第17話 保護者達の集い

 しっとりとした夜、コーヒーの香ばしい香りがふんわりと執務室に広がっていく。


 こんな時間まで執務を行う事などないから、執務室の照明はそう多くはない。

 時期的に暖炉は使わないし、天井のシャンデリアに火を灯すほどの必要は感じないから、今はワゴンとテーブルに置かれた燭台だけが暗い部屋を照らしている。


 シェリーは、淹れたばかりのコーヒーをヘルムートに差し出した。


「全く嘆かわしい…。

 童貞じゃあるまいし、一人の女性を抱くのに半年も費やすだなんて…」


 ここ数日の出来事は、シェリーのストレスを増大させるものばかりで、はっきり言って今非常に機嫌が悪かった。

 ヘルムートに愚痴っておかないと、またどこかで爆発させてしまいそうだ。


「アランの好みじゃないからねえ、リーファは。

 多分、側女の登録をさせずにリーファを城から出すつもりだったんだと思うよ」

「何故?」

「君だって嫌だろう?アランの側女になるなんて」

「ええ、嫌ですよ。誰があんな、女性の扱いがなってないクソガキなんかと」


 向かいのソファに腰掛けて暴言と合わせて言ってみせると、ヘルムートはコーヒーを飲む手を止めて苦笑いを浮かべていた。


「ははは。その言い方は、血を分けた兄としては傷つくなあ。

 …でもまあ、そういう事だよ。

 リーファがあまり傷つかない内に、彼女から外に出たがるよう仕向けてたって事さ」

「あら、無断で髪を切り落とす行為ならレディは傷つかないと?

 ラッフレナンド王家の男児の頭は、とてもいかれていらっしゃるのですね?」

「い、一応言っておくけど、僕が思ってるんじゃないんだからね?」


 怒りの矛先をヘルムートにも向けると、彼はなだめるように両手をこちらに突き出してきた。


 リーファが受けていた仕打ちの多くは、心はともかく体は時間さえかければ癒えていくものばかりだった。髪も、いつかは同じ長さまで伸びてくる。

 無傷のまま彼女の神経だけをすり減らし、自発的に外へ出そうと考えていたとしてもおかしくはないのだ。


(側女と言えど、城を出る際は謝礼金が支払われる…。

 陛下に酷い扱いを受けていたと認められれば、多少なりとも増額が見込める。

 即位の成り行きで側女にしたリーファ様を、解放しようとしていたと…?)


 そんな生易しいものではなかったような気がするが、自発的、という所が問題なのだろう。


(陛下が命じてリーファ様を追い出した場合、『即位の為に側女を利用した』と見なされ、陛下の即位に異議を唱える者が出てくる…。

 しかしリーファ様が自発的に城を出た場合、『王と側女の個人的な問題』と見なされ、即位の問題と絡める事が出来なくなる…。

 リーファ様は国が乱れる事を嫌っていたというし、『揉め事を起こさずに城から出す』のはこれしかないと考えた…?)


 とても回りくどい話だ。しかしアランの立場からリーファに働きかけるとしたら、この位しか思い浮かばなかったのだろう。


「…側女の登録を止めていたのも、リーファを城から出しやすくしたかったんだろうね」

「それを、ヘルムート様は阻止なさった、と」

「阻止したつもりはなかったんだけどねえ。

 でもリーファがここにいてくれた方が、側女枠の見合いまで考えなくても済むんだよね。

 側女の登録をした事で、結果的にマイサを怖がらせちゃったのは悪かったって思ってるよ」


 などと言いながら、特に悪びれもなくヘルムートは笑う。


(ぬけぬけとまあ…)


 シェリーは嘆息し、自分のコーヒーカップに砂糖二つとミルクを入れて一口飲む。普段は何も入れないが、イライラしている時はこうして甘い物を足すのが習慣化しつつある。


「───っ」


 笑っていたヘルムートが、不意におかしな反応をするものだから、つい彼を見てしまう。

 蝋燭の火の先にいる彼は、時折表情を歪めてうつむき、耳を覆ったり辛そうにしていた。


(…ああ、今、盛り上がっているでしょうからね…)


 気をつかって執務室で会話をしてはいるが、ヘルムートの”耳”は側女の部屋での物音や嬌声や善がり声を受け止めてしまうのだろう。何とも難儀な才だ。


 気持ちが紛れるかは分からないが、シェリーは他にも気になっていた事を訊ねた。


「…陛下がリーファ様を、外へ出したがっていたのは分かりました。

 しかし、ならば何故自白剤を?」

「あ、ああ。

 最初の顔合わせで、女の子達にあまり良い印象は抱けなかったのか…。

 あるいは、最後にリーファの気持ちを聞きたかったのか。

 想像していたものとは違ってたみたいだけど、『側女の務めは果たしたい』と言ってたようだし、最後は彼女の意思を尊重したんだろう」


 ぐびぐびと品なくコーヒーを飲んでいる内に、眉間のしわが濃くなって行くような気がした。


 シェリーから見れば、リーファはずっとアランに意思表示をしていた。

 肌を整え、好みの香りを纏い、化粧を嫌うアランの為に薄化粧を心掛けていた。

 肉付きが良くなるよう食事を見直し、お腹には肉がつかないようストレッチを続け、立ち振る舞いに気を遣い。

 お菓子を作り、家庭的アピールもしてみせたのに。

 そこまでやってもリーファを認めるような事はせず、髪を切る暴挙までした。

 結局、アランの心境を一変させたのは、リーファに一服盛り打ち明けられた本音だなんて。


「…面倒臭い男…!

 最初からそうしていれば、こんな半年も…!!」


 怒りにカップを持つ手が震えた。これ以上力を籠めると取っ手を壊してしまいそうだ。


「まあまあ。シェリーも、これで肩の荷が降りただろう?」


 薄笑いを浮かべるヘルムートに、シェリーの感情が一瞬で冷めて行った。

 彼の藍色の瞳は、アランからシェリーの話題へと移そうとしていた。


 空になったカップをソーサーに戻し、シェリーは足を組んでヘルムートを見据える。


「…それはどうでしょう」

「アランからも言われてるんだろう?

 先王との約束、無理して守る事はないんだよ?」


 その言葉は、シェリーにとって甘い甘い果実のようなものと言える。


 ───慎ましやかな願いがあった。

 壮大な夢があった。

 願いはどうあがいても届かず、夢は大きな壁に阻まれた。

 いられた道で誰の助けも得られず、尊厳も誇りも踏みにじられた。


 何も残らず、何も遺せず、気が付けば十三年もの月日が過ぎ去った。

 これからもこうして生きて行くのだ、と諦めていた所に、いきなり彼女が現れた。


 彼女はひょんな事からここに置かれ、与えられた務めを果たせないまま日々を過ごしていた。

 生まれも育ちも違う彼女だったが、何故だか鏡を見ているような気がしてしまった。


 そして、同時に考えてしまったのだ。

 彼女に手を差し伸べ、幸せになれたら、鏡の前にいる自分も救われるのではないかと───


「───いいえ。

 まだ正妃様と御子をお迎え出来ていませんから」


 背筋を正しかたくなに突っぱねたシェリーを見て、ヘルムートは肩を竦めた。


「…真面目だねえ」

「抱いて頂けるようになったとは言っても、陛下の横暴にリーファ様が愛想を尽かさないとも限りません。

 側女への態度を見て、見合いを寄越してくる者達もいるでしょう。

 …もう少し見守って差し上げないと、安心出来ませんわ」

「…時間は有限だよ?」

「腐り落ちるまで、まだ時間はありますから」


 燭台の火が揺らめき、シェリーとヘルムートの影を微かに揺らした。

 ほんの僅かな間、執務室に沈黙が落ちる。

 ソーサーに置いていたカップを手に取り、ヘルムートが柔らかい笑みを浮かべた。


「…いつでも相談に乗るよ?

 アランも僕も、幼馴染として君の事は大切に想ってるんだからね」

「…お心遣いありがとうございます」

「という訳でだ。はいこれ修理代」

「───えっ」


 ヘルムートの胸ポケットから出された一枚の紙切れが、テーブルに差し出された。


 紙切れに書かれていたのは、修理代と書かれた見積書だった。

 その額を見て、シェリーの背中に冷たいものが走る。心当たりはあったが、思っていた額と全然違う。


「アランに腹立てたからって、物に当たるのはダメだよ?

 短気なとこは、ほんっと昔から変わらないよねえ」

「あ、あの花瓶はこれほど高いものではなかったでしょう?」

「やだなあ花瓶だけじゃないよ。

 花瓶が置いてあった棚に破片が散らばって、棚も傷がしっかり残っちゃったんだ。

 黒塗りの棚だから目立たないようにするのは簡単だけど、これを機に新しく変えようと思って」


 どこか意地悪く笑うヘルムートを、ついアランと重ねてしまう。アランはシェリーにこの表情を向ける事はないが、リーファに向けている態度はまさにこんな感じだ。


(こういうとこ、本当そっくりで腹立たしい…!)


 睨みつけても意味などないのは分かっている。全ては律せない自分の責任だ。

 最近、こうした事が増えてきた気がする。些細な事で腹を立て、どうでも良い事に気を散らされる。


「ああもう…嘆かわしい………!」


 特大の溜息を零しうつむいて顔を覆うシェリーを眺め、ヘルムートは失笑した。


「…まあでもね。

 そうやってちゃんと怒ってくれる君は、アランにとっても僕にとっても、貴重なんだよな…」


 優しくもどこか物悲しげにそうぼやくヘルムートの表情は、執務室の暗がりに隠れて見る事は出来なかった。

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