Bar Spray

 藤田は八年間の服役を終え、刑務所を後にする。


「なんとか外でも仕事には困らなそうだ」

 出所間際の藤田は中で友人になった『鈴木』という男から、あるバーを紹介された。


 鈴木曰く、そのバーはヤクザとの関わりがあるらしく、はぐれ者でも歓迎してくれるようだ。痛い目に合わせられるかもしれないが、余程の事がない限りは大丈夫だろう。藤田は昼頃にでも行ってみようと思った。とにかく、まずは実家へと向かうことにする。


 電車とバスを使い、やっとの思いで懐かしい場所へとやってきた。最寄り駅に着くと、八年前とは見るからに景色が変わっている。藤田は時間を置き去りにしてしまった事実に、少しだけだが胸を痛めるのだった。


「お帰り」

 実家につくと白髪交じりの母が出迎えてくれた。


「ただいま、少し痩せたね」

 藤田は母に言う。


 八年ぶりの実家は落ち着くものがあり、台所からする煮物の香りに藤田は腹を鳴らした。


「そうかしら。お腹が鳴ってるわ、まずは食べてからね」

 母は台所に向かい、温かい手料理を藤田の前に並べる。


「いただきます」

 藤田は手を合わせ、母の作る料理の味を噛み締めた。


「やっぱうまいなあ、母さんの作る煮物は」

 昔と変わらない味に子どものような笑顔を見せる。


 煮物を味わっていると、藤田の心には様々な感情が沸き上がり、自然と涙が溢れた。


「ありがとね。俺、母さんに迷惑かけてばっかりなのに...」

 藤田は顔を伏せた。


「何言ってんの、別に迷惑だなんて思ってないわよ。あんたが何したって私の子どもなんだから。間違ってないって信じてるよ」

 母は悟ったような微笑みを見せる。


 藤田は母親という存在の、決して敵わない器の大きさに驚きを隠せなかったが、その器が自分に向けられているのだと知ると、安心し暖かい気持ちになった。


「ありがとう、母さん」

 母に感謝を告げると、藤田はまた食事に手を伸ばした。


 他愛の無い会話を母とした後、食事を終え「ご馳走様」と告げると、食器を台所で洗いだした。


「いいのよ、置いておいて。私が洗っておくから」

 母は居間に座りテレビを見ながらそう言ったが、藤田はその声を聞き流し食器を洗い続ける。


 台所の向こう側で座る、小さくなった母の背中を見ていると『ハッ』と思い出した。


「そういえば、お婆ちゃんは元気なの」

 幼い頃に父が他界した藤田は、かなり祖父母にお世話になった。


 服役中だった三年前。祖母の体調不良を母からの手紙で知ってから、心配していたのだ。


「お婆ちゃんね、先月から介護施設にいるの」

 母は少し悲しい表情をした。


「介護施設って、どうして」

 藤田は驚く。


「お婆ちゃんが体調を崩してからね、最初は一緒に住んでたんだけど、一年ぐらい経った頃にアルツハイマーになっちゃって、介護が必要になったの。それで、初めのうちは私が介護してたんだけど、仕事をしながらだと大変でね、今は私の仕事を増やす代わりに、お婆ちゃんは施設に入ってもらうことにしたのよ」

 母はすらすらと話す。


「そうだったんだ、大変だったよね」

 その話を聞き、後悔、悲しみ、怒りにも似た感情に飲み込まれそうになるが、藤田の目つきは鋭く目の前の現実にまっすぐ焦点を合わせた。


「でも、もう大丈夫だよ。お金の事なら俺がなんとかするから、母さんは仕事減らしてゆっくり休んでね、もういい歳なんだから」


「たくましいわね、楽しみにしてるわよ。でももう捕まるんじゃないよ」

 母は笑顔になり、冗談交じりに言った。


「わ、わかってるよ。お婆ちゃんにも近々会いに行こうかな」

 藤田は皿洗いを再開する。


 皿を洗いながら母との会話を思い出していると、『お金を稼がなければ』とゆう使命感に囚われてしまった。


 同時に、自分を裏切った桜庭への憎しみも込み上げ、居ても立っても居られなくなったのだ。あの時の桜庭はなぜ藤田を売ったのか。藤田本人には全く見当もつかなかった。


「ご飯、ご馳走様。まだ帰ってきたばかりだけど、俺行かなきゃならないところがあるから行くね」

 皿洗いを終え、濡れた手をタオルで拭く。


「わかったわ」

 母は笑顔で言い、藤田と玄関までやってきた。


「じゃあ行ってきます」


「いってらっしゃい」

 母は息子の肩にそっと触れた。


 藤田は玄関の戸を開くと、強い決意と共に実家を後にしたのだった。バスと電車で三十分ほどの場所に、紹介された古い雑居ビルがあった。時間は昼過ぎ。藤田は鈴木に紹介されたバーに出向く。


「ボロいなあ、ここに客なんて来るのかな」

 藤田は疑問に思いながらも、バーへと続く階段を上がる。


 「Bar Spray」と入口に書かれたそのバーは、雑居ビルの三階にあった。【closed】の看板が出ていたが、店の中に人影が見えた藤田は、緊張気味にドアを開ける。


「いらっしゃいませ、申し訳ございませんが開店前でして」

 ダブルスーツを着た、髭面の男がカウンターの中にいた。


「あの、鈴木って奴からの紹介で来ました」

 藤田は言う。


「あ、なんだ鈴木の紹介か、こっちに来いよ」

 髭面は店の入口まで歩いてくると鍵を閉め、藤田をカウンターの奥へと案内する。


「じゃあ、さっそくこれ」

 髭面は窓際に置いてある植木鉢の下から種を取り出し、藤田に渡す。


 この種がなんの種なのか、藤田には目を閉じたままでも分かる。ランドセル姿の時から、日の当たらない生活をしていた藤田にとって、この種が世界を変えてくれたことに間違いはないからだ。

 母親がペットボトルの底で作った容器で育てていたアボカド。ほんの少しの好奇心から、アボカドの種と一緒に見知らぬ種を放り込んだ。それが全ての始まりだった。翌日には芽を出し、得体の知れない"それ"は成長を始めたのだ。


 そう、これはあの時と同じ、大麻の種だ。毎度の如く、藤田の人生の分岐点に現れる。なんの説明もなしに渡されたということは、これを育てろということだろう。


「あとこれ、アパートの鍵。このビルの裏ね」

 髭面は気だるそうに言う。


「住まわしてくれるんですか(これならいける、最高の環境だ)」

 藤田は心の中でガッツポーズをした。


 藤田は思いがけないタイミングで、得意な仕事と住む場所まで手に入れた。


「上がりは三か月後に100万、ここに持ってこい」

 髭面が言う。


「100万って、嘘だろ。種から三か月で百万ってどう考えても...」

 藤田は髭面を睨み声を荒らげるが、髭面は藤田の言葉に被せるように続けた。


「栽培キットは押入れにある。後は自分で考えろ」

 髭面は煙草を咥えたままカウンターへと戻った。


 100万、それが出所後最初に課せられた試練だ。これを断ったら仕事も住む場所もなくなるため、藤田はこれ以上の発言を控えた。


 藤田はアパートの鍵を持ち雑居ビルを後にする。雑居ビルの裏側に回るのは容易だった。まずは雑居ビルの入口を左、するとすぐ隣に細い裏道がある。道中には、ゴミ捨て場らしきものがあるが、綺麗に掃除されていた。この細道を通り抜ければそこがアパートだ。ものの2分で到着したそのアパートは、もちろんボロボロだった。藤田の予想していた通りだ。


 ボロアパートの目の前は雑居ビルに囲まれていて、見上げるとものすごく狭い空が見える。車も入れなければ人が入ってくる理由もないだろう。もし入ってくる人がいるとすれば、ここの住人、つまり藤田と同じような人間のはずだ。


 錆び付いた階段を上り、一番端の201号室の鍵を回すと木のきしむ音とともにドアが開く。


 間取りは、『1DK』玄関の右横にはキッチンがあり、左側にはトイレと風呂、奥側左手の襖を開くと、部屋の隅に敷布団が置かれていた。ベランダに続く窓は二箇所あり、風通し、光の入り具合が絶妙だった。藤田はベランダの窓を開け、外の様子を見に行くことにした。


「不思議だな。まるで別の場所にいるみたいだ」

 目の前に広がるのは雑居ビルの集団ではなく、辺り一面に広がった緑だったのだ。


 この一帯は、ここのヤクザが仕切っているらしく、隣の土地も買収済み。広大な更地に背の高い雑草が生え放題の状況だった。出所したての藤田には、この光景が心の底から美しく見えたのだった。


 藤田は部屋に戻ると、髭面が言っていた通り押入れを開ける。


「うわ」

 思わず声が出た。


 押入れの中には上質な栽培キットが入っていたのだ。今までも大麻を栽培してきた藤田だったが、見たことのない道具が沢山あった。さっそく、慣れた手付きで栽培キットを組み立てた藤田は、種子を水のたっぷりと入ったコップに入れる。これだけの道具があれば時間の短縮は出来るかもしれない、だが三か月で100万の売上はやはり無理だ。


「あの髭面なにか別の考えがあるのか」

 

 藤田は畳の上で胡座をかき瞳を閉じる、頭の中をぐるぐると回る一つ一つの問題を擦り合わせていると、脳内で最後のパズルのピースがハマる音がした。


「このアパートだ」

 藤田は目を開ける。


「このアパートは二階建てで、各階に三部屋ずつ。この中で俺より先に住んでいる奴は、みんななにかしらの問題があるはず。もしかしたら、そいつらも大麻を栽培しているかもしれない。協力して稼ぐことができないかな」

 考えがまとまった藤田は立ち上がり部屋から出る。


 まずは隣の部屋の前に立ったが、呼び鈴がない。藤田は仕方なくドアを叩く。


「...」


 反応がない。


 そして次の部屋。


 ここも同じく反応がない。


 藤田は鉄骨階段を下り、101号室のドアを叩いた。すると、中から四十代くらいの強面の男が出てきた。


「なんだ」

 男は藤田に睨みを利かす。


「上の部屋を使っているものです。突然なんですが、栽培の件で...」

 藤田はロボットのような話し方になる。


「栽培だと。おまえなんの話をしてるんだ。そんなことどうでもいいが、もし上で騒いだら殺すからな」

 男は威嚇した。


「は、はい。すいません」

 藤田はなぜか謝り、鉄骨階段を駆け上がった。


 急いで自宅のドアを開け、部屋に戻った藤田はこの考えを取り止める事に決める。


「やっぱり駄目だ、他の奴らが大麻栽培をしているかなんて、とてもじゃないが聞けない。このアパートには、俺が思うよりヤバい奴らが住んでいる」

 頭を抱えてしまった。


 この日は「一旦刑務所での疲れを取る一日にしよう」と思う藤田だったのだ。


 そして二日目の朝。


 早朝に目を覚ました藤田は、早々に大麻の種子をコップから出し、湿らせたガーゼに優しく包んだ。


「これで発芽するはず」

 藤田はベランダの窓を開け、全身を伸ばした。


 自由な目覚めは八年ぶりだ。


 逮捕時の藤田は、大麻栽培に加え、海外への輸出や輸入をしていた。そして一番悪質だと判断されたのは、未成年を含む大量の売買記録の載った顧客名簿の存在。これのせいで重い刑罰に科せられたのだ。


 しばらくして朝一番の腹の虫が鳴った藤田は、朝食を取ることにした。食料が入っていることを願い冷蔵庫を開けると、髭面が準備していてくれたであろう、食事が入っている。食事と言っても菓子パンと水以外はなにもなかったが、出所まもなくの舌は、大量のヨダレを垂らす。そして、その中からメロンパンの袋を開けると、焦るように口に放り込んだ。


「うまい」

 藤田の脳は、八年振りのメロンパンの甘さにとろけてしまいそうだった。


 メロンパンの中にクリームを確認すると、止まらない食欲に制御が効かなくなる。このままでは冷蔵庫の菓子パンを全て平らげてしまう。


ドンッ。


 感動していたのも束の間、大きな物音が部屋に響く。


ドンッ。


 誰かが壁を叩いているようだ。


ドンッドンッドンッ。


ドンッドンッドンッドンッドンッドンッ。


 どうやら隣の部屋の住人らしい。藤田はメロンパンの袋をゴミ箱に投げ入れると、注意をしに部屋を出た。

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