第25話 二度目の別れを越えて

 リーファは闇の中、静かに目を覚ました。


 どれだけの時間が過ぎたのか、そればかりは分からないが。

 痛みも、苦しみも、周りの励ます声も、自分の泣き叫ぶ声も。

 そして、やがて誰からも零れた諦めの溜息も。

 全て、覚えている。


(………ああ)


 目尻からこぼれ落ちる涙を拭う事も億劫で、部屋の天蓋を見上げる。

 いつもの側女の部屋かと思ったが、部屋に広がる誰のものでもない匂いがそれを否定していた。恐らく別室だろう。


(何にもならなかった)


 また一筋、目尻から伝って流れた。

 胎の子は逝ってしまった。恐らく見合いも全て破談となってしまっただろう。

 せめて何かが成ればと思っていたのに、結局全てが台無しになってしまった。


 ───何がいけなかったのか、そればかりを考えていた。


 見合いの日程を先にしてもらうべきだったのか。

 独り実家に戻っているべきだったのか。

 アランから離れるべきだったのか。


 こんな、何にもならない女に、何の価値があるのだろうか───


「何故泣いている?」


 聞き慣れない低い声音が、リーファの耳に触れた。

 アランやヘルムートの声ではない。もっと心の奥深くから響く声に、リーファは目だけを動かして辺りを見回し、そして見つける。


「あなたは…」


 ベッドの左側に、一人の男が佇んでいた。


 茜色の髪は真っすぐに腰まで伸び、同じ色の瞳がリーファを見下ろしている。足元までの長さの貫頭衣に金糸の袈裟の上掛けを羽織った男だ。顔立ちはとても整っているが、そこに感情らしき感情はない。


 一度だけ見た事があった。確か、アランと一緒にグリムリーパーの城に行った時に会った───


「ザハリアーシュ。父なる王はそう私を名付けた」


 そうザハリアーシュは名乗る。


 グリムリーパーの王ラダマスに、妊娠の報告と一緒に城下の代行者の派遣をお願いしていたのだ。恐らく、それで彼が来てくれていたのだろう。


「何故泣いている?」


 淡々と、ザハリアーシュは訊ねてくる。

 彼が何故ここに来てくれたのかは分からないが、彼にとってそれは必要な問いかけなのだろう。


 体を起こそうとすると、鈍い痛みが走って辛い。リーファは首だけ動かして、ザハリアーシュに答えた。


「大切な人を、亡くしました………守らなきゃ、行けなかったのに。

 私だけが、助けられたのに………」


 顔を傾けたら後悔が溢れ、また雫が目尻から落ちていく。


 彼は神妙な面持ちでうなずいて、ゆるりとリーファに指を差し示した。


「それは、その魂か」


 その指先がリーファを示していない事に気づくのに、少しだけ時間がかかった。


「──────」


 自分の右肩の方を示すそれを見て、大きく目を見開く。

 何故気が付かなかったのか。こんなに大きくて、こんなに側にいたのに。気が付かないはずはないのに。


「あぁ………ああ………!」


 そこにいたのは、親指ほどの大きさの白くぼんやりと発光するもの───魂だった。

 思い出を得たのだろうか。ほんの少しだけ、この子の生涯を表す白い帯が伸びていた。


其方そなたの側から離れないでいた」


 涙が止めどなく溢れてくる。嗚咽が止まらない。痛みを堪えてどうにかリーファは体を横に倒し、両手でその魂を包み込んだ。


「ごめん、ね…!

 守ってあげられなくて………ごめんね………!!」


 きっと誰かに聞かれてしまうだろう。毛布で口を押さえ極力声を抑えたとしても、誰かが駆け込んできてしまうに違いない。

 それでも、この涙を止める事は出来ない。

 この魂の全てを奪ってしまった無力な自分に今出来る事は、泣いて詫びる事だけなのだから。


 ───不意に。

 リーファの頭を、何かが触れてきた。

 それがザハリアーシュの手なのだと知ったら、急に体を軋ませる痛みが和らいでいく。


 淡々と、ザハリアーシュは告げる。


「父なる王は、私の手は”魔王の癒し手”と───同胞を癒す手だと、教えてくれた。

 失われたものは戻らぬが、痛みを取り除く事は出来よう。

 …今は思うがまま、在るがいい」


 同胞の慈悲に触れ、リーファは少しの間、その魂を抱えてすすり泣いた。


 ◇◇◇


 ───泣いて。泣いて泣いて。泣いて泣いて泣いて。


 涙の川で全てを押し流してしまう事もなく、枕とシーツに染みを作るささやかなものであったが、その間ザハリアーシュは静かにリーファの頭を撫でてくれていた。

 彼の手は心地よく、体と心を温かくしてくれているようだった。傷を癒す魔術とも違う、不思議な力だ。


「ありがとう…ございました」


 ようやく体を起こせる程に癒されたリーファは、ベッドの縁に腰かけるザハリアーシュに頭を下げる。


「…その魂、受け持とうか?」


 それは非情ではあったが、正しいグリムリーパーの在り方には違いなかった。

 手の中に収まる小さな我が子の魂を見下ろし、リーファは静かに首を横に振った。


「いえ………私が、この子に出来る、最後の務めです………私が」

「…分かった」


 この子に捧げる涙は枯れ果てた。これ以上ここに残していても、この子の為にならない。


 リーファは魂をすくい上げ、口の中に放り込んだ。

 味もなく、綿を含んでいるようなそれをゆっくりと嚥下えんかして魂を送る。


(さようなら)


 もう涙は出なかった。泣くことなど出来ない。泣いてなどいられない。


「ラダマス様に、伝えて下さい………。『仕事に戻ります』と」


 リーファの言伝ことづてを受けて、ザハリアーシュは目を伏してうなずいた。


「…伝言、確かに」


 目的は達せられたのか、彼の姿は夜の闇に消えていく。もう何も残らない。


 ザハリアーシュがいた場所をただ見つめて、リーファは目を細めて思う。


(甘かった)


 油断していた。何とかなると思っていた。

 自分の場所が、全てを包み込む上等なクッションの真ん中だと思い込んでいた。


 戦場なのだ、ここは。

 大切なものは守らなければ容易く奪われてしまう。

 武器を───傷つくのを恐れて使っていなかった武器を手に取らなければ、生き残れない。

 それによって”魔女”とさげすまれ、恐れられる事になろうとも。


(強く、ならないと)


 瑪瑙めのう色の瞳に、光の揺らめきが戻っていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る