泡沫へと消えた想い

龍崎操真

人間になる代価

 ここは海底の人魚の歌が響く海底王国。

 時折、気まぐれに人魚たちが浅瀬の方に上がって地上の風景を楽しみながら唄を歌う事もあり、「その歌声を聞いた者には幸福が訪れる」などという言い伝えが出来上がってしまったが、それ以外は穏やかに時が流れる国だ。

 だが現在、平穏に暮らしていた人魚王国を震撼させる事件が今まさに起きようとしていた。


「えっ! あなたを人間にして欲しいですって!?」

「しーっ! 誰かが聞いていたらどうするの」


 あまりの声の大きさに赤毛の人魚が、口元に人差し指を当てて注意した。その後、ロングストレートの赤毛を揺らしながら周囲にこの話を盗み聞きしている者がいないか警戒するように海と同じくらい青い瞳で辺りを見回した。

 一方、話し相手であるコーラルピンクの髪をショートカットにした人魚は注意に対して、申し訳ないと無言で手を合わせた。

 赤毛の人魚がここまで周囲を気にするのには理由がある。

 何を隠そう、この赤毛の人魚は王族の一人娘。いずれ王国を治める立場にあるお姫様なのだ。

 そんな重要な立場にある者が突然自室に飛び込んで来て人間になりたいと相談しに来たとあっては、驚くなと言う方が無理な話だろう。

 そして、姫の相談相手であるコーラルピンクの人魚は幼い頃から遊んでいた幼馴染だ。王宮に仕える魔女として親の代から付き合いがあり、小さな頃からなんでも話しあって悩みを解決してきた大親友とも呼べる仲なのだが、今回の姫によるお悩み相談は今までのそれとは規模が違い過ぎる内容だった。


「いきなり人間になりたいなんてどうしたのですか。いったい何があってそんな事を……」


 落ち着きを取り戻した魔女は、とりあえず事情を尋ねる事にした。

 当然だ。人間になるという事は海の中での生活を捨てる事を指す。それはつまり姫としての立場を捨てるのと同義でありよっぽどの事情があるのだろうと魔女は感じた。

 対して姫はというと窓の外を物憂げな表情で見つめていた。やがて自分の意志を確認するように胸に手を当てると、姫は意を決した表情で魔女に事情を話し始めた。




 遡ること、三週間ほど前の出来事だった。

 姫は浅瀬に上がり、いつものように唄をウミネコ達に聞かせて遊んでいると、人間が海を渡る時に乗る船という乗り物の残骸が流れてきた。どうしたのだろうと船の残骸が流れてきた沖の方へ様子を伺いに向かうと、なんと人間の男が気を失って海に浮かんでいたらしい。

 王宮の図書室にある書物によれば、人間は水の中では呼吸する事が困難でずっと水の中にいると、もがき苦しみながら死んでいくと書いてあったのを姫は覚えていた。なので、急いで気を失った男を地上へ連れていき命を救ったという事があったのだが……。


「私、あの時以来その人の顔が頭から離れないの……。むしろ思い出す度にその人に会いたいという思いが強くなってしまって……」

「ええ。それで?」

「だから地上に行く度にね、その人のことを探して岩陰からそっと見つめていたんだけど、それだけじゃもう我慢できなくなってしまったの」


 そこまで聞いた所で魔女は察してしまった。姫様は、私の唯一無二の親友は地上の男に恋をしたのだ、と。

 同時に魔女は胸の中でチクリと痛みを覚えるのを感じた。

 そんな魔女の心中などいざ知らず、姫は話を続ける。


「私、たぶん恋をしたと思う。いいえ、もう全てを投げ捨てても良いくらいあの人を愛してる。でも、私は地上に出ることができない人魚であの人は水の中を生きていけない人間……このままじゃ、ずっと陰から見守る事しか出来なくてもどかしいだけだわ。それでどうすれば良いのか考えていたら思い出したのよ……。あなたは薬の調合が得意だった事を」

「ま、まさか……」


 魔女はこの次に姫が口にするであろう事を思い浮かべた。いや、思い浮かべてしまった。

 姫も魔女が考えた事を正解だと頷き、改めて来た時と同じ事を口にした。


「そう。あなたの手で、私を人間へと変える秘薬を調合して地上を歩けるようにして欲しいの」





 姫が部屋を去った後、一人になった魔女は溜め息を漏らした。

 結局、魔女は人間にして欲しいという姫の依頼を断る事が出来ずに勢いに押し切られる形で引き受ける事になってしまった。


「まったく人の気も知らないで……」


 魔女はもう一度、深い溜め息をつく。

 その後、机の引き出しを開け、小瓶を一つ取り出し机の上に置いた。中を満たすターコイズブルーの液体は姫が欲しがっていた例の薬だった。


「なんでこんな時に限って私は持っているんだろう……」


 人差し指で小瓶を小突きながら、魔女は現在の状況を嘆いた。

 遡ること一年前、魔女が王宮の書庫を漁り、書物に書かれている色々な薬を調合して遊んでいた時のことだ。

 適当に本のページをめくり、次はどの薬を調合しようかと品定めしていると、あるページが目に止まった。

 内容を読んでみた感想は、自分には少し難しそうな難易度だけど面白そうくらいの物だった。だから腕試し程度の軽い気持ちで挑戦したところ、なんと調合に成功してしまったのだ。


 せっかく作ったんだから使って、その効果を実験してみたいな……。


 この時の魔女の心には達成感以外なかった。ちょっとしたテストに合格した時のようなものだ。

 だから、自分の作った薬がどういうもので、どういう危険性があるのかまでには気が回っていなかった。

 効果と使う際の注意事項を読んだ時、背筋がゾッとした事を魔女は今でもよく覚えている。

 その時に作った薬こそが人魚を人間に変える秘薬。今、目の前にある物だ。

 あまりの恐ろしさに魔女は一度、薬を捨ててしまおうと考えた。

 だが、薬に携わる者として一度完成品まで仕上げてしまった物を廃棄する事がどうしてもできなかった。

 なので机の奥に押し込んで極力、薬の存在を思い出さないように努めた。


「はぁ……」


 魔女は本日、三度目ほどになる深い溜め息を吐いた。

 姫は幼い頃から一緒の時間を過ごしてきた大切な親友だ。今は王宮の仕事が忙しくて彼女と遊ぶ時間は減ってしまったけれど、それでも大切に想う心は変わっていない。だからこそ、魔女は大いに悩んでいた。

 彼女の想いを叶えてやるべきか、それとも心を鬼にし、嫌われる事を覚悟で渡すことを拒むべきか。

 小瓶の中で揺れる水面を眺めながら彼女は一晩中、どうするべきかを心の天秤に問いかけていた。




 三日ほど経過した朝、魔女は薬が出来上がったと連絡し、姫を呼び出した。

 待ち合わせ場所は海底王国の出入り口である珊瑚の門の前。

 先に来て姫の到着を待っていると、息を切らして街中を泳いでくる姫の姿を見つけた。


「おまたせ! 薬は!?」

「ええ。こちらに」


 魔女は先程から握りしめていた秘薬が入った小瓶を姫に見せた。

 しかし、姫が秘薬を受け取ろうと手を伸ばした瞬間、魔女は薬を持つ手を引っ込めてしまう。

 姫は不思議そうな表情で魔女を見た。


「どうして渡してくれないの?」

「姫様、これを渡す前にいくつか確認したいことがあります。とても重要なことです」


 あまりに真剣な魔女の表情に姫は思わず背筋が伸びるような感覚を覚えた。よっぽど重要な事に違いないと表情を引き締める姫。

 対して、魔女は一瞬、躊躇うように言葉を詰まらせるが、もう後戻りできない事を受け入れ問いかけた。


「あなたは全てを懸ける覚悟がありますか?」

「ええ。もちろんよ」


 魔女の問いに対し、姫はしっかりと頷いて応える。しかし、魔女は重ねて問いを投げかける。


「この先、生きてる間はずっと地獄のような苦しみが待っているとしてもあなたは地上の御仁を想い続ける事が出来ますか?」

「私があの人への想いは永遠の物よ。これからもずっと」


 先程と同じように姫は頷いて応えて見せる。そして魔女は三度みたび、問いを投げかけた。


「たとえ結ばれる事が叶わず、死ぬ事になったとしても姫様、あなたはその方を愛する事が出来ますか?」

「私の愛はずっとあの人に捧げるわ」


 三度の問いを姫は全て揺らぐ事なく確固たる自信を持って地上の男を愛すると答えた。ここまで強固な物なら、いくら説得したとしても彼女の意思を変える事は不可能だろう。

 観念して魔女は秘薬を差し出し、その効能を説明し始めた。


「この薬は飲んだ者の下肢を人間の物へと変えます。でも、魚の尾から人間の物へと成ったその下肢は潮風が吹くだけで皮膚が切り裂かれるかのように、歩くという行為を行う度に剣で貫かれたのかように痛みを感じる事となります。そして……」


 言葉を切り、魔女は深く息を吸う。そして彼女も覚悟を決めるように一番重要な部分を口にした。


「想い人を振り向かせる事が出来ないと諦めた場合、姫様は泡となってこの世界から消えます。よろしいですね?」


 泡となって消える。この部分を聞いた時、姫は一瞬だけ顔が青ざめたように見えた。だが、すぐに決意に満ちた表情へと戻り、薬を手にした。


「分かったわ。私、必ずあの人と結ばれてみせる」


 気合いを込めるように姫は両手で拳を握り、決意を新たに海面を見上げた。その表情を焼き付けるように魔女はしっかりと見つめた。

 そしてお互い両手を取り、たぶん最後になるであろう別れの挨拶をした。


「さようなら。元気でね」

「姫様も。結ばれる事を祈っています」


 手を離し、姫は魔女に背を向けて地上へと泳ぎ始める。


「姫様!」


 声が届かなくなる前に、魔女は姫の背中に呼びかけた。


「これからも私と姫様の関係は変わりありませんか?」


 魔女の呼びかけで立ち止まり、振り返った姫は、別れる寂しさを紛らわすように精一杯の笑顔を浮かべて答えた。


「ええ、そうよ! 私達はこれからもずっとよ!」


 そして、姫は声の届かない範囲まで行ってしまい、もうこれで本当にお別れなのだと魔女は悟った。


 さようなら、姫様。


 だんだんと小さくなっていく背中を見送った後、魔女は用意していたもう一本の秘薬が入った小瓶を取り出した。

 そして一気に中身を飲み干した魔女の身体は、泡となり海の中へと消えた。

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泡沫へと消えた想い 龍崎操真 @rookie1yearslater

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