「ふしぎな5時間目」ー柏森楽人
国語の時間が嫌いでした。本の虫である私のことを知っている人にこの話をすると、たいてい驚かれます。どうやら、本好きというのはみんながみんな国語を好きだったり好きでなければいけないようなのです。
私には理解が出来ませんでした。楽しいはずの物語に、やれ作者の意図だの、やれここから得られる教訓だの。
しかし、中学生のある時期に、国語の時間もそんなに悪くはないのかなと思うことが起きたのです。信じてはもらえないと思いますが、楽しんでいただきたいです。
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私が中学生だった時、四時間目が体育、5時間目が国語という、学生の考えられる限り最悪な時間割の学期がありました。いえ、考えようによっては幸せな時間割だったのかもしれません。体育で疲れ、お昼を食べて眠くなった生徒たちはみんな、五時間目の国語で寝てしまうのでした。まして夏に体育でプールに入るようになると、この傾向は加速しました。プールの後の心地良い疲労と教室に香る塩素の匂いほど眠気を誘うものはないでしょう。
私が彼と出会ったのも、そんなまどろみが満ちたある夏の日でした。
その日、私は誰もいない校庭をぼーっと眺めていました。いつもなら居眠りか寝たふりでもしていたのですが、なぜか眠る気にはなれなかったのです。先生はお経を唱えているかのような声音で教科書を音読しています。クラスの九割近くが寝ていたとしても黙認することに決めたようです。いよいよ何が面白いのかわかりません。
そんな時、突然頭の中に声が響きました。
「ねえ」
聞き覚えのない声でした。男の子のような無邪気さも、女の子のような可愛さもありました。そんな声の持ち主は友達にはいなかったし、念のため周りを見回してもみんな寝ていました。何かの聞き間違えかと思って校庭に目を戻すと、また声がしました。
「ねえってば」
当時私は怪談や不思議な話が好きだったので、比較的自然に自分に起きていることを理解しました。つまり、目に見えない何かが話しかけてきているのだ、ということです。そしてそれはほどなく私の前に姿を現しました。
それは、羽の生えた4つか5つくらいの男の子でした。キューピー人形というと分かりやすいかもしれません。いかにも天使という見た目でした。
「授業中だけど、暇なの?」と彼は重ねて問いかけてきました。
私は答えようとして周りを見回しました。みんな寝ているとはいえ、そしておそらくこの天使は私にしか見えていないとはいえ、一人で何かと話してる異常者と思われたくはなかったのです。すると、クラスのみんなは不自然に固まっているように見えます。時計に目を向けると、時計すら眠気に負けてしまったかのように時を刻むのをやめていました。
「大丈夫だよ。僕がこっちに来る時は時間が止まるんだ」彼にそう言われて安心した私は、ようやくさっきの質問に答えました。
「暇に決まってるだろ。教科書は配られてからすぐ読み終わったのに先生はそれをまた読むだけだし。それに物語から作者の狙いを読み取るだとかも馬鹿げてる」
普段ならこんな事は絶対に言いませんが、相手が天使のような不思議な存在と言うこともあってか本音が漏れてしまいました。怒られたりするのかなと思って一瞬身構えましたが、彼はニヤッと笑って意外な言葉を発しました。
「そんなとこだろうと思った。着いてきなよ」
彼は小さな体に生えた小さな翼で羽ばたいて教室を出ていこうとします。しかし仮にも今は授業中。良いのだろうかと躊躇っていると彼は振り返って
「僕の名前はライ。暇なんでしょ? おいでって」
と手招きしてきます。どうせつまらない五時間目の国語。しかも時間が止まってるならサボったことにもならないだろう。などと言い訳を重ねて、私はライに続いて教室を出ました。
ライと一緒に廊下を歩いていると私たちの教室と同様に、全ての教室の時間が止まっていることが分かりました。夢のようでした。普通の中学生なら誰しもが時を止めて授業をサボりたいと思ったことがあるでしょう。
そんな夢のような状況でライはどこへ連れて行ってくれるのかと思いながら歩いていると、どうやら図書館棟の方へ向かうようでした。
「なーんだ、図書館か」
こんないかにもな妖精が連れていってくれるのが、別の国でもなんでもないただの図書室であることにがっかりした私は、思わず声を漏らしてしまいました。
「まあ見てなって。多分気に入るから」
振り返ったライはニヤニヤしています。何がそんなに面白いのでしょうか。半信半疑で図書館棟の階段を登っていると、ライは図書室を無視してさらにその上へと進んでいきます。
図書館棟は図書室が最上階で、その上は無かったはずだけど……と思っていると目の前にびっしり枝に覆われた木のドアが現れました。中学校にはあまりにも不釣り合いなそのドアに私は思わず立ち止まってしまいました。このミスマッチ具合は様々な本に描かれる異世界への扉以外の何ものでもありません。してやったりといった顔のライに腹は立つものの、ひとまず中へ入ってみることにしました。
扉を開けて中を覗くと、そこもやはり図書室でした。しかし私たちの知っていた図書室の数倍は広そうです。
さらに私の目を引いたのは、部屋全体がとてもカラフルであったことです。本棚に近寄って私はその理由に気付きました。どうやら、本がそれぞれ色とりどりの光を放っているようなのです。
白から青、緑にピンク、真っ赤に光っている本もあります。緑に光る本を手に取り、面白そうだと思ってパラパラ見ているとその光は非常に赤に近いピンクへと変化しました。本の光は、私の興味の有無を明確に反映しているようです。
私はもうひとつ、面白いことに気付きました。本の膨大さや装丁の多彩さなどから、この図書室には日本だけではなく外国の本もあるようなのです。しかし、外国のものと思われる本でも決して読めないということはなく、タイトルも内容も直感的に頭へと入ってくるのです。
私はこの不思議な図書室に夢中になってしまいました。ライはというと、口を出さないことに決めたようです。司書さんが座るカウンターの所で、目を丸くしている私を見つめています。時間は止まっていることだし、と私はピンクに光る本を2冊と赤く光る本を3冊取り出し、椅子に座って読み始めました。
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どのくらい経ったのでしょうか。静かな雰囲気ながら完全に沈黙が支配しているわけでもない、居心地の良いこの空間で私は、時間が経つということを忘れてしまっていたようです。気付いた時には私の周りには本の山が出来ており、私はといえば知識を詰め込んだ後の心地好い疲労と空腹でもはや何も出来なくなっていました。
そんな私の様子を見計らったのように、ライが声をかけてきました。
「今日はそろそろ疲れたかな?」
「うん」
私がそう答えるとライは私が読み終えた本を元あった場所へ飛ばして戻します。目を向けると、それらはもう光ってはいませんでした。読み終わった、ということを示しているのでしょう。
「また来れる?」
「もちろん」
ライが大きく頷くと同時に、私の頭の奥の方でばちんと何かが弾ける感覚があり、私は教室の自分の席へと戻っていました。先生は相変わらず寝ている生徒を無視して気だるそうに教科書を音読しています。周りも相変わらず体育の後の疲れを引きずって眠りこけています。時間はあれから止まったままだったのでしょう。
しかし私は。私だけは、今までとは決定的に違うのだということがはっきり分かっています。なんていったって妖精と普通じゃ考えられない不思議な図書室へ行ってきたのです。ライがまた来れると言ったからには、また行けるはず。そう信じた私はそれ以来五時間目の国語を心待ちにするようになりました。
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そうして私は、毎週欠かさずにその図書室へ、ライと一緒に通いました。プール締めの時、長期休みの時、進級の時など、様々な節目ごとにライは現れてくれないのではと不安に駆られましたが、ライはとうとう卒業まで私の所に来続けてくれました。
図書室に通って知識欲の限界まで本を読むことを繰り返す中で、私は自分の知識が完全ではないこと、幅広い意見を採り入れることの大事さを実感していきました。
あの図書室での思い出が直接何かに役立ったのかと言われると、そうではないのかもしれません。しかし幼く生意気だった私のものの見方をわずかでも変えさせてくれた。
それはとても尊く、貴重な一瞬だったのだと今になって思います。
今の私の前にもうライは現れてくれませんが、それは私が彼を必要としなくなったからなのだと思っています。人生が行き詰まった時にはまた出て来てくれると信じていますし、私の子供にも姿を見せてくれると信じています。
だって、彼の図書室ほど子どもたちにとって魅力的で役に立つ場所は無いでしょう?
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