顧客名簿

「落ち着いたか」

 窓際で空を眺めていた藤田は、健人にそう言った。


「うん。暖かくてすごく良い気分だった」

 健人はそう言うと、両腕を天井へと伸ばす。


「よし、俺は一旦髭さんに報告してくる。おまえはゆっくりしてろ」

 プラケースに入れた大麻をポケットにしまった藤田は、部屋から出ていく。


 健人は右手を上げ無言の挨拶をした。


 玄関のドアを開けるとアパートの柵の隙間から人が見える。階段の下で男二人がなにか話していた。

 片方は、茶色の帯と深い緑の着物を身に着けた白い髭の生えた老人。少し腰が曲がり杖を突き階段の手摺に摑まっている。そしてもう片方は黒いスーツに身を包み、いかにも老人を警護しているかのような風貌だ。


「だれだろう」

 藤田は健人の部屋のドアを閉め、階段のほうへと歩いた。


 階段をゆっくりと上がってくる二人を、横目でちらちらと見ている藤田。なぜか藤田の体は妙に落ち着きがない。空気がピリついているような、重いような感覚があったのだ。一段一段と踏み締めるその老人の足に、確かな生気を感じる。そして、最後の段に差し掛かった時、黒いスーツに支えられた老人が顔を上げた。


「う...」

 老人と目が合ってしまった藤田は、一瞬蛇に睨まれたように体を硬直させてしまう。


「君が藤田君か、鈴木君の知り合いだってな。鈴木君は、中で元気にしてたかな」

 老人は、目の色一つ変えずに藤田に質問した。


「は、はい。彼は私に大変良くしてくださいました」

 藤田は使い慣れない敬語を使う。


「まあ楽にしなさい。ところで君はどんな仕事をもらったのかな」

 杖に両手をつき老人は言う。


「仕事は...」

 藤田は勘繰り、咄嗟に髭さんの言葉を思い出す。


「(彼はボスにはなにも言うなと言った。今俺の目の前にいるのは髭さんの言う『ボス』と呼ばれる男で間違いないだろう...)い、今は近くの解体屋で働いています」

 藤田は一瞬詰まったが、こう切り返した。


「解体屋だと」

 ボスの表情が変化したような気がした。


「はい。なにかあればすぐに動けるようにと髭さんが準備して下さいました」

 藤田は背筋をピンと伸ばす。


「解体、なるほど。それ以外にもなにか仕事をもらっただろ」

 ボスはさらに鋭い視線で藤田を睨む。


 眼球だけで覗き込むような半分の黒目は、上瞼によって隠れている。さらに足先は、藤田を逃がさないためか無意識にこちらに向いている。まさに絶体絶命。今まで生きてきた中での一番の恐怖に値するだろう。藤田は全身の血の気が引き、両脚の力が抜けそうになった。


 その時。


「ボス、お久しぶりです」

 突然、背後から声がし、健人が姿を現した。


「おお、健坊か。大きくなったな」

 ボスの顔が突然和らいだかと思うと、藤田のことを無視し、健人の元へと杖を突く。


「今日は健坊に用があってな、少し上がってもいいか」

 ボスはそう言うと、健人が開くドアの中へと入って行った。


 ドアの前には、黒スーツがどっしりと構え、藤田に向かって手を払う仕草をする。


 早くどこかへ行けということだろう。藤田は一目散に階段を駆け下りた。階段を下り切り、健人の部屋のほうへと目をやると黒スーツがこちらに気付き、柵を掴み威嚇してきた。


「(このアパートは、やっぱり変だ)」

 藤田はそれ以降振り返ることはなかった。


 「BarSpray」に辿り着いた藤田は、いつものように【closed】の看板を無視し、勢いよくドアを開く。


「こんにちは」

 藤田はカウンターに向け挨拶をすると、奥の赤いカーテンが揺れ、髭さんが出てきた。


「なんだ。良い知らせか」

 髭さんは煙草を咥え、頭を搔きながらこちらを見つめる。


 彼はこんな時でも、キッチリとしたダブルスーツを着ていた。


「収穫終わりました。極上品です」

 藤田はそう言うと、ポケットからプラケースを取り出す。


 ケースの蓋を開くと、バー内に芳醇な香りが広がった。


「すごいなこれは、貸してみろ」

 光が反射するほどに輝く大麻を、藤田から受け取る髭さん。


 すると彼は、収穫直後の藤田と同じように、うっとりと見入ってしまったようで、少しの間無言の状態が続いた。


「髭さんこれ」

 藤田は、ポケットに忍ばせておいたジョイントを髭さんに渡す。


 髭さんは、口に咥えた真新しい煙草をカウンターの上の灰皿に押し付けると、さっそくジョイントを咥えライターに火を灯した。


 深く吸い込み、深く息を吐く。


 カウンター内から出てきた髭さんは、呼吸をするように煙を吹かすと、背の高い椅子に腰かけた。目を瞑り天井を仰ぐと、後ろに伸ばした肩肘をカウンターに付ける。


「確かにこいつは極上だ。GreenCrackをここまでに仕上げるとは」

 髭さんは驚いていた。


「健人です、あいつには才能がある。髭さんは、もともと分かっていたんですよね」

 藤田は問いかける。


「ああ、分かってた。あいつの母親とは昔付き合いがあったからな」

 髭さんはリラックスしているようだ。


「髭さんと健人の母親が...。それで健人はボスとあんなに親しそうだったのか」


「やっぱりボスは来たか、なんて言っていた」

 髭さんは藤田に聞く。


「仕事はどうしてるんだって、今なにやっているのかを聞かれたよ」


「なんて答えた」

 髭さんは質問攻めだ。


 余程、藤田との関係を知られるのが嫌なのだろう。


「解体屋で働いているだけだと答えた」


「そうか、それなら良い」

 髭さんは、納得したのかカウンターチェアから立ち上がり、カウンターの中へと引っ込んだ。


「とにかくこの品で商売をしていく」

 藤田は髭さんにそう言うと、バー入口のほうに振り向く。


「待て、サツに押収された顧客名簿はどこだ。名簿もないのに商売なんて出来ないだろ」

 髭さんが藤田の背中に向かい言う。


「顧客名簿…ああ、あれか。サツには偽物を掴ませた。当たり前でしょ大切なお客さんなんだから」

 藤田はそう言うと、右手を上げバーを後にした。



 自分の部屋に戻ってきた藤田は、実家の屋根裏から取ってきた顧客名簿と睨めっこをしていた。


 八年前の情報だ、確実性がないかもしれない、警察にパクられている奴もいるかもしれない。今の状況で顧客に電話を入れたり、アクションをするのは危険だと考えた。なにか方法はないものか。


 藤田は10分程度だが、部屋の中心で胡座をかく。



(古いなあ、藤田さんは)



 集中していると、ふと健人の言ったことを思い出す。



(ネットで買えばいいじゃん。今はもうなんでもネットでしょ)



 健人の声が頭に木霊し、藤田はなにかを悟った。


「とにかく名簿に書かれている住所に出向き、SNSの情報を今までの顧客に教えてもらう。大変だがこの方法が一番確実だろう」

 常に慎重に動く藤田は、時間を掛けてでも今までの顧客名簿を書き直そうと考えたのだ。


 しばらくすると藤田の部屋のドアを叩く音がした。藤田は急いで顧客名簿を隠すと、玄関の覗き穴を見る。そこには健人が立っていた。健人を部屋に招き入れた藤田は、なにもない畳の上に座らせ話し始める。


「さっきは助かったよ。あいつに大麻の存在を知られたかな」

 藤田は恐る恐る聞く。


「あいつって、ボスのことでしょ。大麻はうまく隠したよ。ところで、髭さんとどんな話をしたの」

 健人は言う。


「よくやった健人。今回健人が育て上げた大麻は、髭さんにもお墨付きをもらった。このGreenCrackで勝負することに決めたぞ」

 藤田は腕を組み笑顔を作った。


「よかった、また次の段階に進めるね。次はなにをするの」

 健人は聞く。


「次は顧客名簿に載っている客に直接会いにいく。はじめは苦労するだろうが、SNSの情報を手に入れたら少しづつネット上で拡散していこう」


「会いに行くのはいいけど、顧客って言っても遠いところでどの辺りなの」

 健人は聞いた。


「二十キロ圏内だな、遠くても東京駅辺りまでだろう」

 藤田は記憶を辿りながら応える。


「案外近いね」

 健人は安堵した。


「まだ子どもだったからな、ネットもそんなに普及してないし、車もなかった」

 藤田はそう言い立ち上がると、ごそごそとなにかを始めた。


「藤田さんなにやってるの」

 健人は聞く。


「健人、遊びに行くぞ」

 藤田は意気揚々と着替えていたのだ。


「遊びに行くってどこに。仕事はどうするの」

 健人は混乱する。


「仕事がうまくいきそうだからな。こんな状況でじっとしていられるわけないだろ。もう夕方だし、前夜祭といったところだろう」

 藤田は、そそくさと健人を立ち上がらせると、健人の部屋まで連れて行った。


「さあ着替えろ、俺はGreenCrackの様子を見ておく」

 藤田は鉢の前で胡座をかく。


「遊びに行くのは分かった。でも金はどうするの」

 言われるがままに外用の服に着替える健人は、藤田に疑問を投げかけた。


「奢ってやるよ。俺が家やビルなんかを、ぶっ壊して稼いだ金だ」

 藤田は得意げに言うと、健人の手を掴みアパートを出る。


 二人は、ちょうど太陽が沈むであろう時間帯に、タクシーに乗り込むのだった。

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