「イングルヌック」ー作増唱太

「これ、なに?」

 銀色の食器が並ぶ棚の中には、見慣れない器があった。縁が装飾された円盤の中心からまっすぐに持ち手が伸び、持ち手を囲むように小さなワイングラスのような形をした容器が六つ、円盤に接着されている。全てが銀色に輝き、私の顔が曲面に反射して丸く歪んでいた。

「エッグスタンドよ。茹で卵を乗せるの」

「そのためだけにあるの?」

「そう」

 私の後ろから麻里が答える。食器に映る私の背後に、赤みがかった髪が見え隠れした。

「初めて見た」

「紫苑の家には、ないの」

「ないよ、こんなの。使わないもん。茹で卵、あんまり食べないし」

「そうなの」

「そうだよ。うちの朝ご飯は、いつも目玉焼き」

 エッグスタンドを面白がる私を見て、麻里が後ろでくすりと笑う。振り返ると、部屋に流れ込む日の光が、麻里の青い瞳を照らしていた。


 麻里の家は敷地の入り口から建物が見えなかった。花の模様に装飾された鉄格子の門を抜けると、色とりどりの花園や芝生に包まれた庭が広がる。砂利の敷かれた道を少し進むと、レンガ造りの大きな建物が見えてくる。その大きさや外装の立派さは人の住むイメージが湧かないほどで、靴のままで足を踏み入れると、美術館や博物館に来たような気分だった。

 真っ赤なカーペットの廊下は足音も全て吸い取ってしまう。使用人さんたちがバタバタと動き回っているのに、家の中は誰も居ないかのように静かだった。長くて迷路のような廊下を歩き回り、数え切れないほどの部屋や見たことのない海外の品物の数々を見て回ると、テーマパークの施設にでも来たような感覚になる。壁の装飾や照明の形ひとつとっても初めて見るものばかりだった。学校帰りに麻里は私をよく家に招待し、はしゃぎ回る私を見て微笑んでいた。


「これは?」

 食器棚から、猫の手のような丸みを帯びたフォークを取り出す。

「カキを食べるフォークよ」

「カキ? 果物の?」

 私がそう言うと、麻里はまたくすりと笑う。

「違うわ。海の『牡蠣』」

「牡蠣のためだけにあるの?」

「そう。牡蠣が出るとき、専用のフォーク」

「変なの! 牡蠣なんて、おうちで食べたこたない」

 小食堂の部屋は特に面白かった。小食堂といっても、その部屋は私の家のリビングより大きい。食器棚には風変わりな形をした銀食器や絵の彩色が凝られた皿が並び、部屋の隅には地下の厨房から繋がる料理用の小さなエレベーターが備え付けられている。どれも普通の家で見られるものではなかった。出窓からは青々と照らされた庭の芝生が広がり、柔らかな光が部屋の装飾を輝かせていた。

「いつも、ここでご飯を食べるの?」

「そうよ」

「ナイフと、フォークを使って?」

「そう」

「凄い! 格好いいなあ」

 ナイフとフォークでの食事は、外国人の象徴のように思っていた。昔家族で一度だけホテルのレストランに行ったとき、ナイフが上手く扱えず、父にステーキを切ってもらったのを思い出す。私の手には馴染まなかったその食事も、麻里の透き通るような白い手には自然と馴染むのだろうと思った。

「こっちは……」

 私が隣の棚に手をかけたとき、ゴウン、ゴウンと、廊下から柱時計の音が聞こえてきた。

「佐伯、何時の鐘?」

「十六時です」

 麻里がお付きの使用人に尋ねると、すぐに答えが帰ってくる。私の父ほどの年齢に見えるが、麻里は「佐伯」と呼び捨てにしていた。執事というのだろうか、真っ黒な燕尾服に身を包み、染められたように綺麗な白髪を左右に分けて整えている。いつも麻里の数歩後ろに控えており、私が遊びに行くとランドセルを素早く預かってくれる。

「もうそんな時間、あっという間ね。疲れたわ、紫苑。戻りましょ」

「うん」

 自分の家とはいえここまで広いと、歩き回れば疲れるのだろう。正直私はいつまででも眺めていられたが、麻里に連れられて「いつもの場所」へと戻っていった。


 廊下から繋がる大きな階段の真下には小さなスペースが余る。その空間には暖炉と備え付けのソファが設置されており、ちょっとした休憩スペースのようになっていた。「イングルヌック」というらしい。このような空間一般を指すのか、それとも麻里の家のここだけの呼び名だろうか。細かなことはよくわからないが、変わった響きの言葉で面白いと思う。

 麻里は広い家の中でも、このイングルヌックがお気に入りらしい。二階には自分の部屋もあるのだというが、見せてもらったことはなかった。私が遊びに行くときはいつもここで落ち着いて、お喋りをしている。

「はあ。暖かいわ」

「この家はなんでもおっきいのに、ここだけは小さいね」

「ええ。落ち着くでしょう」

 麻里は私の隣に腰掛け、目を閉じてうっとりしていた。小学生が二人座ればいっぱいになってしまうほどの、壁に埋め込まれた小さなソファ。若草色の座面はふかふかで、身体が溶け込んでしまうような座り心地だった。

 暖炉から時折パチリと音が聞こえる。壁面にはステンドグラスの窓があり、外の景色は見えないが、パステル調に色付いた光が注ぐ。佐伯さんは私たちを邪魔しないようにと、手を前に組んで静かに立っている。なんだか待たせているのは申し訳ないように思うが、麻里は全く気にする様子もないため、これがこの家の日常なのだろうと納得する。

 イングルヌックは廊下から少しくぼんだスペースだが、壁や布で仕切られているわけではない。それでもここに流れる空気は家の中でも少し違っている。廊下や頭上の階段では使用人さん達が忙しそうに動き回っている。全部で何人の使用人がいるのだろう。料理や洗濯、この広さでは掃除も大変だと思う。家は一日中忙しさに溢れているようだったが、この暖炉の熱が届く範囲だけは空間が切り離されていて、ゆっくりとした時が流れる。

「麻里ちゃんはここが好きだね」

「そうよ。狭いところが好き」

「こんなに家がおっきいのに」

「大きくたって、疲れるだけよ」

 麻里は目を開き、視線を暖炉に向けていた。暖かみのある炎の暖色と瞳の青さが混ざり合い、不思議な色合いを作っている。

「でも、おっきい方が楽しいでしょ」

 私にとって、この家は一日中でも探検できる夢のような世界だった。私の住む小さなアパートの一室とは比べものにならない。イングルヌックの小さな暖かみも好きだが、それよりも長い廊下や大きな庭の方がずっと楽しいと思う。

「そうかしら」

 麻里はふふ、と笑って、また目を閉じて少しうつむいた。

「そうかもね」

 そう言うと、眠りに落ちたように呼吸を沈めた。佐伯さんは相変わらずなにもしないで立っている。麻里はここに座ると、時折こうして目を閉じ、ぱったりと黙って静かになってしまう。私の横に座り眠ったように静かな麻里の姿は、外国製の人形のようにも見える。話し相手になってくれないのは寂しいが、この麻里の姿を眺められるのも面白かった。暖かな空気の中で私は一人になり、暖炉の熱に照らされていた。



 名前は日本風であるが、麻里の家は外国の家らしい。顔もいくらか外国人の血がまざっており、青い瞳や赤みがかった髪色はクラスの中でも目立っていた。

 麻里はいつも遠くを見ていた。背は私よりちょっとだけ高い程度だけれど、同じ方向を向いていても見ている場所が違う気がした。授業中、教室の席で教科書に目を落としていても、その青い視線は地球の裏側にまで向かっているようだった。

 麻里の家は近所でも有名だった。あれだけの敷地を持っているのだから知られていて当然だが、その他にも政治家の訪問や、外国から来た偉い人が訪ねてくるとかで、麻里の家の周りにはよく高級な車が走っていた。近所の人が噂するには相当の偉い人らしいのだけれど、私は麻里の両親を見たことがなかったし、麻里から詳しい話も聞いたことがなかった。

 私は麻里とよく遊んだ。学校でも、放課後もたくさんお喋りをする。麻里は私の知らないことをたくさん知っている。新聞のニュースや、外国の名前。英語も少し話せるらしい。でも自分の話はほとんどしなかった。いつも私の話ばかりを聞きたがって、「紫苑は面白い」と微笑んでいる。

「麻里ちゃんって、兄弟はいるの?」

 一度だけ尋ねたことがある。確か上に数人の兄や姉がいると聞いたが、細かい内容は忘れてしまった。麻里はそれをあまりに他人事のように話すため、私の耳はその内容を聞き流してしまった。



「ポリューション」

 ある日の放課後、麻里はいつものソファで私の隣に座り、暖炉の熱に暖まりながら英語の勉強をしていた。

「なあに? それ」

「これよ」

 麻里は英語の書いてある小さなカードの束を見せた。カードには「pollution」とあった。

「ポ、ルチョン……」

「違うわ。ポリューション」

「なんで読めるの」

「そういうものだからよ」

 私が感心していると、麻里は微笑んで、佐伯さんから小さなメモ用紙とペンを借りていた。

「ハロー、って、わかる?」

「それくらいわかるよ」

「書けるかしら」

「カタカナじゃだめ?」

「だめよ。イギリス人には、カタカナじゃ読めないわ」

 学校でローマ字は習ったけど、確か英語とは違うのだ。「halo」ではなかった気がするが、何と書くかは覚えていない。

「こうよ」

 私が悩んでいると、麻里はメモ用紙にさらさらと書き入れた。「hello」

「麻里ちゃん、凄い」

「これくらいは、覚えられるわ」

 麻里は気取る様子でもなく、また口元を笑わせている。青い瞳の顔から英語が放たれると、本当の外国人のように映る。

「じゃあ、じゃあ、シオンってなんていうの。英語で」

 私が尋ねると、麻里は顎に手を当て、困ったような顔をして、「hello」の下に書き入れた。「Shion」

「名前はそのままよ。シオン、でいいの」

「ええ、それじゃつまらない」

「ううん、そうね……」

 麻里はまた少し悩んだ顔をした後、なにか思いついたように、また書き込んだ。「Aster」

「紫苑の花は、英語だと確か、これよ」

「すごい。なんて読むの」

「アスター」

「アスター」

 たどたどしくも、まねして発音する。麻里が頷く。何度か繰り返す。アスター、アスター、アスター。

「凄い。私も、外国人みたい」

「書き方も覚えると良いわ。ローマ字と違うのよ。A、S、T、E、R」

 麻里は紙に書いた字を一文字ずつ指差す。私は食い入るようにアルファベットを見つめる。

「この紙、くれる?」

「もちろん。いいわよ」

 私はそのメモ用紙を受け取った。「hello」「Shion」「Aster」が並ぶ一枚。アルファベットは私もいくつか書けるが、麻里の書いた文字は私のそれと違って、本物の外国語として映った。

「麻里ちゃんって、外国行ったことあるの?」

「それはもう、何度もあるわよ」

「飛行機は」

「乗ったわ」

「凄い。私、飛行機にも乗ったことない」

「そうなの」

「遠くまで見えるんでしょ。空高くから、ずっと!」

 私が尋ねると、麻里は顔を背けるように暖炉の炎へと視線を移した。

「ええ、遠くまで、ずっと見えるわ」

 先ほどまでの優しい声と違って、不思議と冷たい響きだった。暖炉まで声が届くと、その響きも溶かされるように消えた。

「紫苑も、いつか乗れるといいわね」

「うん。外国、行ってみたい」

 柱時計の鐘が響いた。佐伯さんがランドセルを取ってきてくれた。

「もう17時ですから……」

「うん、ありがとう」

 私はイングルヌックから抜け出し、麻里の家を後にする。佐伯さんが門まで送ってくれた。夕日が空のずっと遠くへ沈みかけていた。



 翌朝、キッチンに向かう母に尋ねた。

「おかあさん、外国行ったことあるの」

「わたし? ないわねえ」

 母は手元をしきりに動かして、朝食と父の弁当を作っている。私はもう着替えを済ませて、牛乳を温めて飲んでいた。

「行きたい?」

「そうねえ、パリとか。行ってみたいわね」

「行かないの?」

「そりゃ、お金もかかるし……」

「お金かあ……」

 私がため息をつくと、母は笑って手を止め、こちらを振り向く。

「あとねえ、こういうのは夢にしておいた方がいいってこともあるのよ」

「夢?」

「そう。夢」

 母はまた作業に取りかかる。冷蔵庫からウインナーを取り出し、フライパンを火にかける。

「実際行ったら、案外ショボくてがっかり! みたいなこともあるでしょ。だから、想像の中で綺麗にしておいた方がいいこともあるのよ」

 実際の海外は、私の想像よりも綺麗でないのだろうか。麻里の家の銀食器やお皿の色はあんなにも綺麗だったのに。本場のものになれば、より輝きも強いんじゃないだろうか。

 私が考え込んでいると、母はもう一度こちらを振り向いた。

「まあでも、行くのもいいわよ。想像よりもいいこともあるし。紫苑は行けるといいわね」

「うん」

 ウインナーがパチリとはじける。母は菜箸でウインナーを回転させる。香ばしい匂いが漂ってくる。

「私、アスターなの」

「なあに、それ」

「英語で、私、アスターって言うんだって」

「麻里ちゃんに習ったの?」

「うん」

 アスターね、と呟き、くすくす笑いながら、ウインナーを皿に盛り付けている。そろそろ朝ご飯もできるのだろう。私は戸棚から自分のお茶碗を取り出し、炊飯器からご飯をよそう。母は冷蔵庫から卵を取り出した。

「あ」

「なに」

「私、今日は茹で卵がいい」

「茹で卵?」

 母はこちらを見て不思議そうな顔をしたが、少しするとにこりと笑った。

「また影響されちゃって」

 そう言いながら小鍋を取り出し、水を入れ始めた。私は食器棚にそれらしいものを探したが、茹で卵の収まりそうな専用の器はやはりなかった。



 アスター、アスター、アスター……

 初めて書き方まで覚えた英語。通学中は何度も唱え、授業中はノートの端に何度も書き込んだ。「Aster」「Aster」「Aster」……どうしても、麻里が書いたような自然な形にならない。少しずつ書き方を変えて練習する。「Aster」「Aster」「Aster」ノートの隅に、紫苑の花が咲き乱れる。でもそれはやっぱり紫苑の花で、海を越えた外国に咲くAsterではないような気がした。


「どうしたら、英語が書けるの?」

 暖炉の熱に暖まりながら、私は自分のノートを開き、麻里に尋ねていた。

「紫苑、もう書けてるじゃない。A、S、T、E、R。スペルも完璧よ」

「違うの。これじゃ、ただの紫苑だもの」

 麻里は不思議そうな顔をする。私は麻里にペンを渡し、ノートに書いてもらう。「Aster」

「ほら、麻里のは違う。ちゃんと外国で咲いてる」

「紫苑ってば、面白いのね」

 麻里はまたくすりと笑っている。麻里の笑い声はいつもささやいているように聞こえた。暖炉の薪が弾ける音によく似ていた。

「からかわないでよ」

「からかってないわ。ごめんなさい」

 麻里はまだ笑っている。私のノートに咲く紫苑たちが、パステルカラーの光に照らされて色付いている。その中でもやはり、麻里のものだけがひときわ輝いていた。

「私も、麻里ちゃんみたいになりたいな」

「そうなの」

「うん」

 麻里は笑うのをやめると、目を閉じていつものように落ち着いていた。ソファに全ての体重を預けて、若草色のクッションにいまにも飲み込まれそうだった。

「私も、おっきい家に住んで、ナイフとフォークでご飯を食べて、広い庭で遊んで」

 麻里は反応しない。それでも、ちゃんと私の話を聞いているのだ。

「他の国にもたくさん行ってみたい。外国の人と、英語でお喋りして……」

「紫苑は、外国に行きたいのね」

「そうだよ。飛行機に乗って、いろんなところに。私、外国のこと全然知らないもん。きっと凄いんだ。空からみた景色は、とってもおっきいんだ」

 麻里は目を閉じたまま、口元に笑みを浮かべている。声を出して笑っていたのかもしれない。暖炉の音でよく聞こえなかった。しばらくすると青い目を開いて、身体を起こした。麻里が起きた分、ソファが少し沈んだ。

「私ね、もうすぐ外国に行くのよ」

「えっ! いいなあ、どこ?」

「イギリスよ」

 イギリスという名前はよく聞いたことがある。この家の家具も多くはイギリス製なのだという。銀色の食器も、シャンデリアの光も、イギリスではどのように輝いているのだろう。

「イギリス! すごい。旅行?」

 私は興奮して尋ねる。麻里は静かに首を振った。

「向こうに住むのよ」

 その声は時計の鐘の音のような重たさがあった。ただ私に時を告げるような声。青い瞳は、ほのかに柔らかく輝いている。暖炉の熱が身体を温める。冷たいその声だけが、私の心を冷やすようだった。

「向こうの親戚の家に住むの。イギリスの学校で勉強するのよ」

「どうして」

「どうしてもなにも、そういうものなのよ」

 麻里の顔はこちらに向いている。その視線は私を通っている。でも麻里はもっと遠くを見ていた。私には見えない遠くを見て、私の知らないことを話す。

「そういうものなの」

「そういうものなのよ」

 ステンドグラスの色は赤みを増している。夕日の色だろうか。暖炉の炎の色か。麻里の髪も、いつにも増して赤く見える。

 佐伯さんは私のランドセルを持ってきている。既に十七時を過ぎているらしい。いつの間に時計の鐘は鳴っていたのだろう。私が気付かなかっただけだろうか。麻里の声で聞こえなかったのだろうか。

 麻里はまた口元を緩めた。その瞳は青いままだった。イングルヌックは静かだった。麻里の笑い声も聞こえるほどに。




 翌週、麻里は学校に現れなかった。先生から転校した旨が告げられた。朝にはざわついた教室も、午後にはいつも通りに戻っていた。

 放課後の私は、気付くとあの大きな門の前に立っていた。いつも二人で歩いた道を、今日は一人で駆けてきた。息を切らしながら柵の隙間を覗いてみても、当然一人では勝手に入れない。

「麻里お嬢様のお友達かい」

 守衛さんに声をかけられる。私は黙って頷くと、一瞬困ったような顔をして、どこかに電話をかけている。しばらくすると、庭の向こうから佐伯さんが歩いてくるのが見えた。


 佐伯さんは黙って門を開けると、いつものように私のランドセルを預かり、建物まで案内してくれる。麻里の姿はどこにもない。それを尋ねることもできない。

 靴のまま玄関をあがる。いつになってもこの感覚は不思議だった。真っ赤なカーペットをまっすぐ進む。佐伯さんの足はイングルヌックへと向かっていた。

 暖炉には火がともっている。パチパチと細かな音が響く。若草色のソファに、ひと席空けるよう詰めて座る。佐伯さんは座ろうとせず、いつもと同じように手を組んで、暖炉のそばに控えていた。

「麻里お嬢様は、一昨日立たれました」

 佐伯さんは言った。執事として丁寧でありながら、ただの知り合いのおじさんのような優しい声だった。私は静かに頷く。

 そのまま黙っている私のそばで、佐伯さんはおもむろにペンとメモ用紙を取り出し、スラスラとなにか書き込む。少しするとそのメモ用紙を丁寧に折りたたんで、私に差し出した。受け取って開くと、風のような字で、アルファベットと数字が並んでいた。

「お嬢様がお住まいの住所です」

 イギリスは住所も英語なのだと、当たり前のことに気付いた。佐伯さんの文字はよく読めなかったが、その住所を眺めているだけで、遠いどこかのお城のような建物が思い起こされるようだった。

 しばらくすると佐伯さんは他の人に呼ばれ、深々とお辞儀をして去って行った。ランドセルは私の足元に置いていってくれた。

 パステルカラーの光の中で、一人静かに座っている。たくさんの使用人が忙しそうに動き回っているが、私には関係なかった。若草色のソファはよく沈んだ。私は手元のメモ用紙を眺めていた。

 ランドセルから筆箱を取り出し、一本の鉛筆を握る。英語で書かれた住所の下に、アルファベットを書き入れる。

「Aster」

 遠いイギリスの景色の中に、一輪の紫苑が咲いた。私はその紙を丁寧に折りたたみ、暖炉の隙間から投げ入れた。炎が一瞬だけ明るさを増した。薪のはじける音がした。イングルヌックは静かだった。暖炉の音でも聞こえるほどに。




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