第30話 師の我が儘、弟子の我が儘・2

 ここへ来た当初は、家事ばかりをやらされた。

 近隣に村などなかったから森や山から食材を調達するしかなく、気付けば山菜採りや狩猟の技術が上達していった。


 ウサギをさばくのに慣れてきた途端、全く読めないフェミプス語の本と辞書を押し付けられ、毎夜朗読を命じられた。

 調べていくうちにそれが官能小説の類だと気付かされ、ターフェアイトからは『もっと感情をこめて読んでよ』と笑いながら無茶振りをされたものだ。


 数冊読み切った頃になると、抜き打ちでフェミプス語のテストが日常茶飯事となっていた。

 読むのに時間がかかったり間違えると、脛を板の切れ端で叩かれた。

『足は狩りがやりにくくなるからやめて』と言ったら尻を叩かれるようになり、湿布を貼る範囲が広くなった。


 フェミプス語が一通り読めるようになって、ようやくターフェアイトは魔術の適性を調べ始め、リーファは土・植物系の適性が高い事が分かった。

 ここへ来てから丸一年が経過していた。


 程なく、魔術の制御に最も重要な”集中力”の高さが認められた。

『狩猟を覚える過程で身に着けたものだろう』と、ターフェアイトは驚いていた。


 護身用魔術の習得を望んでいたから、短い呪文で発動するタイプの一言いちごん魔術を覚えさせられた。

 威力は低く高い集中力を要求されるが、魔術が知られていない土地で奥の手として持つには十分だった。


 他には、日々の暮らしに使えそうな火・水・風の生成や、適性があった土壌の調整、植物の成長・加工を中心に習得した。母が診療所勤務をしていて薬草の知識は多少あったから、何か役に立つのではと考えての事だった。


 魔術を習得していく中、ターフェアイトが苦々しい顔つきでぼやいていた事がある。


『アタシ達は魔術を”魔術”として認知し、人知を超えたモノとして扱ってるが…。

 薬草を使い分け、地べたに這いつくばって獲物を追っていた遥か昔の連中にとっちゃ、案外自分の手足を動かすのと同じ程度のものだったのかもしれないねえ。

 …あんたの育ち方を見てると、何となくそう思うよ』


 そう思わせる程に、リーファはめきめきと上達していったようだ。


 家事全般をこなし、日々の食料調達に頭を悩ませ、ターフェアイトに叩かれながら魔術の勉強に明け暮れていたリーファとしては、『そんな事言ってる暇があるなら洗濯物くらい自分で片づけてよ』と厭味を返したものだ。


 リーファの魔術の上達を複雑な心境で見ていたターフェアイトだが、失敗を重ね二十一回目でラザーの使役に成功した時ばかりは、自分の事のように喜んでくれたのを覚えている。


 ◇◇◇


 腹立たしくて、悔しくて、辛くて。『早くここを出たい』と何度思ったか分からない。

 しかし、ターフェアイトから許可が下りラッフレナンドへ戻ってからは、大抵の事に動じなくなっていた。


 独りで生きて行く事への不安は無くなり、暴漢に襲われた時は魔術で何とか撃退出来た。

 ターフェアイトに師事した事で被った問題も多かったが、得られた幸福も多かったように思える。


 今こうしてアラン達の役に立てているのは、ターフェアイトの指導あっての事───そう言ってもいいのかもしれない。


 リーファは伸びて来るターフェアイトの手を取って、彼女の弟子としてそれに相応しく応えてみせた。


「…別に私だって、感謝されたくてやってる訳じゃないの。

 私は弟子として、師匠の最後を見届けにきただけなんだから。

 そう…私のも、ただの我が儘なんだからね」


 下手くそなウインクをしてみせると、ターフェアイトは口をぽかんと開けて呆気に取られていた。

 腹の底からおかしかったらしく、彼女は表情を緩めて笑い出した。


「そう…だね。ああ、さすが…アタシの、弟子…だ…。

 ふふ………ははは………ははははは………───」


 部屋の中に響き渡る掠れた笑いが、時間をかけてゆるゆると消えていく。

 リーファの手を握るターフェアイトの手に力が無くなり、重くなっていく。


 やがて静寂が、部屋を支配した。


「お疲れ様…師匠」

「おつかれ、たーふぇ」


 リーファとラザーは、ターフェアイトへ別れの言葉を手向けた。

 老女の手に手を重ね、瞳を閉じてささやかな祈りを捧げると、さほども時間はかからず彼女の体の中から魂がゆらりと出てきた。


 ターフェアイトの魂の尾はとても長かった。

 同じ時を過ごしたはずの仲間達の魂よりも遥かに長く、彼女が長い年月をかけて色んな道程を歩んできた事が伺えた。尾が形作る模様が天井を覆っても、彼女の体から魂が抜けきらない。


「これが、師匠の生きた証…」

「そして、極上の贖罪」


 ふっ、と湧いた気配に、天井を仰いでいたリーファは扉の方を見やる。

 そこに佇んでいたのは、一匹の狼のような姿をした生き物だった。


 眼光は鋭く琥珀色に輝き、赤毛色の豊かで毛並み艶やかな獣のような何か。

 名前を思い出すのはラザーの方が早かった。恐らく、時々会っていたのだろう。


「あ、でぃえご」


 ディエゴと呼ばれた狼は、ラザーの姿を見てこくりとうなずいた。


「お前が番をしていないからもしやと思ってな。勝手に入ったぞ」

「うん、いいよー」


 何とも軽い口調でラザーも応える。

 リーファは小首を傾げて、ディエゴに声をかけた。


「ご無沙汰してます。ディエゴさん」


 愛想笑いを向けるリーファを、ディエゴは目を細め怪訝そうな顔で見ている。人ならともかく、獣の表情は分かりにくいから実際そうであるかまでは分からないが。


「…まみえたか?名は?」

「忘れたんですか?ひどい。リーファです。エセルバートの娘。

 三年前、ここにいた時に会ったでしょう?」


 ぱた、とディエゴは尻尾で床を撫でた。少ししょぼくれているような気がする。


「…二度は忘れぬ」

「本当に忘れてたんですね。ひどいです。

 あと、さっきの。をかけたクチですか。色々ひどいです」

「………………くすん」


 今の今までどこか威厳たっぷりだったのは見せかけだったのだろうか。リーファになじられてしまったディエゴは、部屋の隅っこに行って拗ねてしまった。


 ディエゴは、ここら辺一帯を担当している狼型のグリムリーパーだ。

 人の町村を人型のグリムリーパーが担当するように、獣が多い土地では獣型のグリムリーパーが担当する。赤毛の狼の姿は本物の狼たちから見ても珍しいようで、彼はひとり気ままに担当地区を歩き回って魂を回収しているらしい。


 さすがに苛めすぎてしまったようだ。背中を向けて座り込んでいるディエゴに、リーファは慌てて声をかけた。


「な、泣かなくても」

「渾身のギャグだったのに」

「う、うん。そうだったんですか。それは悪い事をしました。ごめんなさい」

「「………お前は昔っから、そんなだねえ」」


 リーファ達のやり取りを黙って見ていられなくなったのか、ターフェアイトの魂が人の形を成して姿を現した。肉体を失った為か、その姿は半透明で安定していないし、足元から繋がっている白い尾はかなり長く伸びている。


 さっきまで今生の別れを演出していたと思ったら、いけしゃあしゃあと出てこられてしまい、リーファの涙も引っ込む思いだ。分かっていた事だから、元々涙など出なかったが。


「「ディエゴには、今までの悪行を見逃してもらってたからねえ。

 やる事やったら、アタシの魂をくれてやる約束をしてたんだよ」」

「ここまで育った魂、そうお目にかかれるものではないからなぁ」


 不貞腐ふてくされていたディエゴは顔をこちらに向け、どこかワクワクした面持ちでターフェアイトを仰いでいる。

 リーファも、ターフェアイトとその魂の尾を感心しながら仰いだ。


「私もここまで長いのは初めて見ました。…なんか喉詰まらせそうで怖いですけど」


 その発想はなかったのだろうか。ディエゴがリーファを見て「んむ?」と首を傾げ、改めてターフェアイトを見つめる。


「…詰まる、だろうか?」

「「さあねえ。アタシはご馳走様される身分だから分っかんないけど」」

「細かく千切ったら食べやすいのでは?」

「ちぎる、てつだう?」

「「え~?頼むから、痛くしないどくれよ」」

「…これから死ぬというのに呑気なやつらよ…」


 ターフェアイト達の何とも緩い会話に呆れかえったディエゴが、大きく溜息を吐いたのだった。

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