第9話 さくらが散る、君の背を見る

 乗り込んだバスの窓から、クリーム色を帯びた春の日差しと、薄ピンクの花びらが降ってきた。

 窓の外では、川縁に立ち並ぶさくらの木が、折しも強い風に吹かれて花びらの雨を降らせている。川面を覆う薄ピンクは柔らかな日差しを受け、天然色のカーペットみたいにどこまでも続いている。

 この、さくらの散り際にだけ現れる春の道がどこまで続いているのか確かめたくなって、わたしはバスの降車ボタンを押した。



 一個先のバス停で降りて、川岸に向かい土手を降りていく。足元には名前も知らない草花が茂り、空に向かって青々と伸びている。むせ返るような草いきれを吸い込みながら、川面を埋め尽くし、上流から下流へ、ゆっくりと滑るように流れていくさくらの花びらを見つめる。柔らかな、けれど確かな熱を持った日の光が水面付近で砕け、さくらの花びらでできた道は、遠く陽炎のように揺らめく。

 ふと、ゆらめいた光の中、遠ざかる一つの影を見る。

 薄ピンクの道を跳ねるように、弾むようにステップを踏む、少女の背中だ。

 待って、行かないで、とわたしもその背中を追いかけて、水面の上――さくらの道を駆け出す。踏み出したローファーの靴底は花びらを踏み抜いて川に落ちることもなく、花びらの下に小さな波紋を広げながら、わたしの体を運んでいく。

 どれだけ走っても少女の背中は近づかず、春の風が吹き付ける度、舞い落ちる薄ピンクの欠片たちに埋もれて見失いそうになる。ふわり、と夢のように彼女の髪が花びらと戯れるように踊る。悪戯な春の精みたいに、わたしをさくらの道に誘ってここではないどこか別の場所へ連れて行こうとしているような。

 ふいに、足元の薄ピンクが途切れ、ローファーの裏にしっとりとした土の感触を覚える。

 振り返ると、歩いてきたはずの川も消え、辺り一面緑で覆われている場所に立っていた。

 また、強い風が吹いて、日差しで白く染まる視界の中を無数のピンク色が振り落ちていく。手で作った庇の下、細めた目の先で、彼女の背中を見る。

 彼女が立っていたのは、一本の大きなさくらの木の下。舞い落ちる花びらをバックに振り向いた彼女が、一瞬だけわたしに微笑んで、そのまま木の枝が作る影の中に沈む。

 置いて行かないで、わたしも連れて行って、と駆け出したわたしをからかうように、彼女の背はさくらの木の太い幹の向こうへ消える。

 さくらの木の下にたどり着いたわたしがその向こうを見るために回り込もうとすると、彼女もまた反対側に回り込んでしまう。ぐるぐるぐるぐる、さくらの下を何度も回る。すぐ近くにいる彼女との、終わらない鬼ごっこのような、かくれんぼのような。くすくすと、楽しげな笑い声と気配はするのに、彼女はもう永遠にその背中も、微笑みも、わたしには見せてくれない。

 疲れてさくらの木の根元に座り込むと、反対側で彼女も同じように腰を下ろした気配がする。

 少し汗ばんだ首筋を、春の風が撫でるように吹いていく。見上げると、さくらの天蓋の隙間から木漏れ日が差して、眩しさと愛おしさと、ほんの少しの寂しさに目を瞑る。

 穏やかな風は、緑と土の混じり合った匂いでわたしの体を包む。微睡んでいく意識で、その中にほんの一瞬、彼女が好きだった制汗スプレーの柑橘の匂いが混じるのを感じた。

 


 ブー、とスカートのポケットの中が揺れて、わたしは目を開ける。

 目の前には白く輝く緑と薄ピンクの景色ではなく、薄暗いバスの車内風景。どうやら、居眠りをしていたらしい。

 ポケットからスマホを引っ張り出すと、一件のメッセージ通知。開くと、一枚の写真が表示される。

 それは、一本の大きなさくらの木と、自撮りをしたのか手前側で変な顔をして映っている一人の少女。

 なんだ、こんな簡単に顔、見せてくれるんじゃん、とわたしは苦笑する。

『綺麗でしょ? 今日偶然見つけたんだ』

 続けて送られてくるメッセージに、わたしは少し考えて返事をする。

『うん。綺麗だったね』

『なんで過去形?』

『なんとなく』

 車窓からほとんど散ってしまった川縁のさくらを眺め、その向こうに、わたしは彼女が見ているであろう満開のさくらを想像する。

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