サフランの花束

「お母さん、この花良い香り」

 健人は母に笑顔で話しかける。


「そうでしょう、サフランはお母さんが一番大好きな花なのよ」

 女手一つで健人を育てる母は、ガーデニングが趣味だ。


 健人が幼い頃から、この家には綺麗な花が咲いている。花の香りに包まれ育った健人は自然に花への関心が高まっていた。


「お母さん、僕の育てているサフランはどこにあるの」

 健人は手探りで自分のサフランを探す。


「ここよ」

 母は健人の手を優しく握り、健人の育てているサフランへと誘導する。


「僕のサフランも良い香りだね、みずみずしくて元気そう」

 健人は笑顔だ。


「そうね、これからも大切に育ててあげようね。さあ、ご飯にしようか」

 母は立ち上がり、キッチンへ向かうとエプロンを締め直した。


「カレーでしょ」

 母についてきた健人が、スンスンと匂いを嗅ぐ素振りをしながら言う。


「さすが健人ね、でもカレーは夜ご飯。お昼はうどんでも食べようか」

 母は健人の頭を撫でる。


「うどん」

 健人は軽快に跳ね、喜んだ。


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 それから十二年が経ち、健人も二十歳になった。


「それじゃあ行こうか」

 母はフォーマルな服に身を包み、スーツ姿の健人の手を引く。


「待ってお母さん」

 健人は、玄関のドアノブを握る母を静止すると、自分の部屋へと行き、片手でなにかを隠しながら戻ってきた。


 母の前に立ち、一呼吸置くと「僕を生んでくれて、今日まで大切にしてくれてありがとう」と感謝の気持ちを伝えたのだ。


 照れ笑いする健人の手には、大きなサフランの花束があった。


 一瞬顔をくしゃくしゃにした母は、ハンカチを目元に当てたが溢れる涙を抑えることは出来なかった。


「お母さん泣いているでしょ」

 健人は母を笑顔で抱きしめる。


「生まれてきてくれてありがとう。愛してる」

 声にならない声で発せられたその言葉には、二十年間の苦労と喜び、そして安堵を感じさせられた。

 

 桜舞う成人式の会場には、既に沢山の人が集まっていた。香水のかおりや喜びの音で満ちている。肌で感じる温かさは、今日という特別な日を祝っているようだ。

 スーツに身を包んだ健人との写真に写る母は涙ながらに微笑み、撮影したスタッフも感慨深く泣いてしまったのだった。

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 そして三年後、事件が起きた。


 やっとの思いで就職した二十三歳、就職祝いも兼ねて母と健人は、レストランで食事をしていた。


「健人、頑張ったね」

 母は健人の髪をぐしゃぐしゃにする。


「うわ、お母さんやめてよ」

 髪を直しながらも健人は嬉しそうだった。


「健人は本当に立派に育ってくれた。お母さん嬉しいよ」

 感心感心と腕を組み、首を上下に揺らす。


「お母さんもありがとう」

 健人は照れ隠しをするように、飲み物に口をつける。


 母はそんな健人を見つめ、幸せそうな顔をするのだった。


 母と健人が、幼少期から今日までの二人だけの思い出を賑やかに語り合っている。夢中に話しているとあっとゆう間に時間が過ぎ、気が付くとレストランの時計は午後十時を指していた。


「そろそろ行こうか」

 立ち上がった母が言う。


「そうだね」

 健人も立ち上がり会計をしにいく。


「次は、僕の初めての給料でここに来ようね」

 健人は母の後ろでレジの音に耳を澄ませる。


「それは楽しみ、お母さん泣いてしまうかも」

 母は会計をしながら笑顔になっていた。


 マフラーを巻き、レストランを後にした二人は、道路の向こう側へ渡るため歩道橋の階段を上がっていた。


「健人、ちょっと端に寄ろうか」

 母が言った。


 健人は母に両肩をそっと掴まれ、歩道橋の階段の端へとずれる。


「次こそは苺のパフェ…」

 母の声が突然途切れ、漂う酒の臭いとともに、なにかが階段を転げ落ちるような音がした。


「お母さん、どうしたの」

 健人は必死に声を出す。


 健人の悪い予感は確実に当たっているだろう。



 お母さんが階段から転げ落ちた。



 健人は手摺に掴まり、急いで階段を下りる。


「お母さん」

 両膝を付き手探りで母を探したが、やっと触れられたものはブニブニとしていて酒臭いものだった。


「痛っ」

 中年くらいの男の声だろう、起き上がったようだ。


 健人の心拍数が上がる。


「なんだよこれ、血だらけじゃねえか」

 中年の男は驚いているようだった。


「僕のお母さんはどこにいますか」

 健人は酒の臭いをさせる中年男に聞く。


「どこにって...」

 中年男は健人の顔を見るなり沈黙し、腰元の違和感に気付いた。


 なんと健人の母は中年男の下敷きになり、頭から大量の血を流していたのだ。


 酒気を帯びた中年男は絶叫し、その場から全速力で走り去った。


「お母さんどうしたの。なにがあったの」

 健人は地面に這いつくばり手探りで母を探すと、母の髪であろうものに指先が触れる。


 手に感じる生暖かい感触、血だ。


 鼻を刺す鉄の臭いに、健人の脳は揺れてしまった。意識が朦朧とする健人と、血の臭いのする母。そこに偶然通りかかった通行人は、慌てて救急に電話をしている。


「もしもし、人が血だらけで倒れていて。はい、え、救急です。住所ですか、どうしよう分からないな。八潮駅を少し行った外環道の下、宗教団体の件で騒がれてた辺りです。ちょっと俺、急いでるので...すいません」


 その声を最後に通行人はその場から姿を消したようだ。健人の意識が深い暗闇に沈んでいく中、手を差し伸べるものは誰もいなくなった。


 その後、病院で目を覚ました健人。医師から母が階段を転げ落ちた際に、頭を強く打ち死んでしまったということを知らされた。


 即死だった。

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