出逢い

 自分の部屋で膝を抱える健人。事故からひと月が経った今でも、健人の手には母の血の感触が残っていた。あの時の酔っぱらいは未だに見つかっていない。

 怒りの矛先をどこに向けたら良いのかわからない。悲しみなのか、怒りなのかの判断も出来ない。健人は立ち上がり部屋中を徘徊し、たくさんの物を押し倒し歩く。そこら中の壁を殴り倒し、拳は血まみれになった。


 すると、背後から妙な音が聴こえ振り向く。テーブルの上のサフランが床に散らばり、花瓶の割れる音が部屋に響いた。母にプレゼントしたサフランだ。健人は届くはずのない右手を、二人が最後に日常を過ごした"あの時"に伸ばしていた。


 はっと我に返り床に膝をつくと、広がった花瓶を集める。


「痛っ」

 健人は花瓶の破片で指を切ってしまった。


 指先に感じる血の感触、歩道橋での感覚が蘇る。健人の呼吸は徐々に荒くなり、破片を右手で強く握りしめた。


ドンドンドンッ


 誰かが玄関のドアを叩く。


 健人は立ち上がると左手首に押し付けた破片をテーブルの上に置き、玄関に向かう。耳を澄ませてみると、ぶつぶつとなにかを言う男の声がした。


「はい、どちらさまでしょうか」

 健人はドアを開け、俯き加減に聞く。


「隣に越してきた者なんだけど、さっきから何騒いで...ってお前、それどうしたんだよ。大丈夫か」

 勢いよく文句を言ってやろうと思っていた藤田だったが、健人の手首から流れる血を見て言葉に詰まる。


 血だらけの手を隠そうと慌てて後ろに回した健人は、その反動で玄関に置いてある白杖を倒してしまった。


「だ、大丈夫です、なんでもありません。それで、要件はなんですか」

 健人はしゃがみ込み、白状を元に戻しながら言う。


「いや、ちょっと騒音が酷かったから注意しに来ただけなんだけど...それよりお前、その怪我なんとかしないと」

 藤田は目の前の光景にうろたえたが、なんとか喉の奥から声をひねり出す事に成功する。


「あなたには関係ないでしょ。騒音の件は謝罪します、申し訳なかったです。以後気を付けますので、これで失礼します」

 迷惑そうな顔をした健人はそう言い残し、勢いよくドアを閉めた。


 藤田は不意に現れた悲惨な光景にドアの前で立ち尽くす。今起きた出来事を頭の中で整理するのに、少し時間が掛かっていた。


(何だったんだ今の、このアパートには本当にまともな人間はいないのか)


 藤田は心の中でそんなことを考えながら、目じりをつまんだ。部屋に戻ろうと振り返ると、足に植木鉢が当たり倒しそうになってしまう。


「危なかった」

 寸前のところでなんとか揺れを止めたが、凜々しく咲く紫の花に違和感があった。


 真っ暗な部屋、玄関の白杖。そしてなにより話している時に合わない目線。


「まさかあいつがこれを育てたのか」

 藤田は点と点が繋がった様な感覚になる。


 居ても立っても居られなくなり、健人の部屋のドアを強く叩いた。


「おい、開けてくれ」

 藤田は部屋の中の健人に聞こえるように叫ぶ。


 少しすると玄関のドアノブが動き、勢いよくドアが開く。


「何なんですか。さっきもう謝ったでしょ。あまりしつこいと警察呼びますよ」

 健人は怒っているようだ。


「まぁまぁ落ち着けよ。ちょっと聞きたいことがあるだけだから」

 なるべく彼の逆鱗に触れないように下手に出る藤田。


「で、なんですか」

 健人は不機嫌そうに聞く。


「いやいや、この紫の花綺麗だなって思って、まさか君が育てたの」


「そうですけど」

 健人は冷たく答えるが、藤田はまさにこの回答を待っていた。


(こいつは使える)


「聞きたいことってそれだけですか。俺忙しいので失礼しますよ」

 健人はそう言いドアを閉めようとするが、すかさず藤田の足でその行動は静止された。


「ちょっと待て、おまえ金に困ってたりしないか。おまえにピッタリの仕事があるんだ。少し話を聞いてくれないか」

 藤田は玄関前の花を見て、健人の才能に注目したのだ。


「仕事って、さっき出会ったばかりの人のそんな話、信用出来るわけないじゃないですか、帰ってください」

 健人はドアを無理やり閉めようとする。


「うまくいけば、月に五十万以上は稼げる仕事だ。家の中で出来る仕事だし、悪くない話だと思うんだが」

 藤田はドアが完全に閉じられるのを食い止めながら、粘り強く説得を続ける。


 月に五十万円以上とゆう金額は、独りになってしまった健人にとって必要なお金だった。


「五十万って、いったいどんな仕事ですか」

 次第にドアを閉めようとする力が弱まり、健人は思わず聞き返してしまう。


「やっぱお前も金が必要なんだな。ちょっと中でゆっくり話そう」

 そう言うと藤田は、ズカズカと健人の部屋に入ってゆく。


「ちょっと、勝手に入るなよ...」

 健人は藤田を止められず、言われるがままに部屋に入ることを許してしまった。


「まずは手の怪我を何とかしよう。タオルあるか」

 藤田はタオルを探すため、洗面所辺りをうろちょろする。


 洗濯機の上の棚からタオルを探し出すと、水で濡らし健人のところまで戻ってきた。


「人の家で、あまりうろちょろするなよ」

 健人は言う。


「悪い悪い、ほら、これで腕に着いた血拭けよ」

 健人にタオルを渡した藤田は、救急箱を探す。


「なんだよ、馴れ馴れしいな。名前も知らないってのに」

 健人は、突如現れた無礼な来客に対して不信感を隠せずにいた。


「あ、そうか。俺は藤田だ。藤田圭よろしくな。お前の名前は」


「俺は、健人。山崎健人だよ」


 藤田の勢いに呑まれ、なぜか自身も自己紹介をしてしまった健人だったが、この時から少しづつ肩の力が抜けてきていた。


「じゃあこれからは、健人って呼ぶな。俺の事は好きに呼んでもらっていいぞ。俺と健人はビジネスパートナーだからな」

 救急箱から包帯を取り出した藤田は、嬉しそうな顔をしている。


「まだやるって決めたわけじゃないだろ。そもそも、この部屋で五十万稼げる仕事ってなんだよ」

 健人は藤田から包帯を受け取ると、器用に手首に巻きながら不満そうに聞く。


「なんだ、やっぱお前も金がほしいんだな。心配するなよ、俺と健人なら絶対に大金持ちになれる」

 ニヤニヤしながら藤田が話す。


「いいから早く教えてよ」

 健人は、もったいぶる藤田にイラついていた。


「大麻の栽培だ」

 藤田は得意げに言う。


「断る、それって犯罪だろ」

 健人はあっさりと断った。


「まてまて、おまえ大麻がどれだけの人を救っているか知ってるのか。偏見で物事を語るなよな。おまえは大麻の事知ろうとしたことあるのか」

 藤田はなんとか否定派を説得しようと試みる。


「普通偏見しかないだろ、子どもの頃から悪いものだと脳に刷り込まれた悪をどうやって覆せって言うんだよ、おじさんこそゴキブリを愛でろと言われたら出来るのか。絶対に出来ないだろ」

 健人は正論を藤田にぶつけた。


「おじさんだと。俺はまだ二十八だ。それにな、絶対に出来ないなんて事はない。絶対に出来ないと思った時点で絶対に出来なくなってしまうんだ。今のこの国では悪かもしれない、だがな一歩でも外の世界を知ろうとしてみろ、大麻が悪でもなんでもないなんてことすぐに理解するはずだぞ。それにゴキブリを愛でる奴もいる、それも偏見だろ」

 藤田は正論を正論で返した。


「それなら大麻が悪でないと証明してみろよ」

 健人は挑発的だ。


「証明だと。他人の意見が証明になると思っているのか。自分で実感し、自分で考え証明するんだよ。可能性のあるものに期待せず悪だからという理由で遠ざける。悪か悪じゃないかを他人に任せている内は気楽なものだな。体を張って危険を顧みずに挑戦し、安全を主張してくれている人々に申し訳ないと思わないのか」

 藤田は健人の腕を強く掴む。


 あと少しで落ちる、藤田は心の中でそう思っていた。


「それは...」

 健人は口をつぐむ。


「健人、お前の手首の傷を見て思った。もし自分の命を自分で絶つくらいなら、一度リスクを負って俺と賭けに出てみないか。俺には分かるんだ、健人、お前には大麻を育てる才能がある」

 言い切った藤田は、健人の返答を待つ。


 困惑した様子の健人だったが、少しの間を空け口を開いた。


「面白そうだね、いいよ」

 健人はため息交じりに答える。


「よし、本当か。本当にいいんだな」

 藤田は喜ぶ。


「いいよ、もう俺には失うものはないからね。どうにでもなれって感じだよ」

 そう言いながら健人は悲しそうに笑った。


 その顔を見た藤田はなにかを感じ取ったのか、首を傾げる。


「でも、なんで俺に大麻栽培の才能があると思ったのさ」

 健人は聞く。


「お前の家のそこら中にある花だよ。こんな綺麗な花を咲かせられる奴は絶対に大麻栽培の才能がある」

 藤田はまたも言い切る。


「大麻栽培って、そうゆうものなのかよ」

 健人は呆れ声を出す。


「そうゆうもんだ」

 藤田は腕を組み、首を一度だけ下げた。


 言い合いをしている中で、健人はいつのまにか"あの時の思い出が消えていく"感覚になった。暗いままの思い出が消え、新たな思い出になる感覚。どんな形であれ前を向くための希望を、藤田からもらったのだ。

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