第22話 懺悔はもう届かない・1
リーファが階段から転落して、二時間程が経過した。
医務所に連れて行かれたリーファの状態は、外傷自体は軽い打ち身と足の捻挫程度で済んだが、下腹部からの出血が酷く、胎の子は未だ予断を許さない状況だという。
転倒した時に外れてしまった彼女のイヤーカフは、運ばれた際に付け直させている。この謁見の間は医務所と隣接しているが壁は厚い為、常人の耳にあの嘆きが届く事はない。
ヘルムートの”耳”は、全部受け止めてしまうのだが。
「僕の、ミスだ」
玉座に座するアランの
無言で正面の扉を見据えているアランは、二時間前に比べれば幾分か落ち着いているように見えた。
しかし、人を寄せ付けない雰囲気は玉座の階下にいる者達にも伝わっているようで、近衛兵の槍を持つ手が小さく震えている。
「音は、聞いていたんだ。リーファの部屋の扉を開ける音は。
でも、すぐに部屋から離れていたようだから、ただの悪戯なんだと思い込んでた。
まさか、あんな事になっているなんて…」
「言うな」
目を細めて扉を睨むアランは、冷徹にヘルムートの言葉を断ち切った。
「リーファが口止めしていたのだろう。物が無くなる事は」
「………………」
リーファと会った時に察したのだろう。ヘルムートは押し黙る。
───ヘルムートがリーファの部屋の惨状を目の当たりにしたのは、騒動の直後だった。
部屋の変わり果てた姿に、ヘルムートは昨晩の事を後悔した。
リーファから物が無くなる話は聞いていたから、禁書庫に
爺の人柄を見込んでの個人的なお願いだが、手土産がある事だし、きっと部屋を開けてくれるだろうと思っていたし、実際一晩泊めて貰えたようだった。
そこで安心してしまったのがまずかった。
ヘルムートは翌日の事も考えて薬剤所で貰った眠剤を服用し、仕事を全て終えた夜には寝入ってしまったのだ。
側女の部屋は鍵をかけていない。そもそも錠前自体がないのだ。
本城3階は、側女や正妃、そして来賓用の個室としての部屋ばかりなので、王の出入りを妨げないようにしてある。
一応兵士の巡回はさせているが、巡回時間やルートを知っていれば部屋への侵入は難しくない。深夜ならば尚更だ。
城入りするような品格の者達が迷惑行為を働くなどと、誰が考えようか───という話だ。
今頃
「しかし、
階下で声を荒げたのは、ジェローム=マッキャロル国務大臣だった。
彼は、額から零れていく汗をハンカチで何度も拭っている。いつもはポマードで白髪交じりの金髪をかっちりまとめているが、それも汗の
「わたくしも同意見です。
陛下の気を引く為に、側女自らがしたとは考えられませんかな?」
そう口を挟むのは、司法長官のクレメッティ=プイストだ。
黒髪をオールバックでまとめ、鼻の下で整った髭を撫でた男は、疑わしげに眉根を寄せている。
今回二人を召集したのは、リーファの転倒に関わる話ではない。
側女の扱いは王自身が一任しているので、干渉する事は出来ないのだ。
「…ジェローム=マッキャロル国務大臣、クレメッティ=プイスト司法長官。
あなた方は、側女がこんな大それた事をするような女だと思っているのですか?」
リーファを悪し様に言う二人に、ヘルムートは憤りを露わにした。
一年間アランの側にいた彼女を見続けてきただろうに、この物言いはあんまりだった。
階上で苦々しい表情をしているヘルムートを見上げ、ジェロームは渋い顔で口を噤んだ。
しかしクレメッティは、形の良い髭の下で卑屈に口の端を歪める。
「あのように澄ました顔をしていても、腹の内は分からぬものです。
それに、カイヤライネン家の令嬢との見合いを破談に持って行ったのは、確か側女だったと思ったのですが、覚え違いでしたかな?」
「それは…!」
「───騒ぐな」
二人の言い合いを遮ったのは、沈黙していたアランだった。
彼は、誰にも顔を向けていなかった。下らない内輪もめ、我関せずと言わんばかりに、正面をただ見据えていた。
「問い質せば分かる事だ」
その底冷えするような声音で、場を即座に支配してみせる。
ヘルムートは息を呑み、ジェロームの汗はすっと引いていく。
クレメッティは顔をくしゃりと歪めたがすぐに襟を正し、アランに背を向けた。
階上の玉座にアラン、その
階下の左右に近衛兵が一名ずつ、その数歩先にクレメッティとジェロームが立つ。
整った場で沈黙と共に待つ事しばし。
正面の扉が
彼は謁見の間の中央で敬礼し、アランに報告する。
「陛下、正妃候補の皆様方をお連れ致しました!」
「ああ、通せ」
「は───ははっ!」
怒気を孕んだアランの返しに、衛兵は怯むようにぎちりと甲冑の可動部を軋ませた。そしてこちらに背を向け、半ば逃げるように扉へと戻っていく。
ヘルムートは黙したまま、胸ポケットに忍ばせていたモノクルを取り出す。以前購入した、夢魔のように感情を色で読み取るモノクルだ。
(こんな風に使う羽目になるなんてな…)
それを左目にかけてアランを見やると、激怒を示す赤黒いもやが彼から溢れかえっていた。
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