所には人影一つない。藤田は、内ポケットから綺麗に巻かれたジョイントを取り出し、ライターに火を灯す。口に咥えたジョイントにその火を近づけると、たちまち芳醇な香りが辺り一帯を包み込んだ。
「藤田さん、いつのまに」
健人は呆れたようだったが、鼻に優しく触れるその香りに、まったりとしてしまった。
藤田はゆっくり、ゆっくりと煙を肺に溜めると息を止める。目を瞑り、全身で『GreenCrack』を感じた。藤田はその状態のまま、健人にジョイントを渡す。ジョイントを受け取った健人は、藤田と同じように煙を肺に溜め息を止める。
「明日から本格的に顧客を探していくに当たって、こいつの良さや重要性をより強く語れないといけない」
藤田は真面目な顔をした。
「他との差をつけるってことだよね」
健人は言う。
「そういうことだ。どうやって差をつけるかというところだが...」
藤田は腕を組み考え込む。
「使用用途を明確にするのはどうかな」
健人がひらめいたように手をたたく。
「使用用途か、例えばどんな感じだ」
「薬局で買う薬と一緒だよ。頭が痛いから頭痛薬を買う、遠出のために酔い止めを買うでしょ」
「そういうことか、確かに」
「俺たちの顧客には、事前に悩みを聞いて、それに沿った使い方や分量をレクチャーしてあげるんだよ。安心を一緒に販売するようなイメージかな」
「そういうことなら売出しの文句としては、『頭痛に効く』『鬱症状が改善します』とかになるのか」
「そういうことだね。でももちろん『音楽がより良く聴こえる』『感性が高まる』とか、そういった現状からのプラス要素も伝えてあげるといいかも」
「試してみよう」
二人は会話を終えると、クラブの中へと戻った。屋内は相変わらず賑わっていて、天井から降り注ぐレーザーが客達の体を何度も切りつけている。ハイテーブルについた二人は、さっそく品定めを開始する。
「どんな感じの奴にするか」
藤田が健人に聞く。
「とりあえず若い二人組と、病んでそうな人」
健人はグラスに入ったビールを飲み干した。
「分かった」
藤田はそうゆうと、健人をハイテーブルに残し、ホールへと向かう。
健人の言う若い二人組はすぐに見つかった。男二人組、ちゃらちゃらした服装だ。
「君たち」
藤田は馴れ馴れしく声をかける。
「なんだよ、おっさん」
片方の短髪の少年が藤田を威嚇した。
「そんなに俺は老けて見えるのか、まあいいや。良い話があるんだ」
藤田は切り出した。
少年二人は不審な顔をしていたが、なにやらこそこそと話し始めた。
「とりあえず聞いてみようぜ」
短髪の隣にいる髪を茶色に染めた少年が言う。
「音楽をより楽しむためのものなんだけど...」
藤田が話そうとしていると、短髪の少年が話を遮る。
「おっさん売人かよ。タマ持ってるか」
『タマ』とは『MDMA』の隠語であり、覚醒作用のある薬物だ。藤田は、大麻以外の幻覚成分とは相性が悪いため、見当違いだったとハイテーブルに戻ろうとする。
「おじさん待ってよ、じゃあなにを持ってるの」
茶髪の少年が藤田を引き止める。
「大麻」
藤田は答えると、少年二人は顔を見合わせた。
「まあ、大麻でもいいや。買うよ」
少しの話し合いの末、短髪の少年が言う。
「分かった。少し待ってろ」
藤田はそうゆうと歩きだした。
若者二人は、キョトンとしている。
「待たせたな」
戻ってきた藤田は、両手にショットグラスを持っていた。
「おっさん、大麻はどこだよ」
短髪の少年は相変わらず食って掛かってくる。
「悪い、今日は忘れてきてしまったみたいだ。変わりにこれでいいか」
藤田はショットグラスを差し出す。
「行くぞ」
今にも飛びかかってきそうな短髪の少年の腕を、茶髪の少年が掴み、二人は藤田の前から立ち去った。
藤田は二人の後ろ姿を見送ると、健人の元へと戻る。
「健人の言うとおりだった。あっちから食い付いてきたよ」
藤田はショットグラスをテーブルに置いた。
「でしょ。どうしようか、今からここで売ってみようか」
健人は得意げだ。
「いや、今日持ってきた大麻は、さっき吸った分で全部だ」
藤田はショットグラスを健人に差し出した。
「そうだったの」
「大麻は所持していると犯罪だからな。不思議な事に使用は犯罪じゃないんだぜ」
「なにそれ。じゃあ警察が来た時に床に捨てたらどうなるのかな」
「所持じゃないから大丈夫だろ。まあでも、持ってるとこを一度でも見られたら詰められるだろうな」
「結局捕まりそう。これもある意味、日本の闇じゃん...」
「だよな。このヘンテコな法律も近々対策されるだろうと思うけど」
「なるほどね。ところで、このグラスすごく冷えてるね。この酒は、なんて名前なの」
健人がグラスに触れながら聞く。
「ボンベイサファイア、ジンだよ。キンキンに冷やすとトロみが出てうまいんだ」
藤田はそう言うと、冷えたショットグラスを口元に持っていき、一気に飲み干した。
ショットグラスをテーブルに叩きつける音を聞いた健人は、それに続いてボンベイサファイアを飲み干す。
「キツいねこれ」
軽く咳き込みながら、健人もグラスをテーブルに叩きつけた。
「香りがいいだろ」
藤田は言う。
「確かにおいしいけどね」
健人が気に入った様子を見せると、藤田は満足そうな顔をした。
そして、しばらく仕事についての話、お互いの趣味などについての話をしていた時だった。
「君たちちょっといいか」
藤田の背後から声がした。
「はい、なにか」
藤田が振り返ると、そこには金のチェーンネックレスをした半グレが立っていた。
「売人なんだってな。困るなあ、ここで商売されちゃ」
男は煙草を口に加えながら藤田の胸ぐらを掴み、ハイテーブルの椅子から引きずり下ろす。
男はそのまま藤田を引きずり、階段を上がった先のVIPルームの扉を開ける。部屋の中には、10人以上は座れそうなローテーブルとソファがあり、黒を基調とした服を着た男達が、ほとんどの席を埋めていた。
妙な香り漂うその空間では、女と男が入り交じり微かな笑いも起きている。それなのにも関わらず、どす黒く重い空気を感じる。こちらの気配に気付いたのか、男達は一斉に藤田のほうを見る。冷たい視線を浴びた藤田は、少しの冷汗をかき、視線を反らした。
「連れてきました」
男が藤田を部屋の中央に投げると、奥の男が口を開く。
「おまえ、藤田か」
男の一言で、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
藤田はその声をはっきりと覚えていた。あの日の記憶が、頭の中で何度も繰り返す。
「なんだおまえ出てきてたのか」
男が薄ら笑いを浮かべると、藤田はゆっくりと顔を上げ、男めがけて突然飛びかかった。
周りの男達をかき分け、奥の男に拳を振り下ろそうとしたその時、藤田の腹に強烈な蹴りが入る。そのまま、部下と思われる男に、床に押し倒される。
「桜庭、この野郎。見つけたぞ、見つけたぞ。おまえを許さないからな」
藤田は、物凄い剣幕で桜庭を睨み、指をさす。
瞳孔は開き、呼吸が荒い。上に乗る男を振り落とそうと、全力で抵抗するが、藤田にそれは叶わなかった。
「まあまあ、落ち着けよ。ところでおまえ、俺の縄張りでなにやってくれてんだ」
桜庭は、藤田に馬乗りになっている男に指で合図を送る。
男は藤田を立たせ、藤田の両手の親指を後ろに回し結束バンドで固定した。
「酒を飲みに来ただけだ」
藤田は言う。
「嘘つくなよ、うちの若いのがおまえにハッパ売りつけられたって言ってたぞ」
桜庭は、深いソファから立ち上がると藤田の目の前に来た。
「持ってねえよ、売りつけてもねえしな」
藤田は桜庭を睨む。
その顔を見た桜庭は藤田の首を掴み、壁に叩きつける。
「いちいち口答えするんじゃねえよ」
桜庭は藤田の腹に、膝を入れた。
藤田の体は少しだけ宙に浮き、次には両膝をついて床に頬を強打する。
「おまえもう俺の前に現れるなよ」
桜庭は藤田の髪の毛を鷲掴みにする。
それでも桜庭を睨み続ける藤田は、桜庭の顔面目掛け唾を吐いた。鷲掴みにされた頭部は、そのまま壁へと一直線に動く。
鈍い音が部屋中に響いた。
顔にかかった唾をおしぼりで拭きながら、床に縮こまる藤田の腹に、間髪入れずにつま先をねじ込んでゆく。藤田はまるで、赤子のように体を丸め、意識が朦朧としている。この部屋には相当な人がいるはずだが、桜庭以外の声は一切聞こえなかった。
「おい、藤田。おまえ売ってたんだよな」
尚も藤田に質問を続ける桜庭だが、藤田に答える気がないのだと判断したのか、入口付近の男に再度合図を送る。
すると男は、そそくさと部屋から出ていき、ものの5分もしないうちに戻ってきた。なんとその男が連れてきたのは、健人だったのだ。
「ああ、来たね。君は藤田とお友達かな」
桜庭は、藤田の頭を踏みつけながら聞く。
「は、はい。お、お友達です」
健人は突然の出来事により頭が混乱し、パニックになっている。
「まぁ緊張しないでさ、そこに座ってよ」
桜庭は健人に座るように促した。
健人はベトベトになった手のひらを強く握ると、その場にゆっくりと正座する。
「君良い子だね。ところでさ、藤田とハッパかなんか売ってたよね」
桜庭は、健人の前まで来るとしゃがみ込み、下を向く健人の顔を覗き込んだ。
「い、いえ売ってません」
健人は怯えている。
「売ってたよね」
桜庭はさらに畳みかける。
「いえ」
「おい、嘘つくなよ」
桜庭は健人の頬を軽く叩く。
「嘘じゃありません」
叩かれたことへの恐怖から、健人の歯は震え始めた。
「おい、耳までおかしいのか。売ってたよな、な」
桜庭は健人の耳を引っ張る。
「本当に売ってないです」
とうとう泣き出してしまった健人に、桜庭はさらに追い打ちをかける。
「おまえな、俺がなんで怒ってるのかわからなくなっちゃうじゃん。周りに示しがつかないだろって言ってんの」
桜庭は健人の髪を掴む。
桜庭が握り拳を作った時だった。
「売ってねぇって言ってるだろ」
藤田が、ボロボロになった体を壁に押し付けながら立ち上がる。
「なんだよ」
桜庭は藤田を睨む。
「そんなことよりおまえ随分羽振りがよさそうじゃないの」
息を切らし、血を床に吐きつけた藤田は言う。
「まあな。おまえが残した名簿のおかげだ」
桜庭はニヤついた。
「嫌な予感がしてたんだ。やっぱりおまえ、あの顧客名簿の写しかなんかを持っていたんだな」
藤田は壁に寄りかかる。
「そういうことだ。うまい汁は沢山吸わせてもらったよ、今頃おまえの客達は泡でも吹いて死んでるんじゃないか」
「どういうことだ」
藤田は目を見開く。
「あいつら脱法ハーブからなにから見境なく手を出すからよ、一人ひとりパンクさせてやったよ。まあ今じゃ脱法ハーブ買う金もねぇだろうし、どっかで死んでると思うぜ。結局のところおまえの名簿はもう紙屑同然ってことだよ」
桜庭は笑い出す。
桜庭の耳を疑う発言に、藤田の堪忍袋の緒が切れた。両の手が塞がっていることなど気にもせず、桜庭の方へと足を踏み出す藤田だが、そのままバランスを崩し、前のめりに突っ込んでゆく。
その光景を見ていた周りの男たちが藤田を止めようと一斉に走り出した。遠い距離から飛び込む者、ぎりぎりのところまで手を伸ばす者、驚いて目を伏せる者。その中で尚泣きじゃくる健人だが、彼の耳には『大きな鐘の音』が聴こえた気がした。
そう、藤田の頭は桜庭の顔面の中心である鼻の骨を砕き、歯を折り、見事なまでに桜庭を突き飛ばし失神させたのだ。突き飛ばされた先には健人がいたため、桜庭が上に覆いかぶさった健人も、状況を理解できないまま失神してしまった。
藤田はそのまま床に倒れこむと、歯を食いしばり覚悟を決める。彼がその部屋で最後に見たものは、数えきれないほどの靴底だった。
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